真冬のレプリカ 7

真冬のレプリカ

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 掛け布団の上から手で触れると武見の体が動いた。起き上りかけて、わたしがいるのに気がついた武見の動きが止まった。
「な……」
 武見の言葉を遮るように唇が触れそうなほど顔を近づけて膝をつくと、武見の顔を上から覗き込む形になって暗いリビングの中でも武見の驚いている表情がわかった。
「ねえ」
 息が武見の顔に振りかかる。
「わたしたち、ふたりきりだよね」
 薄いパジャマを着ただけのわたしの体を武見の上に乗せるように寄りかかっても武見は動かなかった。
「いいよ、なにも言わなくても」
 そう言ってから掛け布団の中の武見の体を探るように手を入れた。布団を剥いで顔を胸につけようとしたその時にぐいっと腕をつかまれた。
「痛っ……」
「どういうつもりだ」
 わたしを押し戻すように武見は体を起こした。不機嫌そうな顔が暗い中でもはっきりとわかる。
「こういうつもりだけど」
 そう言って武見の手を振り払い、顔を近づけて武見にキスをした。唇が触れても武見は動かな
かった。見おろすようにゆっくりと唇に舌を這わせて舐めた。
「服とかいろいろお世話になっているから、お礼に」
「そう言っておいて、また逃げるつもりじゃないだろうな」
「疑り深いのね」
 半開きにした唇で小さな甘えた声で言うと武見はじっとわたしの顔を覗き込んで見ていた。すると不意に武見の体が動いた。武見の唇が触れたとたんに唇が開かれて舌が引っ張られるように強く吸われた。
 やっぱりこの人も男。
 絡みつくようなキスをされながら肩を抱かれた。舌が動くたびに唾液が混ざり武見の臭いを伝えてくる。男なんて誰でも同じ。武見の長い腕に抱かれて体が持ち上げられるとソファーの上に乗せられていた。横たえられて唇は離れたけれど今度は武見が覆いかぶさるようにわたしの上にいた。じっとわたしを見おろしている。
「キス、うまいんだね」
 武見は動かない。
「もっとキスして。ほかのところにも」
 それでも武見は動かなかった。やがて体を引くとわたしから離れた。ふーっとため息をついてわたしの足の向こうに座り直すとソファーの脇に置いてあった小さな灯りをつけた。
「どうしたの。しないの?」
 起き上って武見を見るとむっつりと不機嫌な顔で目を合わさなかった。武見の表情が不機嫌すぎる。苦虫レベルじゃない。
「そんなにわたしのこと、いやなの」
「いやじゃない」
 即答で返ってきた答えにちょっと驚いた。じゃあなんで。
「まさか怖気づいたとか。そんなに純情そうには見えないけど、経験ないわけじゃないよね」
 武見に手を伸ばしてなでるように腕に触れた。でも彼の表情は最悪、いや、最暗とでも言いたくなるほど暗かった。
「彼女、いないんでしょう。だったらいいじゃない。たまってるんでしょ?」
 そう言った瞬間に武見が睨みながらわたしを見て向き直った。
「どうしてそんなことを言うんだ。あんたらしくない」
 わたしらしくない? また、それ?
「そんなことあなたに関係ないでしょ。ねえ、するの、しないの」
「だからなんだってそうやって自分を貶めるようなことを言うんだ!」
 武見が立ち上がった。背の高い彼が立ち上がるとソファーの上にいるわたしからは見上げるほどに余計に大きく見える。怒っていた。どういうわけか武見は怒っていた。
「あんたのお母さん、あんたのことをきれいでかわいくて自慢の娘だって言っていた。徳永さんだってあんたのことを義父である自分に頼らないで実力で一流の企業に就職して働いているしっかりした娘だって言ってたんだぞ。ふたりとも本当にうれしそうにあんたのことを話していたんだ」
 自慢の娘……。
「そんな親バカな話を聞かされていたの」
「だからそんなふうに言うんじゃない!」
 武見の声が大きくなった。
「お母さんの葬儀の日に初めてあんたを見た。遠くから見ていただけだけど、あんた、葬儀の間中ずっと涙を流していた。声を出すこともできずに涙が落ち続けているみたいで、なんというか、見ていられなかったくらいだ。それなのに……」

