静かに満ちる 26

静かに満ちる

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26


 支社長室で向かい合った小林はデスクの前でゆったりと座っていたが圭吾を見る目は険しかった。今まではどちらかといえば素っ気ない態度を取ることが多かった支社長はそれでも圭吾に座るように言ったので圭吾はデスクを挟んで向かい合って座った。
「木下に私からの誘いを断らせたのは君かね」
「私は木下に話しましたが、決めたのは木下です」
 圭吾が断らせたのではなく、木下に選択させたのだ。
「木下が私から誘いがあったということを君に話した時点で気持ちは決まっていたのかな」
 さすがに支社長だけあって小林は感情的になることはなかったが、やはり不愉快だという感情を圭吾に読み取らせる表情だった。
「君が木下を抱き込んでいたとはな。予想外だと言わなければならないな」
「予想外ですか。そんなに私は他所者でしたか」
 圭吾もわかってはいた。日本支社へのテコいれのためにイギリス本社から投下されたような圭吾に小林も他の社員たちもどこかしらよそよそしかった。他の社員たちとは仕事上の会話しかほとんどなく、それを気に病んだりしないのも圭吾だからだったが、そんな中で木下は最初から圭吾にも話しかけてきていたが、それは木下の人懐こい性格のゆえだった。もっとも木下はその気さくさから小林にも好かれていたのだが。
「支社長、あなたが独立されるおつもりならそれはあなたの自由です。もともと日本支社は独立した色合いの濃い営業所として支社長がやってこられました。独立して新たな会社を興すのも無茶な話ではないと思います。だが木下を引き抜かれたらこの日本支社は困ったことになる。逆に言えば木下はあなたにとっても即戦力だ。彼は業務ができるし、やらせれば営業もできるでしょう。欧米での仕事にも不安はない。あなたもそう思うから木下を誘ったのでしょう」
「そのとおりだ」
 小林は認めた。
「本社の社長が替わってから本社は変わってしまった。我々は極東のお荷物扱いにされているんだ。私はそれには我慢できない」
「だから木下を引き抜いて、それであとは知らぬということですか」
「会社への信義がどうのと言うほど君も甘くはあるまい。自分の行きたいところへ行く。むしろ欧米ではそれが普通だ。君だってそう思っているのだろう」
「確かに。思っていました」
 自分は自分の行きたいところへ行く。まさにそれは圭吾の信条だった。
「私が誘えば木下君はついてくるだろうと思っていた。君にではなくね。どうして木下は君についていく気になったのかな。君がそれほど信頼を集められる男だとは思っていなかったよ」
 小林のどこか醒めて人ごとのような言い方に圭吾は背筋を伸ばして座りなおした。
「支社長、私をこの日本支社で働かせてもらえませんか。あなたの部下として」
 いきなりそう言った圭吾に小林は答えないかわりに目が如実に驚いていた。が、圭吾は続けた。
「あなたが抜けても本社は日本支社に中国を管轄させるつもりでしょう。だが、あなたの異動といい、中国での営業体制を本社はどのように考えているのか。これには本社の思惑もあるのでしょう。日本は中国に近い。だが、今頃中国へ乗り出すリスクも大きい。本社が日本支社に中国を管轄させたがっているのはやはり中国でのこれからの展開に不安があるからでしょう。だからといって私でなくとも捨て石にされるのはご免だ。リスクというのなら本社にも社運を賭けてもらわなければ」
「……一蓮托生か」
「もとよりそういうことです。日本支社を馬鹿にしてもらっては困る」
「君の言う日本支社には私と君も含まれているのかね」
 小林自身をも含めた、痛烈な言葉だった。
「もちろんです。あなたにとって私はさぞかし不愉快な存在だったでしょう。私もそれを知りながら今までなにもしませんでした。改めてお詫びします」
 圭吾は立ち上がって頭を下げた。
「君に謝られてもどうにもならない」
「ですが」
 小林の苦い表情に圭吾は食い下がった。
「ここには支社長の築いてきたものがある。違いますか」
 小林は答えなかった。
「支社長が私を日本支社の一員と認めてくれるのならば、私をテコ入れのために本社から下された横槍ではなく、日本支社の社員として働かせてもらえませんか」
 圭吾はもう一度繰り返した。
「私はこれまで自分のやり方だけで仕事をしてきました。あなたにはなによりも経験と実績がある。それこそが私にはないものです。もし支社長が中国へ行かれるのなら私も部下として一緒に行かせてください」
 これにはさすがに小林の顔色が変わった。
「君が? だが本社は君を日本支社の支社長にしたいんじゃないのか」
「言われたとおりにするだけなら、いつか言われたとおりに首を切られるまでです。しかし少なくとも私は物言わぬ機械ではありません。支社長もそうでしょう。本社と話すことが先決です。ロンドンへ行きましょう。同行させてください」
 決めつけに近い圭吾の言葉に小林が腹の前で組んでいた両手の指をほどいた。
「落ち着け、と言っても君は冷静のようだ」
 圭吾の視線を受けて小林は困惑したように少しのあいだ動かなかった。
「君がそんな男だとは思わなかった。熱い男だったんだな」
「初めて言われました」
 圭吾は真面目な顔で答えた。
「……は、ははっ。君からジョークをしかけられるとは思わなかった」
 こんなのをジョークと言われてたまるか。
 圭吾はそう思ったが黙って立っていた。小林がロンドンへ動きだすのをじっと待っていた。圭吾は本気だった。張ったりは好きではなかったし、張ったりが通用する場合でもない。すぐにでもロンドンへ向かうつもりで待っていた。
「君がそう言うとは思っていなかった。木下に断った理由を聞いたときに君がいつでもロンドンへ
戻ってもいいつもりでいるのではなく、本気で日本支社で働く気になっていると聞いても信じられなかった。君がそう思うほどの理由はなんだね」
「木下が話したのではありませんか」
「プライベートな事だからと木下はおしえてくれなかった」
 その問いに答えようかどうか圭吾はちょっと考えた。プライベートを口にする抵抗というよりは今、言っていいことかどうか迷った。
「日本へ来てひとりの女性に出会いました。月並みですが」
「女性か」
 小林がどこか苦い顔で頬を緩めたが、そこには今までのよそよそしさはなかった。
「君にもそういう部分があったのかと思うよ。だが、会えなくなるぞ。女性はそういうのを嫌がるだろう。私にも経験がある。それなのに中国での仕事をしたいと言うのか」
「そうかもしれません。ですが、ご心配は無用です」
 ぴしりと切り上げた圭吾に小林は苦笑した。
「いいだろう。ロンドンへ行こう。まずは本社の連中の方針と計画を徹底的に吐かせよう。その足で上海へ飛ぶことになってもかまわないな。木下、来てくれ」
 もう小林は木下へ電話をしていた。

