静かに満ちる 19

静かに満ちる

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19


 ロンドンのアールズ・コート見本市会場でインテリア用品の国際見本市を見てからバーミンガムにあるコンベンション・ホールで行われる繊維製品の展示を見るという予定をこなして圭吾が日本へ帰って来たときは八月の末になっていた。同行した取引先の社長は医療やスポーツ用品などにも使われる新しい繊維製品の情報収集には貪欲で、圭吾とは別の同行させた自社の部下とともに精力的に会場を回った。圭吾は根気よく社長たちに付き合い、メーカー側から見積りを送らせる段取りもいくつか進んだ。取引先の社長たちは気合が入っているようでロンドン観光などとは言いださなかったが、移動の前に時間が半日空いたときに行けるところだけ見物と買い物に案内した。今回の仕事のほうは順調に行きそうだったが、圭吾はロンドンにいるあいだに本社に来るように言われて社長と話をしなければならなかった。
 圭吾の日本への異動の後で社長も交代していて、今の新しい社長は以前はいわば営業を統括する役職の重役だった人物で圭吾の上役だったが、この新しい社長は今までの事業展開を踏襲するだけのつもりはないらしく、それは圭吾も知っていた。業績がじり貧状態で前の社長が交代させられた以上、会社の営業方針が変えられるのは当然だった。
『やあ、ケイゴ。日本はどうかね』
 友好的な社長の態度だったが、日本支社長ではなく自分と話をするというのはあまり気乗りのしない会談だった。
『日本も経済は横ばいです。よほどのことがない限り急には変化しないでしょう。地道にやっていくしかありません』
『日本支社長のコバヤシはどうだね』
『どうとおっしゃいますと』
 小林はイギリス本社の前社長と友人だ。盟友と言ってもいい。圭吾もヘッドハンティングというほどではないにしろ前社長に声をかけられてこの会社に転職している。
『日本支社はできたときからコバヤシが支社長だ。支社とはいえ独立した営業所の色合いが濃い。今まではそれでやってきたが、私は日本だけではなく中国での取引に日本支社が関わって欲しいと思っている』
 中国か、と圭吾は思った。今まで中国と取引がなかったのは前社長の方針でもあった。中国との取引はなかなかに難しい。
『中国との取引には他とは違うノウハウや人脈が必要不可欠です。それは社長もご存じでしょう』
『知っているよ』
『それで。私に中国へ行けと?』
『いや、君じゃなくコバヤシに行ってもらいたいと考えている』
 どうしてそれを私に言うんです? と圭吾は尋ねなかった。つまりは自分を小林の後釜にするつもりなのだろう。この社長は圭吾ではなく日本支社長の小林を飛ばしたがっているのだ。前の社長はもっと直截にものを言う人だった。ため息を抑えて圭吾は本社を後にした。




