夜の雨 14


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 目次



「珍しいわね。あなたが飲むの」
 紅(こう)は俺の手にしていた缶ビールを見てそう言った。
 酒を飲まないわけじゃない。ただこの女の前では飲むことはなかっただけのことだ。
 黙って紅の顔を見るとストレートの黒髪が顔にかかり、目が潤んだように光っていた。
「飲むなら一緒に飲もうよ。ねえ、開けてよ」
 ドアを開けさせようと体をずらした紅の足元が危なっかしい。酔っているのか。
「開けて」
 紅がもう一度言ったが開ける気はなかった。紅を部屋へ入れて、そして紅がどうしたいのか、わかりすぎるほどわかっている。
「帰れよ」
「えー、帰れ? なに言ってるのよ。まさか奥さんのこと気にしているの。いつからそんな誠実な男になったわけ?」
 紅はまたドアにもたれてわざとらしく続けた。
「美術雑誌の副編集長のヴァレリー・ジアン。モリス画廊の奥さんのミランダ。ふたりとも結婚していたわよね、あなたが付き合っていた人。あ、付き合っていたんじゃなくてわたしと同じ体だけの
関係だった?」

「知らないと思ってた? ヴァレリーやミランダのことだけじゃない、奥さんのことだって知っているわよ」
 なにも言わずただ紅を見返しただけだったが、紅はドアから離れなかった。
「あんな人が好みだったなんて知らなかったわ。普通過ぎて、むしろ地味過ぎ。痩せすぎだし、美人でもない。それに内面もなんにもないみたい。特徴のなさが悪目立ちしそう。よくあんな人を抱けるわね。あんな枯れ木みたいな人!」
 なにも言わない俺に苛ら立つように紅の声が少しずつ大きくなってきていた。
「ねえ、奥さんをどんなふうに抱くの。あなたはあの人で満足できるの? できるわけないよね、
あなたが。あの人と結婚したのは日本に家と家政婦代わりの女が必要だったから? そうなんでしょ?」
 大きな声をあげる紅に皮肉を言う気にもならなかった。
「……また、だんまりなの」
 答えなければならない理由などない。もうこの女のなにもかもが面倒くさかった。
「俺はわめく女は嫌いなんだよ。帰れ」
「……!」
 紅が息を飲んだその時に廊下の向こうから宿泊客らしい男がひとり歩いてきた。中年のその男はじろじろと好奇の目で俺たちを見ながら通り過ぎていったが、人目も気にせず紅は俺を睨んでいた。唇だけではなく目元も赤くして。
「あんた、四月から野田先生の大学で講師になるそうだな。こんなところで男と痴話げんかなんかしないほうがいい」
 でないと講師の話も消えるぞ。暗にそう脅したのだが。
「まずいのはあなただって同じでしょ。あなたは自分で思っているより日本では知られている。わたしに騒がれたくなかったらドアを開けて!」
 じれたように紅が声を大きくした。
「断る」

「どうして……」
 紅の目から涙があふれた。
「どうしてわたしじゃ駄目なの。こんなに好きなのに……」
 紅が手で顔を覆い、ドアに寄りかかったままずるずると床へ尻をつけた。座り込んでしまった紅を見ていたがため息しか出ない。聞こえるほどのため息を吐き出したが、紅は激昂するかわりに弱々しく手で涙をぬぐった。
「冷たい人。女なんてどうでもいいと思っているんでしょ。ううん、女だけじゃない。先生の病気のことだって本当に心配しているわけじゃないくせに。あなたが大事なのは仕事。それに自分。自分のことだけが大事なだけなんだわ。もうわかった。帰る」
 妙に大人しくそう言うと紅は立とうとしたが、ハイヒールが脱げてしまっている。もう一度立ち上がろうとしたが腰が上がらない。
「立たせて。帰るから」
 仕方なく手を持って引っ張り上げようとしたがふらついた紅が廊下の床にひざと片手をついた。体の脇に腕を入れて支えてやるとやっと立ち上がった。酒の匂いのする体からすぐに腕を離したが紅は目を逸らして小さな声でなにかを言った。が、聞き取れなかった。
「かわいそうね」
 紅はもう一度小さな声で言った。今度は聞こえた。
「奥さんのことよ。かわいそう」
 乱れた黒髪の下の紅の横顔は口元がわずかに笑っているように見えた。
「おとなしそうな奥さんは知っているの。知らないわよね。知っていたらあなたと結婚なんてしないでしょうね。あなたの本当のお母さんが服役していたってことを知っていたら」

 長く真っ直ぐな黒髪を揺らして歩き去る後ろ姿を見ていた。紅の姿が廊下の向こうへ完全に見えなくなってからドアを開けて部屋の中へ入った。
 腹の中はどす黒いような怒りが沸いていたが、紅を引き戻したい衝動だけは抑えることができた。紅を引き戻したらなにをするか自分でもわからなかった。だが、そうしなかったのはそんなことをしても自分に跳ね返ってくるだけだと考えるだけの理性が残っていたということだ。
 手に持っていた缶ビールをデスクに置くと備え付けの冷蔵庫からウィスキーの小瓶を取り出し、ふたを開けると一気にあおった。アルコールの刺激にかまわず飲み干し、瓶を放り出すとシャツを脱ぎ捨ててベッドへ横になった。

 怒りは消えない。消えるわけがない。
 紅への怒り。いや、親への怒りだ。

 生きている限り親のことがずっとつきまとう。いや、死んでからもつきまとうかもしれない。自分では関係ないと切り離していても暗闇から伸びた手に足をつかまれている。俺は俺なのに、いつまでも親のしでかしたことがついてくる。思い出したくもない養父の家での暮らしもそれ故だ。
 アメリカへ行っても同じなのか。結局は……。




