静かに満ちる 24

静かに満ちる

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24


 刻み終えたレモンの皮や実がキッチンへ運ばれてしまっても三香舎の店の中にはレモンの皮特有の香りが濃く残っていた。圭吾の座っていたそばの廊下のガラス戸は少し開けられていたが、今は大石の母がそれを広げて開けていた。里美は三香子とテーブルの上を片付けて拭いていた。
「里美さん、ありがとうございました。お昼、一緒に食べていってくださいね」
「え……」
 テーブルの上を拭いていた里美の手が止まり、なんと答えていいのかわからないというように
ためらっていた。
「手伝ってもらったお礼です。みんなと一緒のお昼ですけど、よかったら」
 テーブルのそばへ戻った大石の母も、そして圭吾も廊下から里美と三香子を見ていた。
「遠慮なんかいらないよ」
 大石の母が助け船を出してくれて三香子がちょっとほっとした顔をした。
「そうですよ。みんなで食べませんか。わたしからもお願いします」
 里美は立ったままうつむいて首を振った。
「お願いなんて……」

「三香子さん、ごめんなさい」
 ぽつりと里美が言った。
「そう言わなきゃならないのに言えなかった。ここに来て欲しいって三香子さんが言ってくれたのに何度も言えなくて……。まわりが見えてないのはわたしだった」
 まわりが見えてない。その言葉に圭吾は三香子の顔を見たが、三香子は一瞬表情が変わったが、里美を見つめたままだった。
「どうしたらいいのかわからなかった。わからなくて……」
「里美さん」
 三香子が顔に手を当ててしまった里美の腕に触れたが里美はすぐに目から手を離した。
「ごめんなさい。これ以上三香子さんに甘えてしまったら……。わたし、帰るから」
「でも、里美さん」
「三香子」
 引き留めようとした三香子のそばへ行って圭吾は静かに止めた。
「里美さんを待っている人がいる」
 え、と言うように三香子と里美、ふたりが圭吾を見た。
「俺たちが店に来たときから駐車場で里美さんを待っている人がいるんだ」
 思わずといったふうに三香子と里美が顔を見合わせたが、弾かれたように里美が玄関へ行くと戸を開けて外へ出た。二、三歩外へ出て駐車場のほうを見たまま里美は動かなくなってしまった。それだけで三香子にもわかったようだった。駐車場にいるのが誰なのか。
「圭吾さん」
 三香子が横に来た圭吾を見上げた。圭吾が三香子の手を握ると三香子はまた玄関の外へと視線を戻した。玄関の外で茫然と立つ里美に龍一が近づいて来ていた。
「迎えに来た」
 龍一がそう言ったが、里美は答えなかった。信じられないように龍一を見たまま立っている。
「帰ろう。里美」
 そう言って龍一は圭吾と三香子に向き直ると頭を下げた。三香子がなにか言おうとしたが、圭吾が握った手に力を込めると三香子は言うのをやめた。
「気をつけて」
 圭吾がそれだけ言うと龍一がまたちょっと頭を下げて玄関の戸を閉めた。閉められた戸の向こうから里美の押し殺したようなかすかな泣き声がしたが、三香子は動かなかった。里美の声が遠ざかり、車の出ていく気配がしてから圭吾が繋いだ手を引くと三香子は店の中へ戻った。