 成田空港から夕方に着くことを三香子に連絡を入れてから圭吾は自分のマンションへ戻り、車で桑原の三香舎へと向かったのだが、平日は夕方までの営業のはずなのに圭吾が着いたときには店ではにぎやかな話し声がしていた。店の玄関を開けたとたんにその話し声が大石の母や児玉の声だとわかった。ほかにも何人かいるらしい。
「守田さん?」
 玄関を開けた圭吾を奥にいた大石の孫娘の奈々に目ざとく見つけられてしまった。
「三香子さん、守田さんが来ましたよ!」
 奈々が大きな声でキッチンに向かって言ったので三香子がキッチンにいるのだろうとキッチンを覗くと三香子がデザートのようなものを皿に盛りつけしていた。
「いらっしゃいませ」
 圭吾に言ってから三香子は奈々を呼ぶと盛りつけした皿を運ぶように頼んでからキッチンから出てきた。
「おかえりなさい」
 はにかんだような小さな声でそう言うと三香子の口元がほころんだ。
「こちらのテーブルへどうぞ」
 三香子に案内されて庭に面した廊下に置かれたテーブルの椅子に座ると奥の客たちからどっと笑い声が上がった。三香子も奥の客たちにつられるように笑顔になった。
「楽しそうだね」
「今日は三香舎を手伝ってくれている人たちに集まってもらって打ち合わせを兼ねた食事会なんです。今年はおかげさまでマーマレードもジャムも全部完売しましたのでお疲れさまも兼ねて」
「完売? それはすごいね。木下があわてるだろう」
「お店で使う分と産業祭りなどで売る分は別にしてありますから大丈夫ですよ」
 それから三香子が、すみません、もうすぐ終わりますからと言ったので圭吾はコーヒーを出しても
らってひとりで飲んでいたが、しばらくすると食事会が終わったらしく大石の母が圭吾のテーブルに顔を出した。
「守田さん、イギリスに行ってたんだって。ご苦労様なことだねえ」
「おばあちゃん、帰ろうよ。お邪魔虫だよ」
 すぐに孫の奈々が近寄ってきた。
「なんだい、この子は。あたしゃ、守田さんと挨拶したいだけだよ」
「もう、おばあちゃんたら空気読めないし。とにかく帰ろ。じゃあ守田さん、失礼しまーす」
 大石の母が奈々に引っ張られるように出ていくのを児玉や何人かの女性たちが笑いながら見ていた。
「じゃあね、三香子ちゃん、ごちそうさま」
「はい、お気をつけて」
「みんな近くだから大丈夫だよー」
 玄関の内と外とでひとしきり女性たちのにぎやかな声が交わされると皆が帰って行き、急に静かになった。
「すみません、食事会と重なってしまって」
 三香子が戻ってきてそう言ったが、今日連絡をした圭吾よりも食事会のほうが先約だったのだろう。圭吾が立ち上がると三香子が圭吾の顔を見上げた。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
 今度は圭吾もちゃんと答えた。腕をまわして三香子を引き寄せると三香子が胸に収まる。
「―― か」
 三香子がなにか言ったようだったが、聞き取れなかった。それよりも今は抱きしめていたかった。三香子の首筋から立ち上る匂いはイギリスへ行く前の夜に抱いたときと同じ匂いだった。黙って抱き続ける圭吾に三香子のほうが顔を上げた。
「眠くありませんか」
 圭吾は時差があっても行った先の時間に合わせてしまう主義で、さほど苦労しなくてもそうすることができた。それでも三香子が心配してくれるのはうれしかった。顔を下げると三香子の唇が待っているようにそこにあった。唇をつけて、最初はためらいがちな三香子の唇がすぐに圭吾の唇のままになる。
「……守田……さん」
「圭吾」
「けい……ご」
 キスの合間に三香子が途切れ途切れに言うのをひと言で訂正させて、さらに深くキスを続けた。自分がこんなにも思いのこもったキスができるとは思っていなかった。今まで誰ともこんなキスを交わしたことはなかった。三香子だからこそと思いながらキスを続けたが、それでも三香子が何度も息を継ぐと圭吾はやっと腕を緩めた。息が上がったように唇を開けている三香子を見て圭吾は笑みを浮かべた。
「俺の食べる物はなにかあるかな」
「鰹をたたき風にサラダと。ナスと夏野菜の揚げ煮。鶏の辛みソース炒め。海老の酒煎りにお蕎麦を添えたお椀。冷や奴。きゅうりのお漬物。ごはんは白いごはんと茶飯(ちゃめし)もあるの。それから……」
 笑顔になった三香子が呪文を唱えるように言っていく。料理の数々を言う三香子の表情はいかにもうれしそうだった。
 三香子は食事会では食べなかったと言って圭吾と一緒に食べていた。圭吾の性格からして手放しで料理の味を褒めるようなことはしないが、イギリスから帰ってきた圭吾には三香子が用意してくれた和風の料理に箸が進んだ。
「俺は外食してもなんでも食べるけど、三香子の作ってくれたものはどうしておいしく感じるんだろう」
「自分のために作ってくれたお料理は何でもおいしいって、大石さんのお母さんが言ってました。味付けだけじゃなくて誰かが自分のために作ってくれたっていうのがおいしいんですよ、きっと」
「じゃあ、三香子は俺のために作ってくれたんだ」
「そうですよ」
 三香子はちょっと恥ずかしげに照れたようにそう答えた。
 それからもゆっくりと食べながら三香子は直接仕事に関わりのあることは聞いてこなかったが、イギリスのことや国際見本市がどういうものかとか尋ねられたりして圭吾もそれに答えながら話をした。三香子はいつもていねいに圭吾の話を聞いてくれる。バイクのことは圭吾から尋ねて三香子が中型のバイク免許を持っていることを知った。
「父が車のディーラーに勤めていて、父も車やバイクが大好きでわたしも子どもの頃からよく乗せてもらいました」
 三香子の父親、家族のことはほとんど聞いてなかった。そして食事を終えた後で三香子がマーマレード作りをしている工房のほうに案内してくれて、そこに住んでいるのだと聞いてはいたが、三香子の部屋は奥の休憩室だったようなところを住むところにしたような部屋だった。簡易ベッドのようなベッドの横に一人用の小さなテーブルがあり、身の回りのものを入れているらしいプラスチックの三段ケースの上には女性の部屋らしく小さな鏡や小物が置かれていた。もともと住宅ではなく以前は野菜の加工所だったというこの建物は住むには不向きで、学生の部屋のほうがもっと良いところに住んでいるだろうと思えるような部屋だった。
「こんなところでびっくりしたでしょ。でもここ、古くても便利なんですよ。むこうにお風呂場もあるんです」
 あまり住むところにこだわったことのない圭吾だったが、それにしてもここは女性がひとりで暮らしやすいところではないと思えた。三香子が東京を離れて桑原へ来たのは料理研究家のところでの仕事を辞めてしまった以後のことだから、家族から離れてひとり暮らしをしているのも、三香子が店を開くためとはいえあんなにも圭吾の父の家を借りたがったのも、やはり三香子が乗り物に乗れなくなってしまったせいだろう。そして三香子はやはりまだ車にも電車にも乗れない。圭吾が運転するときだけかろうじて乗っていられただけで、それがどうなるのか圭吾にもまだわからなかった。
 ひとりで住むことも、仕事をすることも、そうしてきた圭吾にとっては当たり前といえばそうなのだが、三香子のような若い女がそうしていくのにはいろいろと難しいこともあるだろう。
「寂しくない?」
 ベッドに並んで腰を下ろすと自然にふたりの体が寄り添ったが、圭吾がそう尋ねると三香子は首を振った。
「大変だけど、合わないって思うこともあるけど、良くしてくれる人もいるから。大石さんや児玉さんたち、みんなたくましくて、あんな人たちに会えてここに来て良かったって思っている。守田……、圭吾と知り合えたのもここでだから」
 圭吾と三香子は言い直した。三香子に会いたければ桑原に来ればいい。以前もそう思った。だが、心のどこかでもっと会いたいと思っている。寂しいと三香子に言わせたかったのかと気がついて圭吾は心の中で苦笑しながら三香子を抱きしめた。


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