静かに満ちる 18

静かに満ちる

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18


 圭吾たちを見た三香子の少し困ったような顔。だが、すぐに三香子は頭を下げてお辞儀をした。真夏だというのに長袖のジャンパーのような上着を着ていて、三香子の顔は頬が赤くなって汗が流れているのが見えた。
「どうしたんだ」
 追いついた木下が話しかけようとしたのをさえぎって圭吾が尋ねた。
「え、あの……」
 三香子が口ごもったのが圭吾には腹が立った。三香子に対する怒りではなく、自分に対する腹立ちだった。自分が会いにいくつもりだったのにと木下がいなければ言っていたかもしれないが、圭吾の声は感情を抑えたせいで低くなっていた。
「どうやってここまで来たんだ。まさか、また自転車で?」
「いいえ。あの、今日はバイクで」
「バイク?」
 木下がヒューッと小さく口笛を鳴らすと三香子の顔がさらに赤くなった。
「バイクって、自転車ではなくて、バイク? オートバイ?」
 日本語に混乱しそうになって圭吾が確認するように尋ねると三香子は「はい」と短く答えた。圭吾を見上げている三香子の顔にはいつかのように汗で髪の毛が貼り付いている。
「自転車が大丈夫ならバイクも大丈夫だろうって、工房のみんなに言われて。前に乗ったことあったので」
「どうしてそんなことをするんだ」
 大きな声にならないように気をつけたつもりだったが、声が尖ってしまった。圭吾の声に三香子が驚いたように顔をあげた。
「この暑いなかを、途中で熱中症でも起こしたらどうするつもりなんだ」
「すみません、でも」
「でも、じゃないだろう」
 明らかに怒っている圭吾の様子に三香子はちょっと怯えたような目の色を浮かべたが、それでも言い返してきたので危うく圭吾は声を荒げてしまいそうになったが木下が割って入った。
「まあまあ、守田さん、怒ってもしかたないじゃないですか。僕はオフィスに行きますから三香子ちゃんに中へ入ってもらったら。ここも暑いですから」
「いや、ちょっと出てくる。支社長に言っておいてくれ。三十分で戻る」
「ええっ、守田さん、ちょっと」
 木下がなにか言ったが、圭吾は三香子の手をつかんで歩き出していた。

「あの、守田さん」
 しばらく歩いてからやっと三香子の手を握っていた力を緩めたが、手は放さなかった。
「わたし、守田さんにどうしても伝えたい事があって来ただけですから。それを言ったら帰りますから」
 手を引っ張られていた三香子がそう言って立ち止った。真夏の強烈な陽射しの中で圭吾も汗が噴き出していた。三香子の手首を握っているところがじっとりと汗ばんでいるようだった。
「守田さん、怒ってますよね……」
 どこか強張っているような三香子の声を聞いてやっと圭吾は振り返った。
「もう、お店には来てもらえないですか」
 うつむいた香子の唇が感情を必死でこらえるように震えていた。
「もう、だめですか。もう……」
 容赦なく照りつける陽射しが全身に熱い。かげろうが立ちそうなくらい照り返しの熱い道路のアスファルトの上で三香子は動こうとしなかった。思いつめたような表情は以前、自転車で横浜まで来たときと同じだった。三香子が普段の印象に似合わず思い切ったことをするのは無鉄砲というよりは切羽詰まって行動に出ているのだと今ではわかっていたが、それでもこんな炎天下に、と圭吾は思わずにいられない。電話でなくて、こうしてここまで来て炎天下に晒されているなんて。
「怒ってない。歩いて」
 また三香子の手を引いて歩き出した。少し歩いてマンションの建物に入るとホールには人影もなく、エレベーターが一階で止まっていた。
「ここは?」
「俺のマンション」
 三香子の顔が驚いた顔になって、また少し赤くなったのを圭吾はじっと見ていた。
「今日は午後はどうしても会社を離れられない。仕事が終わったら桑原へ送って行くから夕方までここで待っていて欲しい。どうしてもそれが嫌だというのなら帰ってもいいけど、俺としてはバイクで帰ることはして欲しくない。もちろん歩いて帰るのもだめだ」
 三香子の返事を待たずに部屋の鍵を開けて中へ入るとエアコンのスイッチを入れた。
「でも、守田さんは明日、イギリスへ行ってしまうって……」
「木下に聞いたの?」
 圭吾がそう尋ねると三香子はこくりとうなずいた。
「イギリスには出張で行くだけだよ。明日から一週間の予定でね」
「それは聞きましたけど……」
 小さくなるようにうつむいた三香子はまるで叱られている子どものようだった。
「ただの出張だってわかってましたけど、でも来ないではいられなかったんです。なんだか、もう守田さんがイギリスへ行ってしまったら帰ってこないような、そんな気持ちになってしまって……、だから……」
 うつむいた三香子の頭の頂を見て圭吾は小さく息を吐いた。三香子は料理やマーマレード作りをしているから、つい内向的な性格なのだと思ってしまっていたが、車の運転をしていたことやバイクにも乗ったことがあるような活動的なことをしていたのだ。別にそれは珍しいことでもなかったが、三香子が、とは考えていなかった。けれども、もしかしたらそれが三香子の本来の姿かもしれなかった。
「俺が帰ってくるまで部屋の中のものは好きに使っていいよ。冷蔵庫に食べ物と飲み物もある。鍵はこれ。バイクは後で運んでくる。バイクの鍵を貸して」
「あ、はい」
 三香子が持っていたバッグの中から鍵を取り出した。圭吾が手を差し出すと素直に渡してきた。それがこの部屋で待っているという承諾になるということがわかっているのか、いないのか。
 バイクの鍵を受け取ってから圭吾は部屋の出入り口へ戻ったところで振り返った。
「待っていて欲しい」
 そう言った圭吾をまばたきをせずにじっと見ている三香子の顔をもう一度見てから圭吾はドアを閉めた。

