静かに満ちる 16

静かに満ちる

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16


 車の走る音も聞こえなくなっていたのに三香子はまだ玄関の前に立ったままだった。
 後ろに立っている圭吾に三香子の茫然としたような横顔が見えたが、圭吾が横に来たのに気がつくと三香子は顔を上げて圭吾を見た。暗い玄関の外でわずかな灯りに照らされた三香子の顔はどこかうつろな表情のまま圭吾を見上げていた。
「あ……、すみません」
 我に戻ったような顔をして三香子が玄関の中へ戻った。
「あの人はこの前の人だね」
 テーブルの上の皿を片づけ始めた三香子に圭吾はそう言ったが、三香子は「はい」と言っただけだった。
「すみません、これを片付けてしまいますから」
 三香子がキッチンへ入ってしまい、食器を洗いだしたのを圭吾は黙って座って見ていた。
 たぶん料理研究家のところで働いていたときだろうが、そのときに三香子はなにかあったのだろう。それはだいたい察しがついたが、今までの圭吾ならそれ以上は尋ねなかっただろう。自分に踏む込まれることが好きではなかったから、自分でも他人に踏む込むことをしなかった。誰にだって踏む込まれたくない部分があるはずだ。言いたくないことは言わなければいい。自分にも他人にもそう思っていた。だが、三香子には。
 圭吾はしばらくそうやって三香子を見ていたが、片付け終わると三香子がキッチンを出て圭吾のところへ来た。もう三香子の表情はいつもと同じで圭吾の前でちょっと頭を下げた。
「すみません。コーヒーをお持ちしますね」
「いや、いいよ」
 断られて三香子が黙りこんだが、立ったままの三香子を圭吾は見ていた。圭吾がなにも言わないからだろうか、三香子は小さくため息をついた。
「わたしって、……鈍感過ぎる」
 自分で自分にあきれているとでもいうように三香子がそう言って笑顔を見せたが、三香子の顔は本当に笑っているようには見えなかった。
「里美さんは龍一さんのことを……。だから、だから」
 笑っていたはずの三香子が両手を目に押し当てていた。圭吾は立ち上がってとなりへ行くと三香子の肩へ手を置いた。
「三香子」
「今頃になって気がつくなんて……、だから里美さんは……あんなに」
「三香子、座って」
 圭吾があえて三香子と呼んだのに気がついたのか、三香子は目に当てていた手を下げるとやっと椅子へ座った。



「わたしは園田先生のアシスタントの中ではまだ一番新人だったんです。先生はもともとお料理教室を主宰されていたんですが、本が売れてテレビにも出られたりして、その頃はとても忙しくなっていた時期でした。わたしは車の運転ができたのでアシスタントというよりは運転手と雑用係という感じだったんですけれど、先生はいつもこんな仕事ばかりで済まないわねって言ってくださって……、でもわたしはそれでもよかったんです。 まだ見習いみたいなものでしたから先生の仕事をそばで見られるだけでよかった。送り迎えで先生のお宅へうかがうことも多くて、……龍一さんは先生の息子さんなんです」
 三香子が車の運転をしていたことと龍一の名前が出てきたが、圭吾は言葉を挟まずに黙って聞いていた。
「いつのまにか先生は車でなくてもわたしを同行するようになっていて、先生のお供で取材旅行に連れて行ってもらったりしました。先生はお料理のことだけではなくて、いろいろなことを教えてくださってとても勉強になりました。だから先生のお供ができるのが楽しくて……、でも……」
 三香子の言葉が詰まりがちになってきていた。
「わたしはまわりが見えてないって……」
 圭吾は内心ため息をついた。たぶんほかのアシスタントたちから突き上げられでもしたのだろう。それとも陰でそう言われたか。上司や経営者が一番歳の若い部下をかわいがれば他の部下は面白くないだろうし、その反感がかわいがられた部下へ向くのは予想がつく。園田という料理研究家は三香子のことを認めていたようだから、わざとそうしたわけではないだろうが、結局のところ反感は三香子のところへ向かったのだろう。
「里美さんだけはみんな同じ園田先生のアシスタントなんだから仲良くやろうって言ってくれたけれど、わたしも思い上がっていたんです。車の運転手は誰かがしなけりゃならないのにって思っていたから……。でも、別のアシスタントさんからあなたは運転だけしていればいいんだって言われて」

「それも仕事だって割り切っていたつもりでした。それなのに、いつものように家を出て先生のスタジオに行こうとして電車に乗ろうとしたのに……いつも乗っている電車なのに足がすくんだように
なってしまって、どうしても乗れなかった。その日は休んでしまいました。でも次の日も、どうしても乗れなくて、無理に乗ってもひと駅も乗らないうちに冷や汗が出て、気持ちが悪くなってしまうんです。 電車をやめてバスやタクシーに乗っても余計にひどくなって吐いてしまったこともありました。父に車で送ってもらってもやっぱりだめで……。病院で調べてもらっても体調は悪くないんです。でも、どうしても車にも電車にも乗れなかった」
 三香子は顔を上げたが、圭吾からは視線をそむけるように窓のほうを見ていた。
「先生はスタジオでの仕事をしてくれればいいって言ってくださったんですが……でも、スタジオにいてもわたしには居場所がないみたいで……なんとか他のアシスタントさんたちに融け込もうとしても……どうしてか」
 三香子はもう真っ暗でなにも見えない窓の外を見ていた。
「どうしても辛くて、それに乗り物に乗れないわたしはお荷物でしかなかった。先生のスタジオにさえ行けなくなってしまって……、だからアシスタントを辞めてしまったんです」
 窓の外を向いている三香子の顔は圭吾からは横顔しか見えなかったが、三香子は泣いてはいなかった。
「龍一さんは引き止めてくれたけど、でもわたしには続けられなかった。アシスタントの仕事も、龍一さんとのことも……」
 龍一さんとのことも。

 圭吾が手を伸ばして三香子の手に触れると三香子が振り返ったが、その顔はやはり泣いていなくて、むしろ静かなものに見えた。圭吾の聞きたかったことに最後に三香子が触れて、それは三香子にもわかっているのかもしれないと思った。
「まだ龍一という男が好きなのか」
 三香子の手が動いたのが感じられたが、圭吾は三香子の手を握って離さなかった。
「まだ好きなのか」
 圭吾がもう一度聞くと三香子は静かに首を振った。嘘を言うような三香子ではないが、あきらめて仕方がないとでもいうように首を振った様子は三香子らしくなかった。
 あのとき、圭吾にも見えていた。玄関から離れる龍一が里美を抱きかかえるようにして車へ連れて行くのが。それを三香子も見ていたのだ。
 圭吾が三香子の体に腕を回すと三香子の驚いた顔が見えなくなったが、腕に力を入れて抱こうとすると三香子の手が強張ったように圭吾の胸を押していた。
「三香子が好きだ」
 三香子の手が止まった。
「三香子が誰を好きだったか、それはかまわない。俺は三香子が好きだ」
 圭吾が腕に力を入れて抱くと三香子の肩がすぼまったが、圭吾が三香子の腕を持って顔を上げさせようとしても三香子は顔を上げようとしなかった。
「龍一さんのことがまだ好きなら、こんなこと話したりできない。でも、ごめんなさい。いまは、まだ……」


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