静かに満ちる 23

静かに満ちる

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23


 二週間後の土曜日。
 圭吾は桑原へ向かっていた。三香子から翌日の日曜日に催される産業祭りの準備をするために今日は店を休みにすると聞いていたので、店ではなくマーマレード工房に着くと声をかけながら入口の戸を開けたが、開けた途端に清々しく香り高い柑橘の香りがして、それはすぐにレモンの香りだとわかるものだった。
「おや、守田さん、いいところに」
 開けた戸のすぐそばに大石の母が立っていた。
「なんでしょうか」
「これを運ぶのを手伝ってもらえないかね」
 大石の母の言うことなら聞かないわけにはいかない。圭吾が丁寧に答えると大石の母はうれしそうに笑った。大石の母が置いてあった銅の大きな鍋やダンボール箱を三香舎へ運ぶようにてきぱきと言うのを、奥にいる三香子がちょっと慌てたような顔をして聞いていた。
「今日は明日売るマーマレードを作るんじゃないの?」
「守田さん、明日売る品物を今から作っていたら間に合わないよ」
 三香子に尋ねたのに答える前に大石の母が口をはさんだ。ダンボール箱の中にはすでに瓶詰めされたマーマレードが並べられていて、圭吾はそれもそうだなと思った。
「もう売る分はできています。あとは試食用や皆さんに食べてもらうぶんを作って、お菓子も作ろうと思っています。すみませんがこれをお店のほうに運んでもらえますか。お店には児玉さんがいるので」
 やっと三香子と言葉が交わせた。マーマレードの入った箱と、ぎっしりと詰められた生のレモンの入った箱を車に乗せながら圭吾が良い香りだと言うと三香子がぱっとうれしそうな顔をした。
「これ、隣り町の農園で無農薬で栽培されているレモンなんですよ。今年から仕入れてマーマレードにしようと思って頼んでいたんですけど、今年は収穫がずれこんで10月になってからやっと届いたんです。いい香りでしょう」
 圭吾の持っているレモンの入った箱に三香子が顔を近づけて自然とふたりの体が隣り合った。
「おやまあ、おふたりさん、いい感じだねえ」
 出てきた大石の母に冷やかされたが、三香子は平気な顔で笑っていた。
「大石さん、乗っていきますか」
「いや、あたしゃ家に寄っていくから。三香子ちゃんは守田さんと行くといいよ」
 大石の母の言ったことに三香子は一瞬考えているようだった。工房から店までは200メートルほどしか離れてないから車なら2分とかからない。この前は圭吾の車に乗っていられたのだからと
思ったのだが、やはり三香子は首を振った。
「すみません」
「いいよ。じゃあ先に行っている」
 圭吾は車に乗ってエンジンをかけながらため息のように息を吐き出していた。わかってはいたことだが、今日は三香子とゆっくり話す時間はなさそうだった。

 三香舎の店の前の道へ車を止めて圭吾が荷物を運んでいると三香子が少し息を弾ませて追いついてきた。走って来たのかと思って圭吾が三香子の顔を見ると三香子が大丈夫だと言う代わりのように笑ってみせた。三香子と一緒に箱を持って店の勝手口へ運んでいくと児玉が顔を出して三香子を手招きした。
「三香子ちゃん、ちょっと」
「はい」
 勝手口から靴を履いて児玉が出てきた。
「前にも店に来たことがある人で、三香子ちゃんが前に働いていたところの先輩だって言ってた人がいたでしょう。その人がさっき来て、今日は休みだって言ったんだけど三香子ちゃんが来るまで待たせてほしいって言うから上がってもらったんだけど」
「え……、もしかして里美さん?」
 児玉がうなずいた。圭吾は里美のことだとわかって思わず三香子の顔を見てしまったのだが、児玉もじっと三香子を見ていた。その時、大石の母が歩いて近寄ってきた。
「あれ、どうしたの」
 勝手口の外に黙って立っている三人に大石の母がちょっと不思議そうな顔で言ったので圭吾は三香子を呼んだ。
「三香子」
「あ、はい」
 三香子が振り向いた。
「車を駐車場に止めてくる」
 圭吾になにか言われると思ったのだろうか、三香子は圭吾の顔を見上げたが、圭吾はなにも言わず車へと向かった。内心では里美がどうしてまた来たんだ、と言いたい気持だった。三香子に言わなかったのはそばに児玉や大石の母がいたからだった。
 圭吾は店の隣りにある駐車場へ車を止めるとすぐに車から出たが、その時1台の車が駐車場に入ってきた。圭吾の車からは離れた奥のほうから入ってきて止まった車を見て圭吾の足が止まった。東京都内のナンバーをつけた車の運転席にはひとりの男がいて、圭吾は男が車から降りると思ったのだが、男は圭吾に向ってちょっと頭を下げただけで車を降りようとしなかった。