 会社が手配してくれたイギリスへの航空機のチケットを受け取ったりして、結局は定時に仕事を終わることができなかったが、それほど遅くならず会社を出ると家とは反対方向にあるコンビニへ寄ってから家へ帰った。部屋に三香子がいるだろうとは思っていたが、誰かが待っている部屋に
帰ってくるというのは不思議な気分だった。こうことは初めてだった。
「ただいま」
 ドアを開けると三香子が奥から出てきた。上着は脱いでいたが七分袖のシャツブラウスに黒い
ジーンズパンツという姿だった。部屋の中も特に変わった様子もなかった。もっとも圭吾の部屋には物がほとんどなく、テレビさえもなかった。
「いてくれたんだ」
 そう言うと三香子がちらっと不安そうな顔をした。圭吾がまだ怒っていると思ったらしい。
「すみません」
 どうして謝るのかと思う。キッチンへ行って飲み物のペットボトルを取り出しながら冷蔵庫の中を見るとパンとチーズとハムという恐ろしくシンプルな在庫にはやはり手を付けた形跡がなかったが、ペットボトルの水は一本減っていた。
「これ食べる?」
 コンビニの袋を広げて食べ物を出すと三香子がうなずいた。
「夕食をなにか作ろうと思ったんですけど、あの……」
「それは無理だ」
 圭吾は笑った。
「材料がないし、それに道具も。ここにはなにもないから、いくら三香子でもそれは無理だ」
 鍋もフライパンもなにもない。あるのはカッティングボードと料理用のナイフだけだ。それにいきなり来たこともないこの部屋に入れられてくつろげるわけがない。圭吾が帰ってくるまで三香子はじっとなにもしないで待っていたに違いない。
 圭吾が笑ったのにつられてやっと三香子も笑顔を見せた。
「なにもないんですね」
 テレビもなく、家具もほとんどない。テーブルと椅子がふたつだけだった。
「寝に帰ってきているだけだからね」
 ふたりが食べているあいだ、また沈黙が戻ってきた。
「里美さんが店に来ていたって木下が言っていたけど」
 圭吾がそう言うとふっと三香子の表情が変わったが、三香子は平静だった。
「はい。わたしが来て欲しいって言ったんです。里美さんに」
「三香子が?」
「来てくれないかと思ったけれど、言ってみました。里美さんは最初行かないって言ってましたけど、でも来てくれたから」
「三香子はそれでいいのか」
「里美さんが来てくれたからってどうなるかわかりませんけど、でも来てくれただけでもよかった。わたしも思い切って守田さんのところへ行こうって、そう思えたから……」

「わたし、電車で帰ります」
 急に三香子が言って圭吾は飲んでいたコーヒーを置いた。
「里美さんが来てくれるまで、わたしは守田さんが来てくれないのが不安でしかたがなかったのに電話もできなかった。いつも守田さんに来てもらうだけで守田さんがわたしのこと怒ってもしかたがないと思うけれど、でももう守田さんが来なくなってしまったらって思ったら、たまらなかった」
 ぽろりと三香子の頬に涙がこぼれた。
「自分でなにもしないままじゃ守田さんが好きだって、そう言えなくて……」
 初めてみる三香子の涙だった。里美と対したときだって、アシスタントを辞めてしまったときのことを話したときだって、三香子は泣かなかった。強がっていると思えるほどにしっかりしようとしているように見えた。いま、三香子の頬に小さなしずくが伝うのを見て圭吾は三香子のそばへ行って三香子の体を引き寄せた。
「泣いているんだね」
「ごめんなさい……迷惑ですよね」
 手で顔を覆ってしまった三香子をそのまま抱きしめた。
「三香子が来てくれなかったら、今日行こうと思っていた」
 胸に抱いた三香子の頭の頂に頬をつけた。
「迷惑じゃない。ただ俺は自分の気持ちを持て余しているだけなんだ。こんな気持ちになったのが初めてで、経験のない青い子どもみたいになにもできないでいる。なにもできないのは三香子じゃなくて俺だ」
「でも……守田さんはいつも……とても冷静だし、弱気な気持ちなんて無縁そうなのに……」
「どうしてそう思う?」
 三香子の顔を上げさせると三香子が濡れた瞳で見上げていた。
「俺はそんなに合理的じゃない。だから」
 唇をつけて、初めて深いキスを交わした。
 だからもう一度、俺を好きだと言ってくれ……。






