夜の雨 13


13  秋 孝

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 京都の画家の家を訪ねると夫人が前回と同じように迎えてくれた。
「永瀬さん、いらっしゃいませ」
「お邪魔します」
 靴を脱いで上がると夫人がコートを預かってくれた。離れの造りになっているアトリエのドアを開けると野田がソファーに腰をおろしていた。
 アトリエといっても小さな美術館ほどあるその建物は完全な気温と湿度管理がされていたが、画家は奥の画室ではなく入ったところの応接室を兼ねた部屋にいた。
「永瀬君、どうぞ」
 そう言った野田の様子はいつもとは少し違って見えた。なんとなく精彩がないような感じがした。先週野田から電話をもらったときは特に変わった様子はなかったのだが。
「先生、どうかされましたか」
「あら、もうばれちゃったの」
 ちょうど茶を持って入ってきた夫人が後ろからそう言ったので野田が苦笑いのような笑みを浮かべた。
「鋭いなあ、永瀬君は」
「永瀬さん、どうぞお掛けになって。主人たら永瀬さんに心配かけたくないって黙っていたのよ」
「黙っていた? なにをですか」
 失礼しますと言ってから野田に向かい合って座ると夫人が茶を置きながら「じつはね」と続けた。
「主人は二週間前に入院して手術を受けたのよ。狭心症ですって」
「えっ……」
 驚いた。そんなことはなにも聞いてなかったからだ。
「それは本当ですか」
「そうなんだよ、永瀬君」
 気楽と言っていいほどに野田が答えたが、狭心症というのは心臓の病気のはずだ。二週間前に心臓の手術を受けてもう自宅にいることが信じられなかった。しかもこの大事な時期に。
「先生、そんな大変な事をどうして今まで言ってくださらなかったのですか。それよりも、もう退院なさっていてもいいんですか!」
 思わず声が大きくなってしまった。そんな俺を野田と夫人が驚いた顔で見た。
 野田の展覧会は今年の秋にまずアメリカで開催されることが決まっていて、そのスケジュールで動いている。野田夫妻も六月からニューヨークのアトリエに来ることになっているが、それは無理だろうか。ほかにもさまざまな予定があるのに。
「先生」
「永瀬さん、大丈夫よ」
 夫人が困ったような顔をしている野田の代わりに答えた。
「手術っていってもカテーテル手術なのよ。だから一週間も入院する必要もないの。これは本当よ。驚かせてしまって悪かったわ」
「カテーテル? しかし」
「医者からはしばらく静養したほうがいいって言われてね、これでも大人しくしていたんだよ」
 そう言った野田は確かに病気というほどではなかったが。
 カテーテルについては詳しく知らないが、野田は六十歳で若いとは言えない年齢だ。こういうこともあるかもしれないと想定してなかった自分に歯がみしたいくらいだった。
「それでは明日からの撮影を延ばせるかどうか聞いてみます。ちょっと失礼して」
「いや、いいよ、永瀬君。撮影には私は直接はすることがないし、このまま頼むよ。今から撮影を延ばすのは無理だろう」
 明日からは野田のアトリエにある作品の撮影をすることになっている。最近は美術館や大学でも収蔵作品のデータベース化は常識になっているが、今回は野田の個人データベースとしての撮影で、秋からの展覧会での画像上映と記念画集のための撮影でもあった。むろん撮影は美術品専門のカメラマンが行うことになっていて野田と俺は立ち合いだが、それで大丈夫なのか。
「先生、無理をされては困ります」
「いや、本当に大丈夫だよ。昨日の診察で医者からもそう言われている。それに永瀬君にはいろいろやってもらっているからねえ」
 野田は笑って言うが、確かに撮影を延ばすのは難しそうだ。正直、決めかねた。
「手術のこと、どうしてもっと早くおっしゃってくださらなかったのですか」
 ため息が出そうだった。
「ごめんなさいね。永瀬さんを困らせるつもりじゃなかったのよ」
 夫人がとりなすように笑顔で言った。
「主人はね、カテーテル手術が済んですぐに退院できたこともあるのだけど、永瀬さんがせっかく日本に帰って来て奥さまと久しぶりに会われているのに予定を変更したら悪いからって、それで連絡しなかったのよ」

