静かに満ちる 27

静かに満ちる

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27


「三香子……」
 圭吾がそばへ寄ると三香子の顔がほっとしたように圭吾を見上げたのが見えた。
「木下さんに聞いたら圭吾が明日から香港へ行くって教えてくれたんです。だから、だから来てしまいました」
 三香子の体を引き寄せて抱きしめた。ここがマンションの一階だということも忘れて。
「圭……」
 圭吾の唇が三香子の声をさえぎり、圭吾の名前を飲み込ませた。

 マンションの部屋の中は暗かったが、圭吾は灯りをつけなかった。ドアを閉めると同時にまた唇を合わせた。立ったまま圭吾のキスに応える三香子の手からバッグが落ちていく。夢中でキスを繰り返し、何度も唇が触れ合った。三香子の体を抱きしめて、その時にやっと圭吾は三香子がスカートをはいているのに気が付いた。いつもパンツスタイルの三香子の見たことのないスカート姿に圭吾は顔を離して尋ねた。
「バイクで来たのか」
「ううん、電車で来ました」
「電車?」
 驚いて圭吾が三香子の前髪をどけるように額から頬へと手を当てたが、三香子の肌はさらりとしていた。
「大丈夫だったのか」
 圭吾を見ながらかすかに三香子がうなずくのが暗い部屋の中でも頬へ当てた手から感じられた。
「大丈夫でした」
 圭吾は目の前の三香子をじっと見た。電車に乗ってきたという三香子を。
 けれどもそれ以上なにも言わない圭吾に三香子はちょっと心配そうに言った。
「ごめんなさい、勝手に来てしまって」
「どうして謝るんだ」
 圭吾はやっと笑った。
 会いたかった。三香子の顔を見たかった。声を聞きたかった。その体温を感じたかった。
 ずっと心の底でそう思っていた。
「三香子を愛している。三香子に会いたくて……、三香子だから俺はこんなことが言えるんだ」

 肌の擦れる音。唇の触れ合うごく小さな音。
 そして三香子から紡ぎだされる途切れ途切れな声。
「わたしも……」
 すぐに圭吾の唇が絡められて三香子は最後まで言えない。
「愛して……る」
 圭吾の手に肌を探られて、もう言葉があえぎになっている。
「会いたかった。会いたかったの……」
 三香子の声が圭吾のキスを止められなくしていく。唇から伝うように胸へと唇を移すと圭吾の頭を抱くように三香子が圭吾の髪をかきあげて、そして引き寄せた。三香子の柔らかな乳房の先の固い先端も、しっとりとした両足のあいだの谷間もすべてが圭吾の愛撫に応えている。圭吾が抱きしめた腕の中で三香子が息をあえがせながらかすかに笑う。自分はこんなふうには笑えない。弱さも強さも持っているのは三香子も同じなのに。だが三香子がいてくれればこんなにもやさしくなれる。
 三香子の中へゆっくりと圭吾が入っていくと小さな声が漏れた。もがくような三香子の動きが圭吾の体へと響いてくる。圭吾を求めるように三香子の体が動かされるたびに三香子の、そして圭吾の息が高まっていく。息も、体も、すべてを触れ合わせながら圭吾は抑えきれない熱さで三香子の体を揺らした。圭吾を包んで震わせる三香子からの快感に圭吾はすべてを忘れて目を閉じた。
「三香子……」
 ゆっくりと息を吐き出しながら体を緩めると、三香子はまだ息が収まっていなかったが、答えるように腕を伸ばしてきた。引き寄せられるままに三香子の腕に抱きしめられて柔らかな胸に唇をつけた。
 その胸を上下させる繰り返しを愛している。三香子がいるだけでいい。三香子がいる限り、どこにいても必ず帰ってこられるだろう。家も家族もいらないと思っていた自分でも、こうして。

 ふたりで寄り添ったまま三香子は圭吾の手を離さずに握っていた。三香子の体に添えた圭吾の手も離れない。圭吾の肌に感じられる三香子の息はすっかり落ち着いていて規則正しく繰り返されていた。眠りに落ちていく三香子の指が緩み、ひくひくと無意識に動くのに気が付いて圭吾は声を出さずに笑った。やがてそれも動かなくなると三香子の指に唇をつけてから圭吾も眠ったのだった。

 翌朝、香港へ行くために圭吾は早朝にマンションを出た。三香子は部屋のドアのところで見送ってくれた。
「気をつけてね」
 そう言った三香子はやはり昨夜の熱情に疲れたような目をしていたが、顔は笑顔だった。行ってくると言って唇へキスをして、圭吾は三香子を抱きしめる腕に力を込めた。
「料理、おいしかった」
 三香子が持ってきてくれた料理は結局、朝食になっていた。それを思い出させるように圭吾が
言ったので三香子はちょっと恥ずかしそうな顔をした。
「待っていて欲しい。必ず三香子のところへ帰る」
 三香子がうなずいた。
「待っている。待っていますから」
 もう一度キスをして圭吾は部屋を出た。








 春。
 やはり桑原は暖かい。そう思いながら圭吾は歩いていた。
 上海はまだ真冬のような寒さだったが、桑原はすでに春の盛りだった。何度目かの中国への出張を終えて帰ってきた圭吾には桑原の暖かさはまるで体に慣れていないように感じたが、今日は天気が良くてまだまだ暖かくなりそうだった。
 圭吾は歩いていく先にある三香舎の建物を見回した。晴れ渡る空の下にある屋根の向こうに見える夏みかんの木がときどき揺れていた。数えきれないくらいの実をつけて香る夏みかんの木のある家は4月の陽射しに明るく照らされていた。表側からは人の姿は見えなかったが、夏みかんの木のあるほうからは小さな物音がしている。音を目当てに圭吾は玄関は開けずに家の横へと入っていった。
「ただいま、三香子」
 圭吾が声をかけると夏みかんの木の横にいた三香子がゆっくりと振り向いた。手には輝くように黄色い夏みかんの実を持って。

 吉村三香子という女性の願いをかなえて欲しい。
 そう言い残した父の言葉はいまだに圭吾の中に残っている。父がどうしてそんなことを圭吾に言い残したのか、それは父なりの理由なのか、もう確かめるすべはない。それでも圭吾はその理由が今ではわかる気がした。手にした夏みかんを差し出しながらはにかむように笑っている三香子の顔を見てそう思えた。
「結婚してくれないか、三香子」
 夏みかんを受け取ってそう言った圭吾を三香子は言葉も出ずに見ていた。
「中国にはこれからも行かなければならないけれど、俺は日本でやっていく。ここから会社へ行くこともできる。だから聞かせて欲しい。三香子の望みを」
 三香子が圭吾の手を握った。
「わたしは……」

 俺の望みが三香子の望みであるように。
 そう願う圭吾の思いが静かに、静かに満ちていく。

終わり


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