真冬のレプリカ 6

真冬のレプリカ

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 何時間経ったのだろうか。
 ドアをノックする音に返事もしないでいたら静かにドアが開けられたようだった。
「眠っているのか」
 武見の声がしたが、布団をかぶったままで寝たふりをしていた。心配そうな気配を滲ませて、でも武見はそれ以上なにも言わずに出て行った。ドアの閉まる音がしてからもしばらく身動きしないでいたが、掛け布団をずらして見た部屋の中は武見の点けていったルームランプのわずかな明るさでぼんやりと見えていた。今はたぶん夜の10時か11時くらいだろう。武見が様子を見に来たのは二度目で夕方にも一度来ていたけれど、その時もわたしは布団の中にもぐりこんだままだった。
 寝返りを打つとサイドテーブルの上にミネラルウォーターのペットボトルが置かれているのに気がついた。午後から眠っていたからもう眠れそうにない。だんだんと冴えていく頭にはあ、とため息をついて手を伸ばしてペットボトルを取るとミネラルウォーターをひと口飲み込んだ。こんなふうに眠れずに起きているのは、かつて何度も繰り返した同じような夜を思い出させる。

 母が亡くなったのは六月だった。病気だとわかってからわずか半年で亡くなってしまった。病院での治療も追いつかないほどの速さで病気は進行して、わたしや義父の看病も虚しく手の施しようがなかった。
 かわいそうなお母さん。
 トラックの運転手だったわたしの父を交通事故で亡くして、そのときわたしはまだ二歳だった。死んだ父には少し借金もあったそうで、それから母は懸命に働きながらわたしを育ててくれた。わたしが中学生になってからは昼の事務のパートに加えて夜は清掃会社でビルの掃除の仕事をしていた。わたしが高校に入学した年に徳永と再婚してやっと落ち着いた暮らしができるようになって、いや、実業家の徳永と再婚したことで母は人もうらやむような暮らしができるようになった。それは母と一緒に義父と暮らし始めたわたしも同じだった。ひと部屋だけのアパートからお屋敷のような家に迎えられ、かつかつで余裕のない生活から解放されたのだから。でも、それは母にとっては与えられて当然のものだった。長い間苦労して働きながらわたしを育ててくれたのだから。
 それなのに、母は病気で亡くなってしまった。ずっとずっと母がいてくれるのだと思っていたのに、母は死んでしまった。
 お母さん。
 今のわたしがこんなふうだと知ったらきっと悲しむ。それとも怒るかもしれない。でも、それさえもできないところに母は逝ってしまった……。

 もう何か月か、母のことは考えないようにしていたのに。
 母のことを考えると悲しくて、そして胸が押さえつけられるように苦しくなる。いや、この苦しさは母が死んだ日から今日まで続いている。ずっと。
 暗い天井を見上げながら涙さえも出ない。
 武見が母のことを知っているなんて思ってもみなかった。母の葬儀の日も、あのときは義父の会社の人や取引先の人たちが大勢来ていたけれど、武見が来ていたなんてわたしにわかるわけがない。たとえあのとき武見に会っていたとしても、わたしには義父の仕事関係の人だとしか思わなかっただろう。
 暗い部屋の中で起き上るとそっとドアを開けた。廊下のすぐ向こう、リビングの入り口のドアは今朝と同じ、開けっぱなしにされていてすぐそばに寄せたソファーに武見が寝ていた。やっぱり掛け布団の端からこの大男の足が突き出ている。見たわけではないけれど、武見の仕事部屋かほかの部屋にはベッドか布団くらいありそうなのにわざわざここのソファーに寝ている。わたしが逃げないように用心している。
 トイレから戻って寝室に入る前に気配を感じて振り返ると武見と目が合った。暗いリビングの中で起き上ってソファーの上からわたしを見ていたけれど、でもなにも言わなかった。わたしもなにも言わず黙って寝室の中へ音を立てずに入った。