「あんた、いったいなにから逃げているんだ」
 黙ったと思ったらぽつりと武見が言った。背の高い体でわたしの前に立ったままだった。
「あんたのやっていること、言っていることは自暴自棄にしか見えないぞ」
「だからなによ」
 やっぱりわたしの口からはひどい言葉が飛び出してしまう。そうするしかないから。
「大きなお世話よ。もっともらしいこと言わないでよ」
 武見が言った母の葬儀とそれに続く記憶が戻ってきて息が苦しい。睨み返すように武見を見上げていた。武見のなぜか悲しそうな表情を。

「立って」
 不意に武見が言った。
「寝室へ戻るんだ。むこうで寝てくれ」
 武見が促したが、でもわたしは立ち上がれなかった。
「泣いているあんたを見たときからずっとあんたのことが気になっていた。だから徳永さんにあんたを捜して欲しいって言われて引き受けたんだ。それなのにあんたときたら……いや、いい。俺が勝手に思い込んでいただけだ。あんたは綺麗だけど世の中の男たちがみんな誘えば乗っかると思ったら間違いだよ。もっと自分を大切にしたほうがいい」
 立つんだともう一度言われてわたしはやっと立ち上がった。リビングから出るときも武見はわたしに触れようとはしなかった。寝室のドアを開け、わたしが入るのを確認すると黙ってドアを閉めた。

 真っ暗な寝室でベッドの上に座ると体が沈み込むように伸びた。最悪だ。
 最悪なわたし。でもこれが偽りだなんて思わない。確かにわたしは最悪な女だったから。いまに
なって武見に拒否されたことが恥ずかしいというよりは、もう手の指一本も動かしたくないほどの重さを感じていた。勝手な言い草だってわかっている。でも、いっそ武見がわたしをめちゃめちゃにしてくれたらよかったのに。

 わたしらしくない。
 そう、わたしでいたくない。

 今まで何人かの男と付き合っても、体の関係を持っても、どんな男もわたしを変えることはできなかった。ただひとりのあの人がずっとずっとわたしの中にいる。忘れたいのに、一時だけでも忘れられたらいいのに、それもできない。
 母が死ななければこんなことにはならなかったはずだ。母が生きていたらきっとわたしは一生偽り続けることができたはずなのに。

 わたしが苦しむのは罰だ。
 徳永信弥に甘い毒を差し出して最後まで飲み干させたのはわたしなのだから。








 翌日の気まずさといったらなかった。
 でもそれはわかっていたことなのであえてわたしは無表情でリビングへ出て行った。武見はおはようと言ったきり目も合わせない。ハムやゆで卵やパンを出してくれたけれどやはり今朝はベビーリーフのサラダは出てこなかった。武見は好きに食べてくれと言ってリビングから出て行って、洗濯かなにかしているみたいだったけれど、しばらくすると仕事部屋へ入ったようだった。
 武見のたてる物音と気配を聞きながら朝食を食べていた。武見はあいかわらず不機嫌そうな顔で、たぶん顔だけじゃなくて本当に怒っているようだったけれど、それでも卵やパンは温かいものを出してくれていた。あの人って意外とまめなのか、お人好しなのか。ぼんやりとそれらを食べながら窓の外を眺めるとやはり今日も冬晴れの良い天気だった。こんなにも天気が良くて、穏やかでなんだか別世界のようだった。どうせわたしは外には出られないだろうけど、なにか口実をつけたら武見は軟化してくれるだろうか。わからない。
 さっきから武見は部屋で電話をしている。そんな話し声がかすかに聞こえる。やっと朝食を食べ終わるとテレビのあるほうへ行って座った。昨日のソファーだ。でも別に気にしてもしかたがない。見たいものはなかったけれどなんとなくテレビのリモコンを持ち上げてスイッチを押そうとしたとき
だった。武見が携帯電話を片手にドアを開けて入って来た。電話なのかと思ったが、切れているらしく武見は携帯を持った手を下げた。
「佳澄さん」
 わたしを呼んだ武見の声にはなにか抑揚がなかった。
「徳永さんの秘書から連絡があった。あんたが見つかったことを連絡したら予定を変更して日本へ帰って来るそうだ。もう飛行機に乗っているそうだから夕方には成田に着く」

 ……え? 帰って来る?
 義父が。


 「最暗」というのはわたしの思いつきの言葉です。全然使われてない言葉っていうわけじゃないようですが。(実成)


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