静かに満ちる 17

静かに満ちる

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17


「守田さん、失礼します」
 午前中の外出から帰って来た圭吾が黒地のチョークストライプのスーツの上着をハンガーに引っ掛けていると木下がデスクに顔を出した。木下はノーネクタイの半そでのワイシャツ姿だった。
「日本は暑いな」
「そんなロンドン仕様のスーツ着てるからですよ。日本じゃ夏はクールビズですよ」
「なんだ、それは」
「夏はノーネクタイでもいいっていう申し合わせですよ」
「そういうこと、わざわざ申し合わせなきゃできないのか」
「ニュースで言ってましたけど、熱中症で病院に運ばれる人が後を絶たないっていうくらい暑いですからね。これじゃ無理ないですよ」
 圭吾が椅子に座ると木下は英文のパンフレットや書類をざっとデスクの上に広げた。
「これ、ロンドンの国際見本市会場の案内です。日本で手に入るぶんだけですけど。守田さん、この会場は初めてですか」
「うん、ありがとう」
「支社長は一緒に行かないんですか」
「俺だけでいいそうだ。ショーワの社長にそう言われた」
「守田さん、なんだかんだ言いながらショーワ商会の社長に気に入られているじゃないですか。ロンドンの見本市に同行するくらいだから」
「繊維製品のほうはかなり話が進んでいるからロンドンに連れていったほうが契約にまとまるんじゃないかっていう支社長の判断だよ。俺は通訳代わりだがね。まあ、仕事をするだけさ」
 話しながら圭吾はネクタイを引き抜いてデスクの上に放りだしていた。
「守田さん、仕事のこと聞いてもいいですか」
「いいよ」
 木下は「仕事のこと」と断りを付けて聞いてきたので圭吾も答えた。
「どうしてうちの会社に転職したんですか。守田さんはイギリスの大手の商社にいたことがあるって聞きましたけど」
「二年だけだがな。もともと大手には興味がなかったんだよ」
「それはまたクールですね」
 木下は感心した顔で聞いていた。
「大手には大手の束縛がある。自分のやりたいようにやりたかっただけさ」
「そりゃあまあ、うちの会社はそういうところはいいんですがね。最近はやはり苦しいでしょう。社長も替わったし、だんだんやりにくくなるんじゃないですかね」
「たぶんな」
 圭吾も含めてこのところイギリス本社では何人かの異動がされていたが、まだどこも目立った変化は現れていないようだった。が、木下は木下なりに会社の先行きを案じているようだった。
「ロンドンへ行くのは来週からですよね」
「うん」
「俺たち日曜日に三香子ちゃんの店に夕飯食べに行くんですよ。守田さんも一緒に行きませんか」
「忙しいんだ」
 仕事の話から三香子に話題を振られたが、圭吾はあっさりと取り合わなかった。
「守田さんが忙しいのはわかりますけどね、三香子ちゃんのところへ行ってないんですか。うちの奥さんが電話したときになんか三香子ちゃんが元気ないみたいなこと言ってましたけど。もしかしてけんかしたとか」
 あれから三香子のところへ行ってなかった。仕事も忙しかったし、八月になれば休みが取れるだろうと思っていたのだが、休みも取れそうになかったところにロンドン出張が入ってしまった。
 けんかなら話は簡単だ。けれどもあの時は三香子にあれ以上のことは言えなかった。帰る圭吾を三香子は三香舎の店の前で見送ってくれたが、なにも言わなかった。圭吾もなにも言わずに
帰ってきたが、あの夜以来三香子からもなにも言ってはこなかった。
「少し距離を置いたほうがいいんじゃないかと思っているだけだ」
 圭吾がそう言うと木下はええっと大きな声をあげた。
「どうしたんですか。守田さんらしからぬ言い方ですねえ。守田さんらしくないですよ」
「そうかもな」
 圭吾がそう言うと木下はポケットから折りたたんだ紙を取り出すと広げて見せた。雑誌の頁を
カラーコピーしたものだった。
「これ、うちの奥さんの雑誌社の主婦向けの雑誌に以前載ったものですけど、これ三香子ちゃんですよね」
 そこにはあの料理研究家の園田とまわりに数人の若い女性たちが写っていて皆がおそろいのエプロンをしていた。園田の料理スタジオでの様子を紹介した記事で、三香子が今よりも少し若い感じで写真の端のほうに立っていた。
「うちの奥さんが雑誌社の先輩から聞いたんですけど、三香子ちゃん、以前は東京で料理研究家のアシスタントをしていたそうですね。その料理研究家ってものすごく人気のある人だって言ってましたよ。今じゃ出版社のほうでもその人の本の出版の取り合いみたいになっているそうですけどね。守田さん、知ってました? 三香子ちゃんが料理研究家のアシスタントをしていたってこと」
「知っているよ」
 あれ、というように木下が驚いた顔をした。
「この人ですよね」
 木下は園田のとなりに立っている女性を指差した。
「三香子ちゃんを車に乗せようとした人」
 それは里美だった。あのときの里美を木下も憶えていたらしい。
「知っているならいいんですけど」
 黙って圭吾は木下に行けとしぐさで示した。それ以上、三香子のことを話されても圭吾には話す気はなかった。
 自分でもらしくないと思っている。今まで誰かを自分から追ったこともなければ、待ったこともな
かった。三香子には誰を好きだったか、そんなことはかまわないと言っておきながら自分の気持ちを持て余している。だからあの夜、黙って帰って来たのだ。


 週明けはさらに暑くなっていた。
「守田さん、一緒に出ませんか」
 木下が今日も昼食を誘いに顔を出したが、明日はロンドンへ発つ予定の圭吾は午後にやっておかなければならない仕事があった。
「いや、やめておくよ」
「ちょっと話があるんですけど。三香子ちゃんのことで」
 珍しく木下は真顔だった。
「なんだ?」
 会社近くのレストランに入って圭吾がすぐにそう聞くと木下はちょっと顔を近づけてきた。
「前に三香子ちゃんを強引に車に乗せようとした人、覚えてますか」
「ああ、覚えている。だから?」
「その人がいたんですよ、三香子ちゃんの店に。昨日の日曜日」
「昨日?」
 またあの里美が三香子の店に押しかけたのかと思って圭吾は聞き直した。
「いや、その人、じっと座っていただけなんですけどね。なんか、ちょっと。三香子ちゃんは別に気にしてないようでしたけど」
 それは圭吾にもどういうことかわからなかった。里美が三香子の店にいたというが、わけがわからなかった。またなにか三香子に言いにきたのだろうか。
 やはり三香子に会いにいけばよかった。今更ながら圭吾は後悔した。里美がまた店に来るとは思っていなかった。店に来た里美がこの前のように取り乱していなかったにしろ三香子は不安に
思っただろう。あんなことがあったのだから。自分の知らないところでそんなことがあったのかと考えただけで神経が逆立った。まったく自分らしくない。
「あ、守田さん、どこ行くんですか」
「オフィスに戻る」
 今日、仕事が終わったら三香子に会いに行こう。今日行かなければ明日からはロンドン出張だ。仕事を早く終わらせれば桑原へ行くくらいできる。そう考えて圭吾は足早にオフィスへ向かった。 木下が追いかけてきたが、圭吾はオフィスのあるビルの入り口のところで急に立ち止った。ビルの入り口の脇の日陰になっているところに三香子が立っていた。


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