静かに満ちる 12

静かに満ちる

 目次


12


「三香子さん、早く」
 女は車の後部座席のドアを開けて乗った中から三香子の手を引っ張っていた。三香子が驚いたように後ろへ下がろうとしたが、それでも女は手を離さなかった。
「すみません、今夜はまだお店のほうが」
「客が言っているのに聞けないの」
 明らかに女の語調がおかしかった。沙希と木下も立ち止って振り返った。
「でも……すみません、行けません」
 三香子が引っ張られている手を解こうとしていたが離れなかった。
「いいでしょ、それくらい。まさかまだ病人面しているわけじゃないでしょう。いいから乗りなさいよ!」
 ぐいと引っ張られて三香子の体が車の中へ引き込まれそうになった。

「失礼」
 三香子の腕を持ちながら圭吾は三香子の体を引き戻していた。
「な、なによ」
「それはこっちのセリフです。夜、こんなところで騒ぐのはみっともない」
 女は車の中から圭吾を見上げていたが、圭吾が後ろ手に三香子をかばっているのを見て車のドアを閉めようとしたが圭吾の手にドアを止められた。
「関係ないでしょ。ちょっと言ってみただけなのに」
 女は吐き捨てるように言うと強引にドアを閉めようとしたので圭吾は後ろへ下がった。そのまま車は走り去って道を走る音もすぐに聞こえなくなった。
「大丈夫ですか」
「はい、……すみません」
 そう言ったが、三香子の顔色も表情も良くなかった。口へ当てた手が震えていた。
「三香子さん、大丈夫?」
 沙希と木下が近寄ってきたが圭吾は三香子の腕を持っていた。そうしていなければ三香子が倒れてしまいそうに思えたからだった。
「どうしてあんな強引な事するのかなあ。三香子さんは行けないって言ってるのに」
 憤慨したように言う沙希は三香子が乗り物が苦手なことを知っているかどうかわからなかったが、三香子はなにも言わなかった。
「店に入ろう」
 三香子がうなずいたので歩き出したが、玄関を開けようとしたときに三香子が立ち止ったのに気がついて圭吾も立ち止まった。
「すみません。あの、大丈夫ですから」
 圭吾は三香子の腕を持ったままだった。つかんでいたのではなくて支えるように持っていたのだが、三香子が腕を下げたので圭吾は手を離した。
 玄関の戸を開けると店の中では若い店員が片付けをしているのが見えたが、三香子は玄関の中で圭吾たちに向き直ると頭を下げた。
「今日は来ていただいたのにすみませんでした。ありがとうございました」
 さっきのことがあった後だったが、三香子は気を張ったようにしっかりと礼を言った。顔色はあまり良くなかったが、いつもの三香子のようだった。
「また来させてもらうわね」
 沙希もそう言っただけだった。はい、お待ちしていますと三香子が答えるのを圭吾はじっと見ていたが、沙希と木下が玄関を出たので最後に圭吾も出た。そのときに振り返って見た三香子の目はやはり力がないような、そんな目の色だったが、三香子は圭吾にありがとうございましたと言ってまたお辞儀をした。

 木下の車に乗ってしばらくしたときだった。
「せっかくおいしい料理だったのにね。さっきの客、三香子さんの知り合いだったのかな。友達って感じでもなかったようだけど」
「そうね。まあ、店をやっているといろいろあるのよ」
 運転する木下も沙希もそれ以上は詮索するようなことは言わずに今日の料理のことを話しているのを圭吾は後部座席で黙って聞いていた。電車の線路と並行する道路を走っていた車は桑原の町を出てとなりの町へ入るところだった。暗い夜の町は住宅の灯りが見えるだけで行き交う車も少なかった。
「木下」
「はい」
「止めてくれ」
 木下がバックミラーを見てからすぐに車を減速させた。
「守田さん」
 沙希が振り返って圭吾を見たが、車が道の脇へ止まると圭吾はドアを開けた。
「悪いが、俺はひとりで帰る」
「戻りましょうか」
 車から降りる圭吾に木下はそう言ったが顔は真面目な表情だった。
「いや、いいよ。ありがとう」
 沙希がなにか言っているのが聞こえたが圭吾は車のドアを閉めた。