 ロンドンの本社での話し合いを重ね、小林を日本と上海での両方の支社長を兼任させることと、中国での事業の展開を始めるのには必要な準備期間を置き、人材の面でも新たな準備をさせることを了承させた。小林と圭吾にはもちろん見返りとして日本と中国での営業成績の計画と実行を決定されたが、それは当然だった。これらの話し合いにひと月近いロンドンでの日数がかかったが、そのあいだの日本支社の業務や連絡などには木下ががんばってくれた。
『忙しすぎて離婚されたら守田さんのせいですからね』
 木下は電話で泣きごとを言っていたが、圭吾は帰れるようになりしだい日本へ帰るからと励ました。日本へ帰るよりもすぐにでも準備のために上海へ飛びたいところだったが、小林と圭吾が日本にいないあいだの仕事が木下たちだけでは限界にきていたため、11月末には帰ると約束してなんとか圭吾も帰国した。

 日本での仕事をこなすと上海で支社を開設するための準備に入り、また日本へ戻るという落ち着く間のないスケジュールに三香子へ電話をすることもできなかった。会いに行きたいと思っても今はそれができない。新規の支社の開設の準備は貿易の仕事とは違って圭吾には初めて経験するものばかりでまさに奔走しているという状態だったが、中国での支社の開設ができればこの状況は落ち着くはずだ。そう信じてやっている。自分の部屋のあるマンションへ戻る道の途中で圭吾は立ち止った。
 明日から小林と共に香港へ行って現地の関連会社の視察をさせてもらい、本社の担当者とも会う予定だった。香港へ行くのは3日間だけだったが、帰ってきたらすぐに中国へ行かなくてはならない。すでに小林は上海営業所長となっており、圭吾には日本支社での仕事もある。しかし本社からの手配で中国語のできるイギリス人社員が派遣されるので、しばらくは中国に滞在して営業所のスタートと小林への補佐をしなければならない。
 今は仕事をしなければならない。三香子に電話をしても会いに行けるわけではない。今は。
 深夜の街は人通りも絶え、車だけが通り過ぎるだけだった。

 三香子に会いたかった。
 ただ会いたい。
 会えないとわかってはいても。

 ふうと息を吐き出してからまた歩きだして、マンションの手前まで来ると道の脇に立ち止まって圭吾は携帯電話を取り出して耳へあてた。
『はい、三香子です』
 たったそれだけの三香子の声に圭吾はつい聞き入ってしまった。
『圭吾?』
 黙ったままだったと気が付いてやっと圭吾は声を出した。
「電話もしなくてごめん。またしばらく中国に行くことになった。あまり連絡できないと思うけど」
『中国……、そうですか』
 落ち着いているように聞こえる三香子の声にかすかな落胆が混じったように聞こえたのは喜んでいいのか、悲しむべきなのか。やはり圭吾はすぐに言葉が出なかった。
『疲れているみたい。大丈夫?』
 三香子に心配させるつもりはなかったが、圭吾は正直に答えた。
「そうだな、疲れている。でも大丈夫だよ」
 疲れたなんて、今まで誰ひとりにも聞かせたことのない言葉だった。そして三香子の声を聞けばきっと会いたくなってしまうとわかっていたのに。以前の圭吾ならそんな心の弱さは認めなかっただろう。だが三香子になら言える。言いたかった。
「会いたい」
『うん』
「三香子の作ってくれた料理が食べたいんだ」
『持ってきているよ』
 意味がわからなかった。マンションの入り口で人影が動き、そこに立っているのが三香子だと気が付くまで。


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