 大皿に並べられたおにぎりととん汁。大石の母の持ってきてくれたきゅうりのぬか漬け。日本の定番のような料理の昼食を大石の母、児玉、そして圭吾と三香子の四人で囲んだ。三香子はあまりしゃべらなかったが、ときどき児玉と明日の段取りを話したりしていた。 昼食を済ませると児玉と三香子はレモンのマーマレードを煮込んで仕上げ、手分けをして菓子を焼いたり料理の仕込みをしていたが、大石の母はそのあいだ圭吾を相手にしながらマーマレードの瓶にラベルを貼り付ける作業をしていた。しばらくして圭吾は外へ出て駐車場を見てみたが、やはり龍一の車はもう止められてはいなかった。
 龍一が来たことに圭吾は腹立たしさは感じなかった。三香子と龍一に過去があっても、龍一が同じことを繰り返すような男ではないからこそ里美を迎えに来たのだろう。圭吾と三香子に今の思いがあるように、龍一と里美にもそれがあるはずだ。
 圭吾が店の中に戻ると大石の母はすでにマーマレードの瓶を片付け終わっていて、まるで圭吾が戻ってくるのを待っていたかのように座っていた。
「さてと、あたしも帰ろうかね」
 大石の母がそう言って腰を上げた。
「三香子ちゃん、明日は奈々が来るからね。よろしく頼むよ」
 声をかけられた三香子がすぐにキッチンから出てきた。
「はい、今日はありがとうございました。ほんとうに、ありがとうございました」
 大石の母の前で三香子が深々と頭を下げた。
「なんだね、あたしゃなんにもしてないよ。三香子ちゃん、お昼をごちそうさま。じゃあね」
「送ってくる」
 三香子にそう言って圭吾は大石の母と玄関を出た。大石の家はすぐ近くで三香子の店の前の道から通りへ出てしまえばそこが大石青果店だったが、そのわずかな道程を圭吾は大石の母と一緒に歩いた。
「守田さんは明日も来るんだろう」
「ええ」
「そうかい。あたしも明日、顔を出すからね」
 歩きながらそんな話を交わして大石の店の前まで来ると今度は圭吾が頭を下げた。
「大石さん、ありがとうございました」
「あんたまで。いやだねえ。さっさと三香舎へ戻りなよ」
 大石の母はまったく取り合わず笑っていたが、圭吾を見る瞳は穏やかだった。

 歩いて戻る圭吾に三香舎が見えていた。よくあるような瓦屋根の家だったが、古くても使われていれば家は生きている。店の看板や玄関周りに置かれた鉢植えの花とともに建物のたたずまいもそれは圭吾にとって三香子がいるということだった。圭吾にとって父の住んでいた家がこんなふうに親しいものになるとは思ってはいなかったのに、今はその家へ向かっている。
 圭吾が三香舎へ戻ると三香子がキッチンから顔を出した。
「お帰りなさい」
「児玉さんは」
 さっきまでいた児玉の姿が見えなかった。
「マーマレードもできたし、お菓子もほとんどできたので児玉さんには帰ってもらいました。児玉さんにはまた明日も来てもらうようにお願いしてありますので」
「そう」
 店の中は静かだった。三香子がキッチンから出てきた。
「コーヒー、淹れましょうか」
「いや、いいよ。三香子はまだ仕事?」
「あと少し。明日の支度をしてしまえば」
 にこりと三香子が笑って圭吾がわかったというように手をあげると三香子は圭吾を見ながらキッチンへと戻っていった。

 庭には西日が射していた。10月のまだ明るい陽の光がここが温暖な土地だと思い出させてくれる。明日も晴れそうだった。三香子がいるキッチンの物音を聞きながら圭吾は待っていた。やがては窓の外の西日が傾いて夕暮れの色が濃くなっていくように、待つ時間はいつかは終わるだろう。
「圭吾」
 視線を戻すと三香子が立っていた。はずしたエプロンを手に持って三香子は圭吾を見ていた。圭吾が立ち上がって三香子を抱きしめると三香子も腕を回して圭吾に抱きついていた。キスさえもせずにお互いを抱きしめ合いながら三香子が顔を上げるのをじっと圭吾は待ち続けた。三香子の髪や服にマーマレードやキッチンのいろいろな匂いが付いているように、三香子自身にも今日という一日の気配が残っている。 三香子はなにも言わないが、言わせる気もなかった。心の内を見ることはできないし、話す言葉がないのなら今は話さなくてもいい。けれども三香子はここにいる。三香子の息の音が聞こえる。圭吾が顔を下げて唇を触れさせると、三香子の瞳が上げられた。三香子の唇を柔らかく食んで開かせて、三香子の思いを吸い取るように吸った。
 触れ合わせた唇をゆっくりと離し、また触れ合わせては離れる。頬へ触れ、あごをなぞり、ほつれてきた三香子の髪をなでながらまたキスをした。お互いの服の擦れる音と息の音しか聞こえない。
「これで……よかったのかな……」
 圭吾だけに聞こえる三香子のかすかなつぶやきに圭吾は三香子の肩へと顔をつけた。
「よかったんだよ」
 抱きしめている三香子のあたたかな肌の匂いに圭吾は目を閉じていた。


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