 三香舎では表の灯りは消えていたが、中にはまだ灯りがともっていた。その灯りを見ながら圭吾は玄関の戸へ手を掛けたが鍵が閉められていた。庭に面した廊下のほうから明るい光が庭へ射していたのでそちらを見てみると中に三香子がいるのが見えた。廊下に置いてあるテーブルの椅子に座っていて、ガラス戸の真ん中あたりに三香子の顔が見えていた。遠目に見ても三香子はうつむいてじっと動かなかった。圭吾は玄関へ戻り、軽く戸を叩いて声をかけた。
「守田さんですか?」
 中で玄関に人が出てくる音がして、そう言う声が聞こえた。三香子の声だった。
「どうされたんですか。なにか……」
 驚いているような三香子の瞳。逆光で陰になった三香子の顔が圭吾を見上げていたが、三香子の瞳は暗い中でも良く見えた。
「いや」
 ここまで来ておいてなにも言うことを考えていなかったと言葉を探したが、すぐには出てこなかった。
「店は終わったのでしょう? 送りますよ」
「え……」
「三香子さんの家まで送ります」
「あの、そのために戻ってこられたのですか」
 三香子は驚いていたが、なにか言っても言い訳めいたことを言いそうで圭吾はなにも言わないほうを選んだ。
 三香子は少しのあいだ圭吾を見ていたが、我に返ったように一度後ろを振り返った。
「ちょっと待っていてもらえますか。バッグを持ってきますから」
 三香子が家の中の灯りを消すあいだ圭吾は玄関で待っていた。三香子が奥から出てきたので玄関から外へ出ると外のほうが外灯の灯りで明るかった。圭吾は三香子の家がどこか知らなかったのでそのまま待ってから尋ねた。
「三香子さんの家はどこ?」
「工房です。マーマレード作りをしている」
「あそこに住んでいるの?」
「はい」
 居住スペースなんてなさそうだったが、と思いながら圭吾は三香子と並んで歩きだした。三香子の歩調に合わせても数分もあれば着いてしまった。
「ありがとうございました。すみませんでした、さっきはあんなことがあって」
 入口の閉まった工房の前で三香子がそう言うのを圭吾は向き合って聞いていた。
「わたし、守田さんの車に乗せてもらったときは乗っていられましたけど、前は全然だめだったんです。電車や車に乗ろうとしただけで気分が悪くなってしまって乗れなかったんです。でも守田さんの運転する車には乗っていられました。だから少しは良くなったのかなって思っていたんですけど、やはりだめでした。車に乗せられると思ったら、もうどうしようもなくて」
「あの人はわざとやっていたように見えたけど」
 それには三香子は答えなかった。言いたくないようだった。黙りこんでしまった三香子に圭吾は手を伸ばした。
 はっと三香子が体を固くしたようだった。囲うようにした両腕の中であまり背の高くない三香子の顔が圭吾の胸に触れても顔を上げなかった。そのまま圭吾が静かに抱いていると三香子の体の力が少しずつ抜けていくのが感じられた。腕の中の三香子はじっと動かなかった。お互いの息の音が聞こえるほどの近さだったが、圭吾も動かずに三香子を抱いていた。

 ―― これが「好き」という感情なのか。
 異性を知らないわけではなかったが、付き合うことがあってもそれはいつでも相手から言われてそうしただけだった。誰かと結婚して暮らすつもりもなかった。父を厭わしく思う気持ちは消せない。それが冷淡といわれるならばそれでもかまわなかった。自分は冷淡な人間でいい。大切な人など自分には必要ない。ずっとそう思ってきた……。

 腕の中で三香子が少し動いた。三香子がどう思っているか、まだ圭吾にはわからなかったが、それを知りたいと思ったから腕をほどいた。
「また来てもいいかな」
 そう言った圭吾を三香子は見上げていた。暗い中で三香子がかすかにうなずいた。
「来てください。待っていますから……」


目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2012 Minari Shizuhara all rights reserved.