 三香子の体は汗の匂いがした。それは圭吾も同じだったから圭吾はそれでもいいと思ったが、汗の匂いを気にする三香子のためにシャワーを使った。先にシャワーを使った三香子の体を引き寄せると素肌がさらりとしているのが伝わってきた。髪を乾かした三香子はいつものように髪を首の後ろで括っていたが、圭吾が指を掛けて黒いヘアゴムを引きはずした。
「あ」
 三香子が小さな声を上げたが、ヘアゴムが抜けると三香子の真っ直ぐな黒い髪が肩に広がった。少し前髪を降ろしていて、パーマも髪色を変えることもしていない髪だった。三香子は仕事柄だろうか、指輪もピアスもしていないし、マニキュアも、今は化粧さえもしていなかった。たったひとつ髪をまとめていたヘアゴムを取られてなにも身につけていない姿になったが、それは圭吾も同じ
だった。圭吾も指輪やアクセサリーの類を身に着けなかったし、腕時計も今ははずしている。
「三香子」
 三香子の目がじっと圭吾を見上げている。腕の中に抱いた三香子の肌は意外にもひんやりとした肌の表面だったが、肌が触れ合っているところからは体の温かさが伝わってきていた。その温かさを求めるように唇を合わせて胸のふくらみを手で包むと三香子の目が見えなくなったが、唇の中で甘い吐息がだんだんと熱を帯びてくる。もっと三香子を感じたい。そう言う代わりに圭吾の手が三香子の肌をなぞり、重なり合っていった。
 三香子の腕に引き寄せられて三香子も求めているのだとわかった。小さく上げる三香子の声にならない声を聞きながら三香子の内部の柔らかさを知った。体を揺らすたびに三香子の熱さが増していくが、それ以上に自分の熱さが上回る。深いところで繋がりながら三香子の手に痛いほどに腕をつかまれて三香子が極みに達したのが伝わってきた。本能のように体を反らせる三香子に圭吾も自分を解放して、そして深く息を吐き出した。

 ずっと三香子を抱きしめていたかった。が、三香子の目のまわりが疲れたように見えたのはベッドのある部屋が暗かったせいだけではなかった。このまま眠らせてやりたいが、そうはいかない。圭吾が起き上ってシャツを着ると三香子も服を着出した。
「車で送っていくよ」
 ベッドに座っている三香子の唇に軽くキスをすると三香子が「はい」と言った。
「眠ければ車の中で眠るといい。そのほうが辛くないかもしれない」
「すみません」
 けれども圭吾が駐車場で車のドアを開けると三香子の顔はどこかしら不安そうに見えた。
「気分が悪くなったらすぐに言うんだ。車だったらすぐに止まることもできる」
「……はい」
 深夜で高速道路を使っても桑原までには一時間以上かかる。三香子が助手席に乗ったのを確認して圭吾はエンジンをかけた。しばらく走って高速道路のインターへ向かったが、三香子は
座ったままなにも話さなかった。
「大丈夫?」
「はい」
 返事はしたが三香子には会話をする余裕はないようだった。

 乗り物に酔ったときは話しかけられても気分は良くはならない。車酔いから逃れるにはとにかく車から降りるしかない。乗り物酔いをしたことのない圭吾にはそれくらいしか考えつかなかったが、三香子が少しでも気分が悪くならないように走ることしかできなかった。三香子は途中から目を閉じていたが、体の力が抜けていない様子だったので眠ってはいないようだったが、それでも三香子の表情は乗っていられないほど気分が悪そうではなかったので圭吾は運転を続けた。 桑原の町が近づくと三香子は目を開けてちょっと座り直したから、やはり眠ってはいなかったのだろう。三香子がマーマレード作りをしている工房のほうに住んでいると聞いたことがあったので圭吾は工房の前に静かに車を止めた。
「ありがとうございました」
 車を降りた三香子はやはり顔色が青白く見えた。圭吾が運転席から降りて三香子のそばへ行くと三香子はやつれたような顔にそれでも笑顔を浮かべた。三香子の体を抱いて頬に唇をつけると三香子も抱きついてきたが、やはり冷や汗をかいていたようだった。
「イギリスから帰ってきたらまた来るよ」
 暗い中で三香子の瞳がかすかに光っている。
「待っています。待っていますから……」
 別れがたい。
 初めてその感情を自覚して圭吾は三香子の唇に自分の唇を重ねた。


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