 三香舎の玄関から入った圭吾はいつもの廊下の窓際の席には座らなかった。店の中には翌日の産業祭りで売るジャムやマーマレードの入った箱が積まれていて、いつもは使っていないテーブルや椅子も置かれていた。
 里美は奥の座卓の前に座っていたが、この前のようにじっと座ったままで動かなかった。圭吾が入ってきたのには気がついたようだったが、里美は圭吾のほうを見ようとはしなかった。店の中には紅茶の香りが漂っていて、三香子がキッチンからお茶を盆に載せて出てくると里美の前に紅茶を置いた。
「里美さん、せっかく来てもらったのに、ごめんなさい。明日、お祭りがあるのでその準備で今日は休みにしたんです。わたしは準備があるけれど、よかったらゆっくりしていってくださいね」
 三香子が話しかけているのに里美はうなずいただけだった。こんな里美でも拒否しないのは三香子に考えがあるからだろうが、いったいどうするつもりなのかわかりかねて圭吾は立ち上がった。三香子を追ってキッチンに入ろうとしたが、ちょうど小さなカウンターの向こうから出てきた大石の母に押し戻されてしまった。
「ほら守田さん、今日はお客じゃないんだから手伝ってもらわなきゃ困るよ」
 大石の母は大きな声で言って持っていたレモンの入ったザルを圭吾に押し付けてきた。
「いや、大石さん、俺は」
「ごちゃごちゃ言ってないで。マーマレードは作るのに結構時間がかかるんだから。ほら、こうやるんだよ」
 大石の母が大きなザルに入れられたレモンをひとつ取り上げ、ステンレスのボウルを置いて圭吾にはかまわず説明を始めた。
「このレモンの皮には切れ目が入れてあるからね、それに沿って皮をむくんだ。レモンの皮は固いから気をつけてむいておくれよ。実はこっちだからね」
 あっけにとられている圭吾に大石の母はまったくペースを崩さずにまずレモンの皮をきれいにむいて見せた。
 大石の母のしゃべる大きな声に里美が奥からじっと圭吾たちを見ていた。圭吾はそれに気がついてなんだか納得できないような気分だったが、黙ってレモンを手に取って皮をむき始めた。
 気がつくと児玉もキッチンから出てきていた。児玉が圭吾が皮をむいたレモンの実をひと袋ずつに分けて切れ目を入れ、大石の母は椅子に腰をおろしてその実を丁寧に袋から出している。圭吾が大きなザルいっぱいにあったレモンの皮をすべてむいてしまうと三香子がキッチンから追加を
持ってきた。
 圭吾はただ切れ目に沿って皮をむいているだけだったが、目に沁みそうなくらいレモンの香りが店中に満ちて、むせてしまいそうなくらいだった。
「手が汚れるでしょう。これを使ってくださいね」
 途中で三香子がビニールの手袋を持ってきた。大石の母も児玉も同じ手袋をしていた。なんだかいつのまにか圭吾もレモンのマーマレードを作る作業に組み込まれてしまっている。大石も児玉もときどきおしゃべりをしながら手を休めないで種やすじを根気よく取り除きながら実を袋から出している。児玉が圭吾がレモンの皮をむき終わってしまうのを見計らって三香子を呼んだ。
「三香子ちゃん、皮のスライスいくからね」
「はい」
 今度は三香子も出てきて、児玉と三香子がそれぞれのまな板の上でレモンの皮を薄く刻み始めた。
「守田さんもやってみるかね」
「いや、これは無理です」
 大石の母に言われて圭吾は尻込みした。これはいくらなんでも自分にはできそうもない。そう
言った圭吾の言い方がおかしかったのか、大石の母は豪快に笑った。
「なんだい、だらしがないねえ。それくらいのこともできないのかい。まったく今の若い男は役に立たないねえ」
 児玉にも遠慮なく笑われて、大石の母も言いたいことを言ってくれると圭吾は退散したい気分
だったが、大石の母の大きな声に奥にいる里美もさっきからずっとこちらを見ていた。すると大石の母が椅子に座ったまま店の奥へと振り返った。
「ああ、あんた。あんたも料理ができるんだろう? ちょっと手伝ってもらえるかね。そんなところに座っていてもすることがないだろう」
 自分に言われているのだと気がついて里美の目が見張られた。
「ほらほら、早く。年寄りに呼ばれたらすぐに動くもんだよ」
「あ……、はい」
 里美がおずおずと立ち上がった。圭吾が場所を空けるようにテーブルから離れるとそこへ三香子がまな板と包丁を置いた。
「お店の包丁だから使いにくいかもしれませんけど。お願いします」
 里美は三香子の置いてくれた包丁を見ていた。
「……使わせてもらいます」
 そう言ってから里美がレモンの皮へ手を伸ばした。大石の母も児玉も、そして三香子も里美が
レモンの皮を手に取るのを見ていた。

 レモンの皮を刻み始めた里美は最初はゆっくりと刻んでいたが、だんだんと刻む音が一定のリズムになっていった。
「うまいね。とても薄く切れている」
 大石に褒められて里美はまた新しい皮を刻みだした。
「この包丁、良く切れます。使いやすいです」
「そうだろう。この町には刃物の研ぎを専門にやっている人がいてね。その人に頼んで研いでも
らっているんだ。児玉さんの包丁を見てごらん。ほら、刃が少し小さいだろう。研いで小さくなったんだよ。こんなだけど児玉さんは料理人だからねえ」
「こんなは余分ですよ」
 大石の言葉にやり返した児玉の手元を里美が感心したように覗きこんでいた。
「使い込んでありますね」
「あんたにだって自分の包丁があるだろう。こんど持っておいで」
 大石にそう言われて里美が自分の手元を見た。
「わたし……ずっとお料理していなかった」
「これからまたすればいいじゃないの。誰かになにかを作ってあげるのって楽しいだろう」
 里美は黙ってまたレモンの皮を刻み始めた。三香子も刻んでいる。三香子たちが作業をしているのを圭吾は廊下の窓際のテーブル席の椅子に座って見ていた。大石の母と児玉がしゃべって、ときどき三香子が返事をしている。途中で里美の手が止まり頬をぬぐったが、三香子たちはそれに気がついたようだったが変わらず作業を続けていた。それからも里美はときどき頬をぬぐいながらレモンの皮を刻み続けていた。


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