静かに満ちる 14

静かに満ちる

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「あ、守田さん、帰られていたんですか。回漕会社から連絡きていますよ」
「見せてくれ」
 自分のデスクの前に座って腕組みをしている圭吾に木下が書類を差し出した。
「ショーワ商会、どうでしたか」
「まさに“昭和”だったよ」
 圭吾は肩をすくめるのはあまり好きではないのだが、今はそうしたい気分だった。
「あそこの社長に船便のことを連絡したのは誰だ。まさかおまえじゃないだろうな」
「回漕会社でしょう。俺じゃありませんよ」
 圭吾もそれはわかっていたのだが。
「北九州に着くのにどうして釜山(プサン)に行ってから横浜に来るんだって言われても、それは船のルートだろう。釜山の前に北九州に着くんなら、そこで自分のところの荷だけ降ろせって言うんだぞ」
「台風で船が遅れているそうですね」
「船便っていうのはそういうものだって、誰かあの社長に教えてやってほしいよ。それにどうしてそういうことをいちいち俺に言ってくるんだ」
 だから昭和頭の日本人は。と圭吾は言いそうになったが木下の手前口にはしなかった。
「回漕会社だって説明していると思いますけどね。以前に回漕会社と一緒に行ったのが守田さんだからですか」
 圭吾がため息をついたので木下も同情しているような顔をしていた。
「相手が悪かったですね。明日もショーワへ行くんですか」
「しかたないだろう。俺は日本での営業がうまくいかなかったらイギリスに呼び戻されるんだよ。そういう会社だってこと、おまえも知っているだろう」
 欧米の会社では当たり前だが、良く言えば実力主義。だが結果が出せなければ短期でもなんでも切られる。呼び戻されるならまだいいほうで体よくリストラってこともありえる。圭吾はそう考えていたが、それは木下に言ってもしかたがない。
「じゃあ、俺はこれで」
 もう定時を10分過ぎていて、木下は自分のバッグを持っていた。
「そうだ、木下」
 部屋から出ようとしていた木下が顔だけ振り向いた。
「なんでしょう」
「これ、頼まれた」
 圭吾がデスクに置いたのは野イチゴのジャムだった。ふたつの瓶がきれいにラッピングされている。
「えっ、これって」
 木下がくるりと戻ってくるとジャムの瓶を持ち上げた。
「沙希さんへ、三香子さんから渡してくれるように頼まれた」
「えー、守田さん、三香子ちゃんのところに行ってるんですか」
 木下の驚き方はわざとらしかった。
「だから、なんだ」
 圭吾が無表情に言うと木下はそれ以上突っ込むのはまずいと思ったのか、へらっと笑った。
「もう、こういうのは早く渡してくださいよ。へー、野いちご。どんな味だろう」
「食べてみてほしいそうだ」
「三香子ちゃんの店、沙希はまた行きたいって言ってましたから三香子ちゃんに電話すると思いますよ。守田さんも行きますか、ってこれは愚問ですか」
「俺は忙しいんだよ」
 圭吾は木下にさっさと帰れというように手を振った。圭吾も土日ではなく平日に行ってみたいと
思っていたが実際には忙しくて平日に三香舎へ行くことはできなかった。

