夜の雨 15


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 希和さん、大事にしてやってくれよ。

 村上のその言葉を否定も肯定もしなかった。
 村上も夫婦のことに立ち入るようなことはしないだろうが、ああ言ったのは結婚してからもひとりで暮らす希和への思いやりなのだとわかっている。
 希和を大事にしていないわけではない。希和の希望は受け入れている。しかし。

 家に帰ったその日に希和が義父のことを話した。親にまつわるすべてのことが不愉快だったが、それを希和には悟らせなかった。以前、希和が義母から電話があったと言った時には感情を出してしまったが、もうそんなことはしない。
 希和は義父のところに挨拶に行ったらどうかと言ったが、希和は義父という人間を知らない。俺が義父に、そして義父が俺に対してどういった感情を持っているのか、それを希和に話すつもりはないがあの義父のことだ、ほかになにか言ったのかと聞けば案の定、希和はうろたえた。

 そんなに俺のことが迷惑ならばなぜ養子にした――。
 子どもの頃から何百回も繰り返した問いをもう俺は封じ込めていた。顔は平静なままで希和には義父のところにはまた後日会いに行くことを告げるとそれまで俺を窺うように見ていた希和の表情が急に変わった。泣きそうな顔でそれでも笑おうとしているような顔だった。
 希和は泣かない女だと思っていたのに。ちらりとそんな失望が心をかすめた。が、希和は泣きそうな顔はしても泣きはしなかった。義父のことは希和にしてみたら精一杯気を遣っているのだろうが、そもそもそんな必要はない。
 希和には手っ取り早く話を切り上げ、風呂に入って寝室に来るように言った。その夜の希和は恥じらいながらも俺を求めていた。

 希和が俺を好きなのだと、そんなことは村上に言われるまでもなく知っている。
 希和はわかりやすい。静かで控えめであっても俺に対する表情や仕草が希和の心の内を手に取るように伝えてくる。俺にとって希和は素直でわかりやすい人間だった。希和はそのままでいればいいのに。それなのに。

 希和は泣いていた。
 俺に抱かれながら枕に顔を押しつけて、声も出さず。





 希和がなぜ泣くのか、そんな理由はわかっている。シャツの襟につけられた口紅の跡だ。
 洗濯機の前で俺のシャツを手にしていた希和に近づくと慌ててシャツを握り締めたが、俺を見た希和の瞳が動揺していた。剥ぎ取るように希和の手からシャツを離させて見ると襟の後ろ側に赤い色がついていた。
 赤い、いや、紅い色だ。
 いつ、つけられたのだろう。ホテルの廊下でしかない。座り込んだ紅を立ち上がらせたあのときに紅の手が肩に触れた気がする。その夜に脱いだシャツをまた翌朝着て京都から帰って来ていたのが迂闊だった。

 女というのはやっかいだ。
 紅は俺のことを好きと言っておきながらこんなことをする。それとも俺が抱かなかった腹いせなのか。俺の親のことを言って希和のことをかわいそうなどと言ったが、それも俺に対する蔑みだ。希和に同情しているわけじゃない。
 嫉妬なのか、恨みなのか。
 あんな女を一時でも抱いていたかと思うと反吐が出る。俺にとってはもうどうでもいい存在だ。仕事でなければ関わることはなかった。

 俺は希和が疑うようなことはしていない。
 しかし、シャツの紅い跡を見たときから明らかに希和は様子が変わった。まともに話しかけてこないのにこっそりと俺を見ている。気にしているのに表面上はいつもと同じに過ごして取り繕っているが内心は俺への疑惑でいっぱいなのだろう。見事なほどに紅の企みにはまり込んでいる。
 希和は夜になっても寝室に入るのを先延ばしにするようにあれこれと家事をして風呂からもなかなか上がってこなかった。やっとベッドに入ってきたと思ったら離れて横たわり背を向けている。そんなことをしても抱かれずに済むわけはないとどうしてわからないのか。
 希和の体を引き寄せて服の中へ手を入れて愛撫をしたが、寒さと刺激に体が反応しても希和の態度は固かった。気持ちが固いから体も固いのだ。俺を疑っているのに、それを口に出す勇気もない。このまま希和がなにも言わないのはいいが、俺にはやましいことはない。

