静かに満ちる 20

静かに満ちる

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20


 ロンドンへ出張したときに圭吾はまだ借りたままにしていたフラットの契約を解消するために不動産会社の担当者と会っていた。時間外に仕事をしてくれないのはどこの業者も同じだったが、なんとかわずかな時間を割いて部屋へも行き、手続きをすることができた。もともと家具付きのフラットだったし、置いてあった物にたいしたものはなかった。わずかな私物のいくつかを持ち帰ることにして後は処分を依頼した。そのあと本社で社長と話をして、あまり気分の良い話ではなかったが、それも会社というところで働いているのならありがちな事だと思っていたから、部屋を引き払ったことを後悔する気持ちはなかった。


 圭吾が日曜日の昼に三香舎を訪ねると、圭吾のテーブルに水を運んできてくれたのは児玉だった。
「守田さん、ランチプレートをいかがですか」
 いままで混む時間帯には来ないようにしていたので、圭吾はあまり昼のランチを食べたことがなかった。昼のランチは料理が日替わりになっているランチプレートで、楕円の白いプレート皿に数種類の料理が盛り合わされているものだった。単品で頼めるものはオムライスとカレードリアしかないが、ほとんどの客はランチプレートを頼んでいた。
「本日はハーブソルトのポークソテーとほうれん草のキッシュです」
「じゃあ、それを」
 児玉が慣れた感じで今日の料理を言って圭吾が頼むと、しばらくして皿を運んできたのは三香子だった。
「お待たせしました」
 座ったまま圭吾が三香子を見上げると三香子がにこりと笑った。三香子が出てきたキッチンでは児玉が働いていた。
「マーマレード工房のほうがあまり仕事がないので、児玉さんにはこちらの仕事をお願いしているんです」
「そういえばこの前、マーマレードやジャムが完売したって言っていたね」
 三香子がそうです、と答えた。盆を持って話している三香子はもとからせわしなく立ち動くようなところは見せなかったが、なんとなくゆったりとしていた。あいかわらず化粧の薄い素な感じで、今日は紺色の半袖のTシャツを着ていて、いつものギャルソンヌエプロンはフラックス色だった。だぶだぶではないコンパクトな感じの紺色のTシャツが三香子の肌色を引き立てていた。
「ゆっくりしていってくださいね」
 そう言って三香子はまた少し微笑むとキッチンへ戻っていった。
 ランチのプレートにはバターライスやサラダも盛られていて今日は洋風の料理だった。食べてみるとポークソテーのハーブソルトの味が効いていて、まわりの客たちがおいしいと言っている声が聞こえた。今日はまだ座卓の席が空いていたが、カップルと家族連れの客で店内は和やかな雰囲気だった。ウェイトレスの奈々がいる。児玉もいる。ふたりと一緒に働いている三香子を見ながら圭吾は料理を食べ、コーヒーも飲んだ。店がすいているのならこのまま夕方までいようかとも思ったが、店は圭吾が食事をしているあいだにほぼ満席になっていたので自分がずっと席を占めているのは悪いと思い立ち上がった。
「またあとで来るよ」
 三香子に声をかけて店を出ると圭吾は歩き出した。少し歩いて振り返ると三香舎の家と家の向こうにある青々とした葉の夏みかんの木が見えた。平屋の屋根瓦がまだ暑い九月の陽射しに光っている。まわりのほとんどの家が二階建てなのにこの家は平屋だ。圭吾の父が建てた家ではないが、ひとりで住むにはそれでよかったのだろう。漠然と家を眺めながら圭吾は父のことを考えていた。父が亡くなってから一年以上が過ぎていたが、一周忌もなにもしなかった。この家はもう父の家ではない。三香子に貸して中も店になっている。三香子は以前、圭吾がこの家に住むこともできるのにというようなことを言っていたが、圭吾には父の住んでいた家に住む気はなかった。しかし日本に住む気さえなかったのがロンドンのフラットを引き払ってもいいと思ったのはやはり三香子が日本に、桑原にいるからだった。それはまだ三香子には言ってなかったが。

