静かに満ちる 25

静かに満ちる

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25


 翌日は一年前と同じように晴れ渡り、夏のように暑くなった。産業祭りの会場になっている通りを歩く人たちがだんだんと増えてくるのを圭吾は道沿いに置かれたテーブルの後方で椅子に座って見ていた。
「はい、いらっしゃいませ」
「マーマレードとジャムです。いかがですか」
 三香子たちが使っているのはこれも去年と同じ赤いチェックのクロスをかけたテーブルだった。
テーブルのあるところには四本支柱の日よけテントで日陰が作られていて、圭吾は今日は黒い半袖のTシャツを着ていたがそれでも暑いくらいだった。去年は三香子がひとりでマーマレードを売っていたが今年は奈々も一緒だ。三香子も奈々も白い長袖のシャツを着て、そろいのエプロンをつけていた。 三香子が試食を勧め、奈々が客と品物の受け渡しをして次々にジャムやマーマレードが売れていた。三香子が言うには祭りが始まってから昼までが良く売れる時間帯で、やはり正午くらいがピークだそうだ。圭吾は後方で手伝っているだけで実際には三香子と奈々が忙しく働いているのだが、それでも三香子は圭吾がいてくれると違うと言っていた。去年は三香子ひとりだったからきっととても忙しかっただろうと思う。去年はその忙しいさなかに自分は来てしまったのだったが。
「奈々ー」
 奈々のところに数人の若い女の子たちが集まってきた。奈々は地元っ子だから友達だろう。三香子は奈々の友達にも笑顔で試食を食べさせていた。女の子たちのにぎやかな様子に引き寄せられるようにまた客が集まり、隣りのテントで茶葉を売っている店では法被(はっぴ)を着た男が威勢よく呼び込みをしている。
「すごく売れてますね。三香子さん」
「うん、このままだとすぐに売り切れそう。お店から補充を持ってこなきゃ」
「俺が行くよ」
 三香子と奈々の会話を聞いていた圭吾が立ち上がった。圭吾が店に置いてあるマーマレードを取りに行って戻ってくると並べるのを手伝ったが、そのあいだにもジャムやマーマレードは売れていた。
「三香子ちゃん」
「あ、沙希さん。いらっしゃいませ」
 沙希と木下がテーブルの前に立っていた。沙希は花柄の薄いチュニックブラウスを着て大きなつばの帽子をかぶっていて木下も半袖の青いTシャツ姿だった。
「お招きありがとう。早めに来ちゃった。すごい人ね」
「三香子ちゃん、これ差し入れ」
「わあ、ありがとうございます。すみません」
 木下が三香子にペットボトルの飲み物の入った袋を渡していたので圭吾はわざと低い声で
「いらっしゃいませ」と言いながら三香子のとなりに立った。
「うっわ、守田さん」
 あいかわらず木下の驚き方はわざとらしかった。
「もしかして守田さんもここで手伝っているんですか」
「そうだが」
「へえー」
 木下は圭吾の頭から足先までぐるっと見ていた。
「守田さんてば、いったいどうしちゃったんですか」
「どうもしないよ」
 圭吾が大真面目に答えると沙希と三香子が顔を見合わせた。
「なんだ、そんなに似合わないか」
 圭吾が言うと木下が取り繕うように三香子を見たが、三香子は助けてくれなかった。
「いや、そんなことないですよ。でも、店の人というよりは用心棒みたいですよ。凄みがありすぎる」
 その言葉に三香子と沙希がこらえきれないように笑いだした。奈々にいたっては腹を押さえて
笑っている。確かに自分はこの場所に似合わないとは思うが、そこまで笑うことはないだろうと思う。
 ちょうどその時、少し離れたところにある祭りのメイン会場からにぎやかな音楽が聞こえてきた。案内のアナウンスがそれを上回る音で響いている。
「じゃあ僕らは向こうも見てくるから、またあとで来るね。三香子ちゃん、マーマレード預かっといて
くれる?」
「はい、お店のほうに置いておきますので、あとで来てくださいね」
 三香子が木下の買ったマーマレードの入った袋を受け取りながら答えると、木下が行くのかと
思ったが圭吾に向き直るとさりげなく言った。
「守田さん、支社長の話は断りましたので」
「……そうか」
 木下はいつもの気楽な顔で、となりにいる沙希も穏やかな笑顔だった。圭吾の横では三香子がふたりの会話を聞いていたが、すぐに木下は沙希を促して手を振った。
「じゃあ、また後で」

