静かに満ちる 13

静かに満ちる

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13


 六月になって梅雨入りしていたが今日は蒸し暑くはなく、小雨の降る桑原の町は静かで三香子の店は客も少なかった。土曜日の午後のお茶を楽しんでいるのは地元の人らしい初老の男女で夫婦のようだった。
「いらっしゃいませ」
 入ってきたのが圭吾だとわかったのか、店員ではなく三香子が水を持って出てきた。圭吾が座りながら三香子を見ると三香子が視線を合わせたまま会釈するようにちょっと頭を下げた。
「コーヒーを」
「はい。かしこまりました」
 廊下のテーブル席から雨に濡れる庭を見ていると三香子がコーヒーを運んできたが、コーヒーとともにクッキーのようなものを数個並べた皿を置いた。頼んでいないその菓子が見たことがあったような気がして三香子の顔を見上げた。
「これはウェルシュケーキ?」
「はい。コーヒーと一緒にどうぞ」
 ケーキといってもレーズンが入って砂糖がまぶされている平たいクッキーのような菓子は圭吾が大学生のときにウェールズへ行って食べたことがあるものとよく似ていた。金もない学生の旅だったから食事代わりに食べた記憶があった。
「ここでこんなものが出てくるとは思わなかったな」
「本場の味にはかなわないと思いますけど」
 圭吾も本場の味を知っているほど詳しいわけではなかった。花や木に関心がなかったのと同じように食べ物にもあまり関心を持ってこなかった。
「……甘い」
 ひと口食べて、砂糖のまぶされた甘さに正直な感想が出た。けれども噛みしめるとどこかスパイスの味がして甘みと混じった。食べている圭吾を見ていた三香子は「ゆっくりしていってくださいね」と言うとキッチンへと戻っていった。

 三香子の店へ来たのはこれが二度目だった。三香子は土日は終日店で、平日は夕方まで店で、その後に工房で働いていているからとにかく時間が合わなかった。それに電話もしていなかった。イギリスで付き合っていた女がいたときは圭吾も電話するくらいのことはしていたが、なにもしないというのはむしろ圭吾らしくなかった。
 この前、三香子はまた来て欲しいと言ったが、圭吾はいつ来るとは約束しなかった。それを三香子がどう思ったかわからなかったが、それでもさっきの三香子はごく普通に迎えてくれた。
 台所ではキッチンカウンターのような台が部屋の出入り口に近いほうに置いてあり、三香子が
コーヒーを淹れているのがカウンターの台越しに見えていた。ときどき目を上げて三香子はキッチンから圭吾のほうを見ていた。目が合うと微笑むように三香子が笑った。
 先日の女性客に車に乗せられそうになったときの三香子の様子からあの女性と以前になにか
あったのかもしれないと思ったが、今の三香子からはそんなことはまるで感じさせなかった。
 圭吾にしても父の住んでいた家にこうして座っていることが以前ではありえないことだった。自分は冷淡でいいと思っていたのに三香子に対しては冷淡になりきれない。その気持ちに気づいてし
まった。

 先に来ていた客が帰ってしまうと客は圭吾ひとりになっていた。
 店の中は静かだった。こんなにすいていていいのかと思ったが、雨だからすいているのがいかにも桑原らしい気がした。ここはそういう町なのだ。また庭を見ているとコーヒーポットを手にした三香子が圭吾のテーブルへ来た。
「すみません、今日はウェイトレスさんがいなくてわたしひとりなんです。このあと大石さんとお孫さんが応援に来てくれることになっているんですけど、それまではちょっと」
 休憩したりすることもできないということなのだろう。三香子が済まなそうにそう言ってコーヒーのおかわりを注いでくれる手元を圭吾は見ていた。
「忙しいんだね」
 そう言うと三香子はうなずいた。
「今日はお客様が少なかったからランチの時間もなんとかなりました。ウェイトレスの店員さんが今朝、急に辞めたいと言ってきてちょっとあせりました。せっかく慣れてくれたのに予想外です」
 席数が少ないとはいえ三香子ひとりだけでこの店を回していくことはできないだろう。人を雇って使うところはどこもそうだが、思った通りに人が働いてくれることが不可欠なことは圭吾にもわかった。
「へこんだ?」
 ちょっと意地の悪い質問だったが圭吾は言った。それでへこむくらいなら、と思いながら。
「ちょっとは。でも大丈夫ですよ」
 強がっている様子ではなく、正直に言うところも三香子らしいと思った。