 翌日は新幹線で東京へ戻り、午後に村上と会う約束の場所に向かった。朝、起きたときにはアルコールが抜けきっておらず、シャワーを浴びて脱いであった服を着てそのままホテルを出てきた。どうせコートを着る。今日は仕事は入っていなかったが、東京で事務所を借りるための準備をするつもりだった。
 村上は今、クラフト市の運営をしている事務局の近くに部屋を借りて住んでいるという。結婚したと希和が言っていた。会うのは事務局で、ここには以前一度来たことがあった。村上が以前やっていたカフェをそのまま事務局にしたそうでテーブルや椅子はカフェのままだったが、書類や備品がテーブルの上にうず高く積まれていた。
「いらっしゃい」
 カウンターの中にいた村上はカフェの店主のような挨拶で迎えてくれた。
「久しぶりだな」
「そうだな」
「そこに座りなよ」
 カウンターの前に座ると村上がおやっという顔をした。俺の顔を見てカウンターの向こうでなにかしていた手を休めた。
「仕事帰りか。むっつりした顔して、どうかしたのか」
「べつに」
 昨夜のことがあってそれが顔に出ていたのだろう。
「ちょっと忙しかっただけだ。すまん」
「コーヒー飲むか」
 村上が学生時代と変わらない柔らかな物腰で聞いてきた。こいつは昔から誰でも受け入れるような男で、この男が怒ったところを見たことがない。

 村上は誰でも名を知っているような大企業を有する創業家の三男で、そのままいけば大企業の重役にもなれたのにそれを嫌って大学入学以後は家を離れていた。だからというわけではないが、村上はどこか飄々とした雰囲気を持っていた。自分の家のことを村上が口に出して言ったことはなかったが、創業家の中で壮絶な後継者争いが続いていたことは俺のような学生でも知っていた。
 しかし村上がカフェの経営から今はクラフト市の運営というサラリーマンとはかけ離れた生き方をしていても地に足が付いているふうに見えるのはやはり村上が育ちが良いからだろう。育ちとかそういうことは自分にとっては避けてきたことだから村上がただ育ちが良いだけの男なら付き合いたくない人種だったかもしれない。しかし大学で知り合って以来、 俺のような人間ともこうして卒業してから十何年も経っているのにいまだに付き合いが途絶えることがないのは村上という男の不思議なところなのかもしれない。

「結婚祝いを貰っていたな。ありがとう」
「礼には及ばないよ。希和さんにもあげたかったから」
 ひと口、コーヒーを飲むと希和の淹れてくれたのと同じ、香りの強い苦みの勝った味が口の中へ広がった。
「希和さん、元気か」
「元気だ」
 カウンターの向こうで村上がにこりと笑った。
「そう言うのを聞くとおまえと希和さんが本当に結婚したんだなって実感するよ。こう言っちゃ悪いが、おまえが結婚するなんてそんなイメージ全然なかったからな。それがあっという間に希和さんを引っさらってさ」
「なんだか人聞きが悪いな」
「あ、ごめん。だが本当にそんな感じだよ。俺のところの事務のスペシャリストを引っこ抜かれてこっちは大変なんだ。いまだに代わりの人材が見つからない」
 困っていると言った割に柔らかく笑って村上も自分のコーヒーに口をつけた。
「できれば希和さんに戻って来てもらいたいと思っているんだ。むろん仕事のことだけどね」
 村上が会いたいと言ってきたのは、このことが言いたかったのか。
「俺は希和に仕事をすることを禁じたりしていないよ。やりたい仕事があったらすればいいと言ってある」
「そうか。でも」
 村上はなにか考える顔をした。
「希和さん、そう言われてもきっと遠慮するんじゃないかなって思うけどね。周りの人に気遣いができるのはすばらしいことだけど、自分からなにかしたいってなかなか言えない人だと思うよ。俺たちみたいに我が道を行く人じゃないって思うだろ」
「そうかな」
 確かに希和は自分の言いたい事をどんどん言える人間ではないと思うが。
「あれ、もしかしておまえって希和さんを山の中の家に閉じ込めて自分だけのために待っていてほしいなんて思っているんじゃないよね」
「まさか」
 村上の穿った見方に思わず笑った。
「あの家は希和もいいって言ったんだ。そんなんじゃないよ」
 村上は静かに笑ってまたコーヒーを飲んだ。
「それよりおまえも結婚したそうだな。希和が言っていた」
「うん。今日は仕事に行っているけど、おまえ、香那と会ったことなかったかな。クラフト市で」
「いや、憶えてないな」
 クラフト市のスタッフには若い女性が何人もいたが顔までは憶えていなかった。希和だけは不思議と憶えていたのだが。
「香那も希和さんに会いたいって言っていた。三月になったらおまえの家へ行かせてもいいかな」
「希和がかまわないなら俺はいいよ。俺はいないと思うが」
「いつまで日本にいるんだ」
「二月末まで」
「そしたらまたアメリカか」
 答えるまでもなかった。
「希和さんだから待っていられるんだろうな」
 そう言った村上の言葉の中に俺を非難するような気配はなかった。
「俺もそう思う。だが希和なら大丈夫だよ」
「そうか、そうだな。おまえがそう言うなら」

 コーヒーを飲み終わると村上が自家焙煎している豆を買い、希和に夕方には帰ることをメールした。ここで村上に会ったせいか気持ちはすでに落ちついて、家へ帰ることができる。
 帰り際、村上がカウンターから出てきてドアのところで見送ってくれた。
「また来てくれ」
「ああ」
 そして村上はこの男特有の柔らかな笑顔で付け足した。
「希和さん、大事にしてやってくれよ。希和さん、本当にお前のことが好きなんだ」


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