 祭りの開催は午後3時までだったが三香子の店のマーマレードやジャムは午後にはすべて売り切れてしまった。まだ通りでは絶え間なく人が歩いていたが、三香子は両隣りに出店していた店の人たちに「すみません、売り切れです」と声をかけながら片付けをして引き上げた。
「お疲れさまでした。完売ですって?」
 圭吾が折りたたんだテーブルや椅子を運び、三香子と奈々が荷物を持って三香舎へ戻るとそこでは児玉たちが迎えてくれた。三香舎は店の中での営業はおこなっていなかったが玄関前と庭のスペースを利用してテーブルを置いて屋台のようにして冷たいレモネードやアイスコーヒーなどを
売っていた。表の通りからは少し入っただけなのに、こちらは混み合うほどの人通りではなかった。

 産業祭りのざわめきが完全に引く頃、三香子の店では店に関係のある人たちや親しい人たちが集まって打ち上げが行われていた。マーマレード工房を手伝ってくれている人たちや大石とその母、それから木下と沙希もいた。テーブルにはビュッフェ式に自由につまめる料理やサンドイッチのほかに焼き菓子や冷たいデザート菓子が何種類もあった。特に今日の祭りでも売られていたレモンのマーマレードをかけてトライフル風にしたケーキや白いメレンゲのレモンケーキ、ホワイト
チョコレートとレモンピールを飾ったフルーツケーキ、そしてレモネード。これを見た奈々が思わず歓声を上げたくらいだった。
「おいしー!」
「こら、奈々。おまえばっかりばくばく食うんじゃないぞ。みっともねえ」
「いいのよ、今日は奈々ちゃんががんばってくれたから。それに奈々ちゃんが食べてくれるとみなさんも食べてくれるから。大石さんもいかがですか」
 奈々と父親の大石に三香子がケーキを取り分けてやっていた。後から来る客もいて、客たちに飲み物を勧めてから三香子は圭吾たちのところへ来た。
「三香子さん、これ、おいしいわ」
 沙希が気に入ったのはレモンカードのタルトだった。レモンカードはもちろん三香子の手作りで、とろりとしたクリーム状のカードはマーマレードとは違ったおいしさと風味がある。
「レモンカードって瓶詰めできるんでしょう。売らないの?」
「そうですね。レモンカードも販売できるかも。試してみますね」
 すっかり沙希と三香子とで話が弾んでいる。
「お疲れさまでした、守田さん」
 レモネードの入ったグラスを手にした木下がひとつを守田へ差し出していた。
「なんだ、さっきは似合わないって人を用心棒呼ばわりしたくせに」
「ふふ」
 木下は笑って圭吾のとなりの椅子へ腰を下ろした。
「だってほんとに用心棒みたいでしたよ」
「悪かったな」
「いや、守田さんてほんとに三香子ちゃんのこと思っているんだなあって」
「手伝っていただけだよ」
「そうですね。でも守田さんがロンドンから来たときのままだったら俺は支社長の話、断りませんでしたよ。まさか今日、守田さんがマーマレードを売っているとは思ってなかったけど」
 木下がいつもの気楽な表情で話すのを聞いて、圭吾もひと口レモネードを飲んだ。三日前、日本支社の支社長の小林に本社から中国への転任辞令が出ていた。本社は中国には足場がないから上海に新たな営業所を置くために小林を行かせるということだったが、支社長とはいえひとりだけの赴任という本社の異動命令に小林は従う気はないようだった。これまで小さいながらも日本支社は本社とは独立した方針でやってきていた。それは支社長である小林の方針でもあったが、本社がそれを許さなくなっているのなら小林は従わないだろうと圭吾は考えていた。事実、小林は業務に強い木下を一緒に独立に誘っていた。けれども木下は断った。
「宗(そう)、ありがとう」
 圭吾は初めて木下のファーストネームを呼んで、礼を言った。
「礼なんて言っちゃっていいんですか。まだどうなるかわからないのに」
 木下が面白そうに言った。
「そうだな」
「支社長が明日、守田さんと話したいって言ってました」
「わかった」
 木下と話している圭吾を三香子が見ていた。ひと組の夫婦と話していた三香子の目が圭吾に来てもらいたいというように見ているのに気が付いて圭吾は立ち上がった。
「すみません、お話し中だったのに」
 圭吾が近寄ると三香子が笑顔になった。
「こちらは隣り町で農園を経営されている高橋さんです。マーマレードにした無農薬のレモンを作ってくださっているんですけど、高橋さんが夏みかんの栽培をしたらどうかっておっしゃってくださったんです」
 高橋という人はまだ若い四十代半ばくらいの人で、農園の仕事をしているからかとても陽に焼けた顔をしていた。
「高橋です。今回はうちのレモンを使ってもらってありがとうございました。今まではほとんど東京のほうへ出荷していたんですが、こんな近くで使ってもらえるなんて思っていませんでしたよ。私も食べさせてもらったけど、なかなかうまいじゃないですか。夏みかんでも作っているって話ですけど、うちの農園にも昔ながらの夏みかんはもうないんですよ。 それでここにある夏みかんの木から接ぎ木をするか種をまいて、うちで育ててみたいと思いましてね。私も以前から昔の品種を復活させたいってずっと考えていたんですよ。もちろんうまく育って実がなるのは何年か先ですが」
「そうしてもらってもいいでしょうか」
 圭吾を見る三香子の目が真剣だった。
「俺に断ることはないよ。ここは三香子に貸してあるのだから。家も夏みかんの木も」
「本当ですか」
 三香子にうなずいてから圭吾は高橋へ向き直った。まだ若いこの農園主のように農業に取り組んでいる人もいるのだ。
「俺からもぜひお願いします。あの夏みかんの木は父の形見ですから絶やしたくない」
 形見と言った圭吾の言葉に三香子の目が見開かれて、そして手を口へ当てた。信じられないというような目の表情だった。信じられないのは俺なんだよ。圭吾は心の中で言って三香子に笑いかけた。