「ご結婚されたそうね。早く言ってくださればいいのに」
 驚いて見た夫人の顔はにこやかに笑い、目はありありと興味を湛えていた。
「奥さまは東京のかたですってね。一度お会いしてみたいわ。ニューヨークにはお連れにならないの?」
 舌打ちしたいのをこらえて夫人へ軽く頭を下げた。
「それはプライベートなことですので。すみません」
「まあ、永瀬さんらしいわね。立ち入ったことを聞いてしまってごめんなさい。でも永瀬さんが結婚されたって聞いたら主人もわたしもなんだかうれしくなっちゃって」
 そう言う夫人は本当に楽しそうだった。いろいろな意味で。
「誰からお聞きになったのですか」
「紅(こう)さんよ。谷本紅さん。ご存じでしょう」
 夫人は画家の教え子を親しげに「紅さん」と、いつもそう呼んでいた。
「谷本さんとは一年以上、会っていませんが」
「あら、そうなの。紅さん、しばらくパリへ行っていたからかしら。でも年末から日本に帰って来ているんですよ。明日もここへ来てくれることになっているのよ」
 夫人が話すのを野田もにこにこと笑って聞いていた。野田は俺のような年齢の人間にも本当に人が良かった。
「うん、谷本君には今回の撮影を手伝ってもらうことにしたんだ。谷本君ならここも大学もわかっているし、君も知っている。引き受けてもらえたからよろしく頼むよ」
 野田が機嫌良く言った。

 谷本 紅は画家の教え子で、大学院を卒業してからニューヨークのアトリエで画家の助手として働いていた。美術教師の父親がつけたという紅(こう)という名前は画家を目指す谷本にふさわしく、そしてなによりその名の通り黒い髪に紅い口紅が似あう。英語も話せて野田や夫人からの信頼も厚かった。それはいいのだが。
「こんにちは、永瀬さん。お久しぶりです」
 次の日、何人かの学生と一緒に画家の家に来た谷本が挨拶した。
「今日から先生のお手伝いをさせていただきます。よろしく」
「こちらこそよろしく」
 谷本の目がじっと俺を見ていたが、画家や夫人がいる手前こちらも普通に挨拶して仕事に取りかかった。撮影のカメラマンとその一行がアトリエに着き、照明や機材などをセットしていく。学生たちが野田や谷本に指示されて慎重に作品の出し入れを手伝って撮影が行われていったが、画家のアトリエにある作品だけでも撮影するのにはかなりな時間がかかる。当然一日では終わらない。母屋のほうでは夫人が食事や茶を用意してくれていた。昼食を振舞われ野田と一緒に食べた後でひとりアトリエに戻るとそこには谷本がいて、デスクでノートパソコンのキーを打っていた。黙ってデスクに近寄ると谷本がパソコンの画面を閉じた。
「余計なことは言わないでもらえるか」
「余計? 余計なことって?」
 棘のある言い方だった。デスク越しに俺を見た谷本の目が睨むように光っている。
「俺のプライベートのことを勝手に話すな」
「悪かった? でも事実でしょう、結婚したこと。去年の五月に結婚したんですってね。それなのにひと言も言わないのね」
「あなたには関係ないだろう」
「関係ない? ずいぶんな言いかたね。関係ない。奥さんにもそう言うの。わたしは関係ない女だって。あんなに抱いておきながら関係ないって」
「誤解してもらっては困る。恋人でもなんでもない、セックスの相手だけでいいと言ったのはあなただ」
 俺を睨んでいた目が逸らされ、紅い唇が形の変わるほどきつく噛み締められた。
「そうよ。でも、だからって……」
 泣くかと思ったら泣かなかった。ここで泣かれても俺の立場が悪くなるだけだが。
「あなたとの関係は清算している。だからあなたもパリに行ったんだと思っていた。違うか?」
「パリに来てってメールしたのに!」
 不意に谷本が叫んだ。
「俺がメールは仕事以外で使わないことは知っているはずだ」
「読んだんでしょ、わたしのメール。知っていて無視したのね。あなたっていつもそう。自分の都合だけ。いつも自分のことだけで動いている」
「そういう男だと知らなかったわけじゃないだろう?」
 谷本がなにかを言おうとして口を開けたまま黙った。ドアの外に何人かの話し声が聞こえたからだ。学生たちが昼食を終えて戻ってきたのだろう。
「谷本さんも昼食をいただいてきたらどうですか」
 学生たちが入って来たのに合わせて言ってやったが、谷本はひと言も答えずに部屋を出て行った。

 野田のアトリエで、そしてその後の二日間は野田が教授をしている大学で撮影が行われたが、そのあいだ谷本はなにも言ってこなかった。俺ともほとんど会話もせず仕事に徹しているところをみると馬鹿ではないらしい。谷本がなにを言っても気にするつもりはなかったが仕事が遅れるのは困る。
 予定していたすべての撮影を終えて京都駅にほど近いホテルに戻った時はすでに深夜だった。明日は家に帰る予定だったが久しぶりに村上に連絡を取って東京で会うことにしていた。
 気を抜いたわけではなかったが、缶ビールでも飲もうと部屋を出て自動販売機があるところまで行ったのが間違いだった。廊下を戻ってくると女がひとり部屋のドアにもたれるように立っていた。ひと目でわかる、それは谷本紅だった。


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