「三香子ちゃん、お待たせ。おや、守田さん」
 ちょうどそのとき圭吾が工房で会った児玉という人と大石の母が若い娘を連れて台所から顔を出した。若い娘は大石の孫で、短大生だが今日はアルバイトで手伝ってくれるという。服も髪型も今どきの若い子という感じだったが長い前髪は顔にかからないようにきちんとピンで留められていた。
「児玉さんも来てくれたんですか」
 三香子は児玉が来るとは思っていなかったらしい。
「いいのよ、わたしは気楽なひとり者だから。それより三香子ちゃん、ちょっと守田さんにこのあたりを案内してあげたら。まだ夕方までは時間があるし、今日の予約の準備はできるところまでわたしがやっておくから」
 児玉がそう言うと三香子はなんとなくほっとしたようだった。
「じゃあお願いしてもいいですか。守田さん、ちょっと待っていてください」
 そう言うと三香子たちは台所へと入ってなにかを話していた。
「出ても大丈夫?」
 裏口から出てきた三香子に玄関を出たところで待っていた圭吾が尋ねると三香子は道へ出ながら大丈夫ですと言った。
「児玉さんはわたしの師匠ですから。それにあの人は元は料理人なんですよ」
「へえ、そうなんだ」
「わたしは料理研究家の先生のところで働いていたからお店での経験はほとんどなくて、でも児玉さんは違いますよ。10年以上レストランで働いていたそうですから」
 三香子が言った料理研究家というのがどういうものなのか圭吾は知らなかった。それは桑原に来る以前の東京でのことだろうか。
「三香子さんが働いていたのは東京で?」
「はい。そうです」
 さらりと三香子はそう答えたが、話しているうちに三香子の工房の前まで来てしまった。
「すみません、案内するといっても案内するところがないですよね」
「静かだね。人も通らない」
 広い道沿いや駅に近いほうならもっと人も歩いているのだろうが、山のふもとに近い住宅街では雨の降っている今日は人影もなかった。
「雨が降っていなければ草イチゴを採りに行くんですけど」
「草イチゴって?」
 圭吾には草もイチゴも知っている単語なのに草イチゴになると、まるでどこか知らない国の言葉のように聞こえるから不思議だ。
「山に生える野いちごです。木イチゴは木になるから木イチゴ。草イチゴは草だから草イチゴなんです。どこにでもある雑草ですけど」
 そう言って三香子は工房の先の上り坂の道を歩き始めた。雨なので山には行かないだろうが、家が途切れるとすぐに道の脇はやぶになっていて雑草がきれいに刈り込まれていた。
「こういう道の脇は草が刈られてしまうから生えてないんですけど……あ、あった。これです」
 道から数歩入ったところの刈り込まれた草地の境に三香子が手を伸ばして小さな赤い実をひとつ取ると手のひらに乗せて圭吾に差し出した。
「こういうところに生えているのを取るの?」
「いいえ、ジャムにするのはもう使われていないミカン畑に生えているのを許可をもらって採っているんです。自生しているものだから毎年採れる量も決まっていなくて、でもとてもきれいなジャムができるんですよ。去年は東京のケーキ屋さんから使いたいって引き合いが来て」
 圭吾が赤い実を持った三香子の手を包むように握ると三香子の言葉が途切れた。傘で見えなくなりそうになる三香子の顔を圭吾はもう一方の手で傘のふちを押し上げて見えるようにした。
「そのまま」
 そう言って三香子の傘の中へ顔を入れると三香子が驚いたように目を見張ったのがわかったが、そのまま唇を触れさせた。

 三香子は東京で働いていたことを隠すつもりはないようだった。そんなときの三香子はこだわりなどないように見えた。それならば三香子が以前にどこで働いていてもかまわない。三香子は今、ここにいる。三香子がここにいるのなら自分が来ればいい。

 唇はすぐに離れたが三香子の頬は少し赤くなっていた。


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