 土日でもすいている時間というと午後遅い時間で、それでも遅いランチやお茶を楽しむ人たちで客が全くいないというわけではなかった。圭吾が以前来たときに地元の若い母親らしい女性のグループやもっと年配の、大石の母と同じような年齢の人たちを見かけたことがあった。男ひとりの客はあまりなく、それは休日だからだろうか。圭吾もひとりで庭に面したテーブルでコーヒーを飲んでいたが、この廊下に置かれたテーブルはふたり用で圭吾にはちょうどよかった。
「いらっしゃいませ」
 すっかり土日のウェイトレスとして定着してしまった大石の若い孫娘が明るい声でそう言って客を迎えていたが、入ってきた客を席に案内した後で「三香子さーん!」と大きな声を出したのが圭吾にも聞こえた。読んでいた本から顔を上げるとキッチンで大石の孫娘がなにか三香子に話している。
「雰囲気のあるお店ね」
 案内されたふたり連れの客が一番奥の部屋で話しているのが聞こえた。部屋の仕切りになっている襖の上半分はすりガラスだったが部屋の中が暗く見えないように襖は開いて寄せられていた。
「いらっしゃいませ」
 膝上丈の紺色のギャルソンヌエプロンをした三香子がその客のところへ出てきた。
「まあ、三香子さん」
「先生、わざわざおいでくださってありがとうございます。お忙しいのに」
「いいえ、お店を始めることを知らせてくれたのになかなか来られなくてごめんなさいね」
 三香子の知り合いのようだと思いながら圭吾は聞こえる会話を聞いていた。三香子が先生と呼んでいるのは四十代くらいの女性だった。ふと見ると大石の孫娘がちょっと興奮したような顔で瞳を光らせて三香子が客と話すのをキッチンのほうからじっと見つめていた。
「三香子さんがお店を始めたって知らせてくれて本当にうれしかったわ。古い家をお店にしたのね。素敵だわ」
 先生と呼ばれた女性はもの柔らかく話していて声は大きくなかったが良く通る声で、言っていることはとなりの部屋の廊下にいる圭吾にもよく聞こえた。
「先生、お茶をいかがでしょうか」
「そうね、久しぶりに三香子さんが淹れてくれた紅茶をいただきたいわ。お菓子もね」
 かしこまりましたと言って三香子がしばらくして紅茶を運んできた。圭吾にも出してくれたスコーンと一緒に。
「あら、ダブルクリームね」
「このジャムとマーマレードはわたしの工房で作ったものです」
 クリームやジャムを三香子がテーブルに並べるのを大石の孫が盆を持ってうれしそうに手伝っていた。この先生という人を大石の孫も知っているような感じだったが、知り合いというよりはまるで有名人にでも会っているかのようだった。
「おいしい」
 先生という客がゆっくりと紅茶を飲み、そう言った。連れのもうひとりの女性もうなずいている。
「三香子さんの淹れてくれたお茶はいつでもおいしい。手順とか技術だけではなくて、同じお茶を淹れてもおいしいって、そういう人っているのよね。わたし、三香子さんはそういう人だなって思っていた」
「先生」
「よかったわ。三香子さんがまたお料理に関係のある仕事ができて。このお店も古くてもいい感じだし」
 そう言いながら先生という女性が店の中を見回して圭吾と目があったが、圭吾もほほ笑むようにしてさりげなく視線をはずした。
 しばらくするとその客は帰って行ったが、三香子が見送るために店の外へ出て行った。
「さっきの人、大石さんも知っている人?」
 コーヒーのおかわりを大石の孫娘に頼んで持ってきたところで聞くと若い大石は「そうなんですよ!」と勢いよく言った。
「守田さんは知らないかもしれないけど、あの人、園田有紀子先生っていって有名な料理研究家なんですよ。テレビにも出るし、本もすごく売れてて、先生のお料理教室はすっごい人気で。まさか桑原に来るなんて思ってなかったー」
 大石の孫娘は目を輝かせて説明してくれた。
「大石さんもあの先生のファンなの」
「わたし、短大で栄養士になる勉強しているんですけど、料理研究家っていいなって思っているんです! 三香子さんが園田先生のところでアシスタントしていたって聞いてすごいなーって。でも、まさかあの先生が来るなんて。わー、どうしよう」
 なにか圭吾の知らない世界のようなテンションの高さで、どうしようと言われても返す言葉がないのだが、そこで三香子が店に戻ってきた。
「奈々ちゃん、片付け、お願いね」
「はーい」
 店は夕方のいったん閉める時間になっていて、この後は食事の予約客だけを迎える準備の時間だった。もう夏だったのでまだ外は明るかったが五時になっていた。
「今日の予約は?」
 圭吾のテーブルに来た三香子に尋ねると三香子は珍しく自分も圭吾の前の椅子に腰を下ろした。
「ふた組です。ひと組はご家族連れ。ランチに出しているオムライスを中学生のお子さんが食べたいって言ってくださって」
「さっきの人が東京で働いていたときの料理研究家の先生?」
「あれ、奈々ちゃんが言いました?」
「三香子さんから前に聞いたよ」
 そうですねと言って三香子が少し笑った。
「有名な人なんだってね。とても人気があるって奈々ちゃん、言っていた」
「先生はすばらしいかたですから。わたしもアシスタントになれたときはとてもうれしかったから奈々ちゃんの気持ち、わかるな」
 でも三香子は辞めてしまった。それを気にしているようではなかったが。
「あ、すみません。すぐに準備を始めなきゃ。守田さん、今日はお食事いかがですか」
「食べさせてくれるの?」
 立ち上がった三香子が笑った。
「今日のお客様は二組とも六時からの予約なので早く終わりそうです。よかったらそのあとで」
「じゃあ、俺は八時に予約ということで」
「かしこまりました」
 冗談ぽく言うと三香子は大真面目に答えてから、また笑った。


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