 明け方にまた眠ってしまって、目が覚めると部屋の中は明るかった。カーテンを閉じていても窓の向こうが晴れているのがわかる。
 黙ってリビングへ入って行くと武見はそこにいなかった。また仕事をしているらしく、電話で話している声がかすかに聞こえていた。あの人、話し声が結構大きいから。
「おはよう」
 ダイニングテーブルのところに座ってぼおっとしていたら武見が入って来た。今日はフリースの上着を着ていて、携帯電話やファイルを持って、やはり仕事をしていたらしい。
「なにか食べるか。パンかパスタでも」
「ううん、これでいい」
 武見の言ったことに首を振ってテーブルの上の平たい器に盛ってあったリンゴを指差した。そうか、と言って武見が果物ナイフを取り出して皮を剥き始めたけれど、あまり上手くない。まあ、男にしては上手いほうだけれど、慣れている感じではない。
「かして。自分でやるから」
 武見が黙ってリンゴと果物ナイフを手渡してきた。わたしが剥き始めるとじっと見ていて、なんだかやりにくい。
「お皿、出してもらえます?」
「ああ」
 武見が皿を出してくれて、ついでに牛乳やパンも出してきた。皿の上でリンゴをくし形に切り分ける間も武見はじっと見ていた。
「上手いね」
「誰でもできますよ、こんなこと」
「でも、上手いと思うよ」
 お世辞で言っているようではなかったけれど、あんまりバカ正直に言われても。
「小さい頃から母を手伝っていたから。母は仕事が忙しかったから、ごはんの仕度もわたしがすることがあったし」
 武見がちょっとなにかを言いかけて、そして急に頭を下げた。
「昨日はすまなかった。お母さんのことを話したのは俺が悪かった。まだ亡くなられて半年だったのに」
 武見の下げた頭の黒い髪の毛をじっと見ていたが、武見が頭を上げそうにないので小さくため息をついた。
「あなたはお悔やみを言ってくださっただけです。あなたに謝ってもらうようなことじゃないです。こちらこそ母の葬儀に来てくださってありがとうございました」
 そう言ったら武見は少し驚いたようにわたしを見ていた。お礼くらいは言わなきゃと思っただけだけど。
「紅茶、飲むか?」
「お願いします」
 窓の外は晴れ上がった天気で明るい光がリビングの大きい窓全体から入ってきている。外はやたらと明るいけれど真冬の空気は冷たく寒いに違いない。武見はティーバッグの紅茶を淹れると冷蔵庫から牛乳パックを持ってきた。
 あれ? わたしがミルクティーが好きだってこと、この人に言った?
「ミルクティーが好きなんだって? そう言ってた。お母さん」
 お母さん、という言葉が武見の口から出たときに母が話したんだとわかったが、さりげなく視線を窓の外に向けながら武見の話を聞いていた。冷たい牛乳を注がれた紅茶は白っぽく不透明な色に変わっている。
「以前に徳永さんとお母さんに会ったときにミルクティーを飲んでいた。娘のミルクティー好きが私にもうつったって言って、あんたのことを話しているお母さんはとても綺麗でうれしそうだった」
 うん、お母さんはとても綺麗な人だった。生活に追われてお化粧もたいしてしていなかったけれど、それでもお母さんの美しさはわたしの密かな自慢だった……。
「なあ、俺の話していること、聞いてる?」
 武見の声に視線をティーカップに戻してひと口紅茶を飲んだ。
「聞こえてるよ」
「お母さんがうちの会社で作っているベビーリーフとハーブを気に入って徳永さんが持っているレストラン経営の会社に推薦してくれたんだ。推薦の前にはちゃんとうちの会社に来られて詳しく調べられて、たんに実業家の奥様が気まぐれでやっているんじゃないって思ったよ。さすがにあの徳永さんが選んだ女性だって思った」
「そうだね……」
 あいまいにわたしは同意した。

 母が徳永信弥と結婚したときには『現代のシンデレラ』って言われたくらいだ。母は清掃会社で働いていて、徳永の会社のビルへ掃除の仕事に行っていてふたりは出会ったのだから。当初は徳永の熱心なアタックに母はなかなかうんと言わなかったらしい。実業家としていくつもの会社を持ち、しかも初婚だった徳永は母にとってかけ離れた世界に住む人だった。でも徳永は本気だった。母はわたしのことも気にしていたのだが、わたしが高校に入学するまで待って欲しいと言った母を徳永は粘り強く静かに愛していた。徳永が結婚することを公表したとき、会社の関係者は皆、清掃会社で働く子持ちの女性との結婚に驚いたという。そのくらいわたしたち母子と徳永は違う世界にいたのだ。
 わたしが高校に入学してすぐに母から再婚したいと打ち明けられて初めて徳永、いや、義父に
会った。会ったその時から義父が母のことを真剣に愛しているのがわかった。会社の社長なのだと母から言われていたが、わたしに対しても気さくに、でも軽くなりすぎずに接してくれた。単に母親の恋人でいるのではなく、わたしとは家族になりたいのだと言ってくれた。やっと高校生になったばかりのわたしには義父の大人としての存在は初めて感じるものだった。そして、きっとこれが父親というものなのだと思うことにした。なによりもその時のわたしと義父を見守る母の不安と希望が入り混じった表情のために。

「俺がとやかく言うことじゃないけれど、徳永さんとは血の繋がらない親子だからいろいろとうまくいかないこともあるかもしれない。でも、あんただって大人だから家出じゃなくて独立するとかそういう方法だってあったはずだろう。一度ちゃんと徳永さんと話したほうがいい」
 武見がもっともらしく話すのを聞くともなく聞いていた。そのうちに武見にもわたしが気を入れて聞いていないことがわかったようだった。ちょっとあきらめたようにテーブルの上を片付けてから仕事をしていると言ってリビングから出ていった。テーブルに残されたのは冷えてしまった飲みかけのミルクティーだけだった。夕飯のときに武見は仕事をしていた部屋から出てきて夕食の支度をしてくれたが、簡単なパスタ料理をわたしは黙って食べた。ベビーリーフのサラダは今度は出てこなかった。武見もほとんど話さずに夕食後の片付けをするとまた仕事部屋に戻った。
 
 武見がなにを考えているのかわからない。わたしになんて同情も心配もしてくれなくていい。わたしにはそんなものは必要ないのだから。
 そう思いながらその夜もリビングのソファーで眠っている武見の前にわたしは立った。


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