静かに満ちる 15
静かに満ちる
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圭吾は三香子の出してくれる料理を食べるたびに思うのだが、和洋折衷や洋風な料理も多いなかで、いかにも家庭料理、それも年配の人でなければ作らないだろうと思うようなものがある。今日の料理はチキンをピーナッツソースで焼いたものに生野菜のサラダをたっぷりと添えたものがメインだったが、小鉢に盛られた料理は圭吾が見たこともないものだった。
「新しょうがの酢味噌あえです。大石さんのお母さんから教わったんですよ」
千切りにした新ショウガを酢味噌であえたものですと三香子は説明してくれたが、酢味噌というものを圭吾は食べた記憶がなかった。日本に住んでいれば食べる機会もあったかもしれなかったが、学生のときからずっとイギリスで、子どもの頃に母の作ってくれた料理にしてもカレーのようなありきたりなものしか思い出せなかった。
黙ってひと口食べて香り高い新ショウガに酢味噌の味がとても合っていると思った。今日のメインのおかずにも合っていた。三香子は黙って食べる圭吾を見ながら自分も食べていた。三香子が食事の前に一緒に食べてよいかと聞いてきたが、こうして向かいあって食べたのは今日が初めて だった。
夕方から圭吾は車で隣の市まで行って時間を潰していたのだが、ふと思いついて入った書店で女性向けの雑誌の置かれているところを見てみると料理雑誌が並んでいる横に料理本のコーナーがあって園田有紀子という料理研究家の本はすぐに見つかった。本の著者紹介には写真付きで プロフィールが書かれていて、
それによれば四十代くらいに見えた園田の年齢は実際は五十代なかばだった。テレビにも出ているというからこういう人は若く見えるのかもしれないが、年齢よりも若く見える外見というのは三香子と共通していると思った。
平積みで何冊も置かれている園田の本は目立っていて、大石の孫の奈々が言ったように女性にとても人気のある料理研究家らしかった。最新刊の料理の写真は家庭でも作れるおしゃれなカフェ風という感じで三香子の作る料理に似ているような気もしたが、三香子の料理のほうが家庭料理風だった。いま、圭吾の食べている新しょうがの酢味噌あえのように。
食事の最後に三香子が夏みかんのマーマレードで作ったシャーベットを出してくれた。
「どうでしょうか」
三香子が圭吾の食べるのを見ていた。
「まだお客様に出したことはないんですが」
「なんだ、俺は試食係?」
そう返すと三香子が笑っていた。
「男の人ってお料理を食べてもあまり反応がないので。参考にさせてもらいます」
そう言われて圭吾はずっと黙ったまま料理を食べていたことに気がついた。一番悪いパターンだなと思ったが、黙って食べていても三香子となら気づまりな感じはしなかった。
「おいしかった。いや、これだけじゃなくて料理も」
「よかった。守田さん、ずっと黙っているから」
そう言って三香子がまた笑った。
言わなくても通じているはずだと思うこともある。が、言わなければ通じないこともある。特に人の気持ちは。
「圭吾でいいよ。仕事じゃないから、さん付けで呼ばれるとむしろ違和感がある」
そう言って三香子がなんと言うのか聞きたかった。じっと三香子を見て、三香子も視線をはずさなかった。しかし、そのときだった。
店の表のほうで物音がした。強く玄関の戸を叩くような音だった。この家には呼び鈴がついていない。
「誰だろう。お客様……?」
玄関のほうを振り返ってからそう言った三香子の語尾が少しばかりいぶかしげだったので圭吾も一緒に立ち上がった。玄関は外の灯りはつけておらず内側の小さな灯りだけをつけてあったが、そのあまり明るくない玄関の外に人が立っていた。
「開けて」
女の声だった。
「里美さん」
玄関を開けた三香子が立っている女性に驚いたように言った。圭吾にもその女性は見憶えが あった。以前に木下たちと一緒に来たときに三香子を強引に車に乗せようとしたあの女性だった。
「里美さん、あの、どうしてこんな時間に」
「先生が来たでしょ」
里美という女性の両手が握り締められていた。
「とぼけないで! 園田先生が来たんでしょ。知っているんだから。わたしに黙って来たって、知っているんだから!」
「先生はなにも言わなかった。あなたが辞めたときもわたしにはなにも言わなかった。どうして。 アシスタントの中でわたしが一番優秀だって先生は言ったのに。どうして」
三香子はなにも答えなかった。
「どうしてこんな店、始めたの。どうして……」
荒い息をつきながら立っている里美がじっと三香子を見ていた。
「里美さん、そこは暗いからこっちへ入ってください。ね、お願いですから」
「入らないわ」
そう言った里美は少し髪が乱れているように見えた。三香子が中へ入るように言ったのに動こうとしない。それに圭吾には里美の表情がどこか尋常ではないような気がした。
三香子が圭吾を振り返ったが、圭吾は小さく首を振った。かかわらないほうがいい。帰ってもらうように自分が言おう。そう思って圭吾が前に出ようとしたとき、となりの駐車場で車が止まる音がした。
「里美!」
すぐにひとりの男が里美の後ろから近寄って来た。
「なにやってるんだよ!」
「放してよ。あなたに関係ないでしょ。放してよ!」
「関係ないってなんだよ!」
里美が男に手をつかまれて振り払おうとしたが、男は放さなかった。
「帰ろう。迷惑だろ。三香子ちゃん、ごめん」
男は里美の腕をつかみながらそう言った。三香子ちゃんと。まるで知り合いのようにそう言うのを聞いて圭吾は三香子の顔を見たが、三香子はさっきよりももっと驚いているようだった。
「龍一さん……?」
三香子もこの男を知っていた。
「じゃあ里美さんが結婚したって言ってたのは……」
「結婚? 俺たちはまだ結婚していない。十二月に結婚する予定だったけど、だけど」
龍一という男はそれが三香子に言うべきことではないと思ったのか、急に言うのを止めた。もがく里美を押さえていた。
「ごめん、三香子ちゃん。里美がなんと言ったかわからないけど、こいつ、ちょっと前から様子がおかしいんだ。今日、おふくろが三香子ちゃんが送ってくれた店を開くっていう手紙を里美が持っていたって言ってたんだ。それ聞いて、もしかしたらって思って」
「やめて!」
里美の声は金切り声のようだった。
「違う、違う! だって、それは……」
「里美!」
龍一が屈みそうになった里美の体を引き上げたが、里美は泣きだしていた。
「その人を落ち着かせたほうがいい」
圭吾がそう言うと三香子と龍一が同時に振り返るようにして圭吾を見た。ふたりともまるで圭吾がそこにいたことを知らなかったような驚き方だった。
「すみません。店先で騒いだりして申し訳なかったです。彼女は僕が連れて帰ります。三香子ちゃん、心配しなくても大丈夫だから」
「待って、龍一さん、待って」
玄関から離れるふたりを追って三香子が飛び出したが、けれども玄関を出たところで急に三香子は立ち止っていた。車の走り出す音がしてヘッドライトの光が動き、やがて元の暗さに戻ったが、三香子はまだ立ったままだった。
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