静かに満ちる 21

静かに満ちる

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21


 里美がいるのに気がついて圭吾は思わず立ち止ったが、里美は圭吾のほうを見ているのに圭吾には気が付いていないようだった。圭吾の顔を憶えていないのかもしれない。
 里美は手を座卓の下に入れたままじっと座っていた。圭吾はいつもの廊下の窓際のテーブルの席に座ると水を持ってきたウェイトレスの奈々に目立たないように尋ねた。
「あの人はよく来る人?」
「あ、里美さんですか。三香子さんの知り合いだそうですよ。先週も来られました」
 奈々は里美を知っていた。しかも里美は何度かここへ来ているらしい。三香子が里美に来て欲しいと言ったことは聞いていたが、それからどうなったかは聞いていなかった。あまり三香子と話ができなかったにしろ迂闊だった。自分の知らないあいだに何かあったかもしれないと考えると背中が冷たくなるようだったが、けれども奈々はいたって普通の様子で里美のことを教えてくれた。
 そのとき、三香子がキッチンから出てきた。紅茶を載せた盆を持って出てきた三香子は圭吾に気がついたが「いらっしゃいませ」と言っただけで紅茶を里美のほうへ運んで行った。圭吾がさりげなく奥の里美を見ていると三香子が紅茶と小さな菓子の皿を置くあいだも里美はじっと視線を上げずに座っていた。三香子がなにかひと言かふた言、声をかけたが里美は答えなかった。三香子が
キッチンへ戻ってくるときに圭吾と目が合ったが、少し微笑んですぐにキッチンへ入ってしまった。
「今日は食事の予約は入っているの?」
 圭吾のところには奈々が紅茶を運んできた。
「はい、今日は人数が多いのでひと組だけですが」
「何人?」
「えっと、15人ですね。町の商工会の女性部の人たちだそうです」
 三香子は食事の準備に取り掛かっているらしく、忙しそうに働いていた。客が15人ならここは貸し切り状態になるから自分がこのままここにいるのはまずいだろうかと思ったが、里美もまだいる。もう昼の営業は終わってあとは予約の客を待つ時間になっていた。そこでようやく三香子がキッチンから出てきた。
「すみません、今日はちょっと忙しくて。守田さん、お夕飯はどうされますか」
「児玉さんは帰ったの」
 さっきから児玉の姿が見えない。
「はい。児玉さんのお母さんがちょっと具合が悪いそうなので今日は昼間だけ手伝ってもらうことになっていたんです」
 児玉さんは親と一緒に住んでいるのか。そう思ったが、三香子にそれを聞くこともできなさそう
だった。
「いや、仕事なんだから俺のことは後でいいよ。まだ腹が空いていない」
 昼食を食べてから大石のところで茶を飲んで、ここでも紅茶を飲んでいる。正直、あまり腹は空いていなかった。
「そうですか。すみません」
 そう言って三香子が仕事に戻っていった。また奥に座っている里美のところへ行って三香子がなにかを話すと里美が立ち上がった。帰るかと思ったが里美は帰らず圭吾のいる廊下の奥の、もうひとつのテーブルの席へと座った。三香子が奈々に手伝わせて座卓の位置を並べ直すあいだ、里美はじっと座って三香子たちのすることを見ていた。圭吾が座卓を動かすのを手伝おうかと思ったがそれはすぐに済み、奈々が座卓の上に敷紙や箸を並べ始めた。位置を確かめながら奈々が食事というよりは宴会風に箸と箸置きを置いていく。奈々も忙しそうにしているのを里美はやはり黙って見ていた。
 奈々が行ったり来たりしてセッティングを済ますとキッチンへ入って三香子を手伝い始めた。三香子がときどき奈々になにか言っている声が聞こえていた。そのときだった。里美が立ち上がってから体をかがめるようにして座卓へ手を伸ばすとずれていた敷紙の一枚を直した。一瞬、圭吾は里美がなにかいたずらでもしたのかと思ったがそうではなく、ずれていた紙を直しただけだった。圭吾が持っていた英字新聞を少し開きながら里美を見ていると、里美はなに事もなかったように座り直して紅茶をひと口飲んだ。三香子が里美の前に置き直してくれた紅茶だった。
「奈々ちゃん、これを先に盛りつけておいてね」
 こんどは三香子の声がはっきりと聞こえた。鍋ごと冷蔵庫に入れて冷やしていた料理を奈々が小鉢に盛り始めた。
「天盛りにミョウガを乗せてね」
「え、天盛り」
 奈々には意味がわからないらしい。三香子は手を離せないらしく「ちょっと待ってて」と奈々に言っている。圭吾からはキッチンで奈々がちょっと困ったように待っているのが見えていたが、すぐに三香子がそばへ来て説明しながら盛りつけをして見せた。手伝いが奈々だけではしかたがないが、三香子はいつもより忙しそうだった。奈々が盛りつけ終わった小鉢を運んできてひとつずつ並べ始めたが、すると里美がすっと立ち上がった。
「あ、あの」
 奈々の驚いたような声に三香子がキッチンから里美を見ていた。
「園田先生は片付けでも準備でも、してもらうのを見ているだけっていうのができないって、いつも言ってた」
 三香子がキッチンから出てきた。
「アシスタントの私たちがいるのにいつも一緒にセッティングや後片付けをして。これもお料理のうちだって言いながら」
 三香子が黙って里美を見ていた。
「三香子さんもそうでしょ。そう思っているんでしょ? でも」
 里美が自分のバッグをつかんで早足に圭吾の横を通り過ぎるとそのまま玄関へ向かった。
「里美さん……!」
 三香子が呼んだが間に合わず、里美はすでに出て行ってしまった後だった。キッチンの前まで出てきていた三香子を圭吾は見たが、三香子の表情は硬かった。
「あの、わたし、なにか悪かったでしょうか」
 困ったようにそう言った奈々に三香子はそばに行って残りの小鉢を一緒に並べながら言った。
「奈々ちゃんのことじゃないのよ。里美さんはわたしに言ったのよ。だから気にしないで」