「あれ、守田さんじゃないかね」
 通りに出たところで後ろから呼び止められて圭吾が振り返ると八百屋の建物の横に大石の母が立っていた。今日は日曜日で八百屋の店のシャッターが閉まっていたので圭吾はそのまま通り過ぎようとしていたところだった。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
 小柄で丸い体の大石の母に見つかってしまったという顔は見せないで挨拶すると大石の母はすたすたと出てきた。
「あんたも世界を股に掛けて仕事しているのにご苦労さんだねえ。よくこんな田舎の町に通って来るって感心してるんだよ」
 大石の母の大げさな言い方に、いや、別に世界を股に掛けているわけじゃないと圭吾は訂正したかったが、大石の母は手を後ろで組みながらじっと圭吾を見上げていた。
「ちょっとうちへ寄っていかないかね。いいだろう」
 圭吾は年配の女性とはほとんど話をしたことがなかったので茶飲み話の相手でもさせられるのかと思い遠慮しようとしたが、大石の母はもう家の入口を開けていた。貫禄負けだな、と圭吾は観念した。
「お邪魔します」
 一応、そう言って靴を脱いだが、家の中は誰もいないようだった。
「息子は町の会合に行って留守だよ。嫁も買い物に行ってるから」
 八百屋の主人が区長と呼ばれる町内会長をやっていることは以前から聞いていた。
「休みの日まで大変ですね」
 そう声をかけたが大石の母は返事はせずに台所から出てくると圭吾の前に茶を置いた。
「すみません、俺はさっきコーヒーを飲んだばかりで」
「三香子ちゃんのところでだろう。わかってるって」
 そう言うと大石の母は自分の茶をひと口すすった。なんとなく大石の母がなにか言いそうな雰囲気で圭吾は大人しく茶をひと口含んだ。
「三香子ちゃん、ずいぶんと明るくなったねえ」
 圭吾はなんと言っていいのかわからずに聞いていた。圭吾と初めて会ったときから三香子は物静かだったが暗い感じはなかったのだが。
「三香子ちゃんが東京から来たばかりの頃は元気がなくてねえ。三香子ちゃんの東京の家はあたしの実家と親戚なんだよ。あたしの実家は隣りの町でね。三香子ちゃんも子どもの頃に親に連れられて何度かあたしの実家に遊びに来たことがあったんだ。そんなわけで三香子ちゃんは東京から来たときにはしばらくあたしの実家にいたんだけどね」
 圭吾が黙って聞いているので大石の母はまた話し出した。
「東京でいろいろあって疲れちゃったんだろうけど、かわいそうでさ。でもそのうち、うちに野菜を買いにくるようになって聞いたら料理研究家っていうところでアシスタントの仕事していたって言うじゃないの。今の若い人なんて料理はみーんな買ってきたものを並べるだけだろう? うちの店だって総菜が売れるくらいだ。それに文句は言わないけれど、三香子ちゃんがあたしにネギぬただの、酢味噌和えだの、そんなのの作り方を教えてくれって言ってきたときはうれしかったねえ。守田さん、ぬたって知っているかい」
「すみません、知りません」
「これだから若い人はねえ」
 そう言ってから、だけどさ、と大石の母が続けた。
「三香子ちゃんが前に守田さんに車で送ってもらったって聞いたときはびっくりしたよ。あんなに車が駄目だったのに守田さんの車には乗っていられたっていうじゃないの。だから、もしかしたらって思ったんだよ」
「もしかしたらというのは」
「やだねえ、この人は。守田さんだから乗っていられたってことだよ。三香子ちゃんにとって守田さんはそういう人だったってことさ。あんた、そんなことまであたしに言わせてどうすんの。まどろっこしいねえ」
 大石の母の言うことは最後の言葉はともかく、ちゃんと圭吾に伝わった。
「マーマレード作りを初めて三香子ちゃん見違えるように元気になって、仕事をするのはいいこと
だって思っていたけれど、やっぱりあんたと会ってから三香子ちゃん明るくなったよ。明るくなったのはいいけど忙しすぎるのもどうかって、あたしゃ心配してたんだけどね。まあ、守田さんが来てくれるならいいんじゃないの」
 大石の母の顔は丸顔のしわが笑いじわのようになっていて、気楽そうに言っているように聞こえたが大石の母はやはり三香子のことを孫のように思って気にかけているのだ。三香子とのことを他人になにか言われても圭吾は取り合わなかっただろうが、この大石の母は別だった。
「ありがとうございます」
 圭吾はそう言って頭を下げた。
「あんたに礼を言われる筋合いはないよ。あたしゃ三香子ちゃんの両親からよろしくって頼まれている手前、三香子ちゃんに変な虫が付いたら困るんだよ。あんた、最初は気むずかしそうに見えたけど、案外いい人だってわかったからね」
 大石の母は夕方までうちで昼寝でもしていきなよ、と言ってくれたがそれは圭吾も遠慮した。圭吾が家から出ようとすると大石の母は出口まで出てきて見送ってくれたのだが、靴を履こうとしていた圭吾に大石の母はぽつりと言った。
「三香子ちゃんがまだ車に乗れないのはやっぱり気持ちの問題だと思うよ」
 圭吾もそう思っていた。三香子が車や電車に乗れないのは乗り物酔いだからではない。見おろした大石の母の顔もそう言っているようだった。

 大石の家を出て圭吾は歩き出した。三香子に会いに来てもいろいろな話ができるのは少ないと思う。一緒に歩くこともままならない。ロンドンのフラットを引き払ったときから圭吾は桑原に住むところを借りようかと考えていた。時間はかかるが横浜まで通えないこともない。住むところは圭吾が借りようと思えばできるだろうが、自分が住むというよりは三香子に住んでもらいたかった。今、三香子の住んでいるマーマレード工房の隅の部屋は、はっきり言って粗末なところだった。住みやすいところではない。
 店は夕方前の空いてくる時間だが、もし三香子と話ができるようなら家のことを言ってみよう。そう考えながら三香子の店に戻ると客は少なくなっていて真ん中の部屋に二組の客たちが座っているだけだった。三香子に声をかけようとして玄関で圭吾は立ち止った。一番奥の部屋、座卓の席にこちら側を向いて里美が座っていた。


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