 すっかり片付けが終わった店の中で三香子が紅茶を淹れていた。
「お茶をどうぞ」
「ありがとう」
 廊下に立って暗くなっていく外を眺めていた圭吾は三香子のいるテーブルへ戻った。三香子が静かに紅茶へ牛乳を入れている。客たちが帰って児玉や奈々と一緒に片付けをしてしまうまで三香子には座るひまもなかった。やっと腰を落ち着けて紅茶を飲む三香子を圭吾は見ていた。
「疲れただろう」
「うん、疲れた」
 少し笑って、けれども三香子はこの前とは違って素直に口にした。圭吾はしばらくのあいだ三香子が紅茶を飲むのを見ていたが、三香子がカップを置くと隣りへ行って三香子の肩を抱いた。
「ここにはなにもないと思っていたけれど」
 そう言うと三香子が顔を上げた。
「いい人たちがいる」
「うん……」
 三香子の頬を手で包む。そして頬と頬を寄せた。
「三香子もいる」
 紅茶の香りが残っている三香子の唇へキスをする。三香子の口の中が紅茶の熱であたたかい。
「圭……吾」
 圭吾が唇を離すと三香子がじっと見上げていた。
「なにか……あるの?」
 昨日、今日と忙しい三香子になにも言わなかったが、三香子もなにか感じていたに違いない。木下と話している圭吾を三香子は見ていた。なんでもないと言うこともできるが、圭吾はあえて言った。
「しばらく忙しくなる。イギリスにも行かなければならなくなりそうだ。まだはっきりとはわからないけれど、多分そうなる」
「でも……、帰ってくるんでしょう……?」
 圭吾を見上げている三香子の瞳は店の灯りを受けて光っていたが、その光がほんの少し揺れているように見えた。それでも三香子は圭吾から目をそらさなかった。弱さで揺れているのではなく、圭吾を好きだからそんな目をするのだと訴えているようだった。大丈夫だと言う代わりに三香子を抱きしめた。
「帰ってくる。三香子がここにいてくれれば帰ってくる」
 胸に抱いた三香子に、そして自分に言った。


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