 にぎやかな話し声と料理を食べる音。
 地元の商工会の婦人部というのは商店や自営業などの奥さんたちの集まりで、今日は貸し切りだったから皆が気楽で大きな声でおしゃべりをしていた。遠慮ない笑い声やおかわりを頼む声が圭吾のいるところまで聞こえてきていた。
 客が来る前に圭吾はどこか自分が待てる場所がないだろうかと家の中を見てみた。台所の横にトイレと風呂場があったが、風呂場は客が入ってしまわないように入口の戸に鍵が掛けられていた。風呂場に籠るのでは様にならないなと思いながら奥を見ると四畳半ほどの広さの板敷きの部屋があった。納戸を兼ねているような小さな部屋だったが、裏の夏みかんの木に面して腰高窓があり、古くて小さな木の棚とダンボール箱が置かれていたが、その棚に見憶えがあった。圭吾が初めてこの家に来たときに目にしたこの棚は父の使っていた物だろう。三香子はこれを捨てずにとっておいてくれたのだ。
 九月の夜はまだ暑かったが、網戸にした窓からは山から吹いてくるような風が吹きこんでいて動かずにいれば汗をかくほどではなかった。灯りをつけていない部屋の中は暗く、網戸越しに外からの光がかすかに射し込んでいるだけだ。圭吾は床に寝転がっていたが、人の声が聞こえていた店が静かになっているのに気がついて起き上った。
「圭吾さん」
「いるよ」
 廊下から三香子の声がかかり立ち上がって戸を開けると三香子が部屋の中が暗いことに驚いたようだったが、圭吾は腕を伸ばして三香子を抱き寄せた。
「ごめんなさい。こんなところで待たせて」
 自分が待ちたくてここにいただけだ。そう言う代わりに三香子の体を抱く腕に力を込めた。
「終わった?」
「はい」
 奈々は帰ったのかと圭吾は聞かなかった。抱いている三香子の体はどこか強張っているようだった。体の芯の緊張が解けていないような、そんな感じが圭吾には感じられた。
「疲れただろう」
「ううん……平気」
 それは強がりだ。圭吾にはわかった。三香子は圭吾の胸に顔をつけたままだった。
 三香子の頬へ手を当てて上向かせるとキスをした。最初は動かなかった三香子だったが、圭吾がキスを続けるとやっと反応した。
「三香子は意外と強情だな」
「え……」
「疲れたときは疲れたと言うんだ。それとも俺にはそう言えないか」
 三香子は圭吾の胸から顔を上げようとしなかった。
「工房に送っていくよ。帰ろう」
 そう言ったのに三香子は動こうとしなかった。じっと立っている三香子に圭吾は聞いた。
「どうして里美さんに来て欲しいと言ったんだ」
 
 少し迷うような顔をしてからそれでも三香子は話しだした。
「園田先生から電話があって……里美さんがしばらく仕事を休んでいることを聞きました。このお店を始めてすぐに里美さんが来たけれど、その頃から様子がおかしかったそうなんです。先生に出したこの店の開店のお知らせも先生は知らなくて里美さんが持っていたって……里美さんはそんなことする人じゃないのに。先生もすごく心配されていて」
「だから?」
 それは三香子のせいじゃない。里美に手を差し延べようとでもいうのか。自分が疲れるのに、そこまでしてやる必要があるのか。冷たい言い方はしなかったが、圭吾にはそう思えた。
「三香子はお人好しだ」
「だって……」
 三香子がかすかに首を振る。圭吾を見上げながら。
「里美さんがこのまま仕事ができなくなったら、里美さんがわたしと同じようになったら……」
 辛いから。わたしが辛いから、だから……。
 そう言った三香子の頬に涙が落ちた。その涙をぬぐおうとした手を圭吾はそっとつかんだ。
 人の心はままならない。三香子が里美のためを思ってやっていることが三香子自身のためで
あっても。人の心は思うほうへは上手く転がってくれない。三香子だってまだ……。

「俺にできることは?」
 三香子が顔を上げた。
 誰かに深く関わることもなく生きてきたのに、この三香子の瞳に引き付けられている。三香子が心にまだなにかを抱えていても、それは変わらない。
 唇を寄せると三香子のあごが自然に上向けられた。ほんのわずかな距離を保つようにふたりの唇がゆるく触れ合う。
「抱いて……」
 三香子の声が小さく聞こえた。
「抱いて……、圭吾」


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