 体を固くしてなんとか俺から逃れようとしていても後ろから胸を探って乳首をつまみ、両足のあいだへ手を入れて愛撫をすれば希和の体の隙間が広がっていく。指を入れた隙間を広げようとすると希和は身をよじろうとしたが、希和の弱々しい抗いなど通じはしない。抵抗しながらも隙間の奥は濡れて俺の指を飲み込む。ほかには何の音もしない寝室の中で希和の奥から濡れた音を響かせてやると希和は手で顔を覆ってしまった。その両足をさらに開く。
 顔を隠したいのならそれでもいい。嫌がっているのに愛撫に逆らいようなく抱かれている希和は自分からは動こうとしないが、細い希和の体を思いのままにすることなどわけはない。うつぶせにして腰を上げさせて指を這わせ、小さな突起を刺激してやると希和の中からとろみが溢れ指に絡んだ。押し開いた希和の中は今までにないほど熱く、避妊具越しにも熱さが伝わってきた。
 俺に後ろから穿たれて希和の顔は見えないが、体を震わせながら時折うめくような声が漏れてくる。夜の冷気の中で体の表面は冷たく冷えていくのに交わっている奥は熱く、水音が増していく。
 希和からの快感に腰を打ち付けて揺らすたびに希和の体も揺れた。顔を枕へ押しつけていてもしゃくりあげるようにするたびに希和の体もびくつき、ぶつかった。希和の内部がうねるように締まって快感を与えてくれるが、まだ達するほどではない。希和の腰を手で固定して揺れるほどに内部を擦り上げて自分の中の快感を迫り上げた。
 希和も快感を感じているはずだ。ひくつく希和の内部がそれを物語っている。そんな希和の中で自分を解放させるのは快感だった。かつてないほどに高ぶり、そして放った。

 紅のことに惑わされるなんて希和も馬鹿だ。だが、これでわかっただろう。
 二月の冷え込む寝室で裸にさせて汗をかかせたのがまずかったのか、それとも希和の中の熱さは熱の出る兆候だったのか、翌朝、希和は熱を出していた。起き上がることも大変そうで病院へ行くかと希和に聞いても今日は休みだからとか何とか言って行くとは言わなかった。もしも、もっと悪くなるようならタクシーでも呼んで行くしかないと思いながら様子を見ていたが、食べ物が食べられるようになれば大丈夫だろう。俺はなんでも適当に食べればいいし、飯を炊いたりすることはなんでもないことだ。

 希和の具合が良くなると東京へ仕事に行き、帰ってきたときには希和は家事をしていた。大丈夫だったかと聞くと希和は少しやつれた顔でうれしそうな笑顔で答えた。やはり希和はわかりやすい。
 その夜に抱こうとして希和が生理だと言った時には内心舌打ちしたが、まだアメリカに帰るまでは日がある。それに生理ということは妊娠していないということだ。いままで避妊具なしにやってしまったことはあるが、妊娠していないのならそれはそれでいい。子どもが欲しいとは思っていない。

 アメリカへ帰る前日の夜、また希和を抱いた。
 シャツの紅い跡を気にしていたときの希和とは違い、素直な希和に戻っていた。ゆっくりとキスをして、いたわるように愛撫してやれば思う通りに希和は高まり体を震わせた。
「待っていますから……」
 抱いた後で希和が小さな声で言ったが、それ以上は言えず俺の胸にすがっていた。

 そうだ、希和は家にいて、待っていればいい。
 希和はなにも言わなくていい、なにも知らなくていい。
 なにも言わず、俺に抱かれていればいいんだ。

 俺の中の黒い塊が消えることは決して、ない。


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