静かに満ちる 11

静かに満ちる

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 三香子の店へ行く日、木下の妻の沙希とは初対面だったので三香子の相談に乗ってくれたことの礼を言うと、沙希は
「いいえ、こちらこそ取材をさせてもらったし、いい人を紹介してもらいました」
 と、いかにも女性誌の記者らしく快活に答えた。
「だってあのマーマレードにまいっちゃって。でも雑誌で紹介したら三香舎さんの今年の在庫が予定よりもずっと早く売り切れちゃって、ずっと予約待ちだったんですよ。やっとこの前、今年の夏みかんマーマレードが届いたところなんです。わたし、ブルーベリーのジャムも予約してあるんですよ」
「沙希は甘いものが好きだから」
「宗(そう)だって好きでしょ」
「好きですよー」
 助手席の沙希に言われて運転をしながら木下が笑っている。
「やっぱり東京じゃ作れない味ですよね。三香子さんがジャム作りを始めたのは桑原に行ってからだそうだけど、五年のキャリアであれだけできるなんてすごいわ。それにこんどはお店だし」
「三香子さんは桑原の人ではないのですか」
 圭吾が沙希に尋ねると木下が前を向いたままで言った。
「えっ、守田さん、知らなかった? 彼女、東京出身だよ」
「男の人は女性にそういうこと聞きにくいですものね」
 沙希がフォローするように言った。
「桑原には親戚の人が住んでいて、だから三香子さんにとっては全然知らない土地ってわけではなかったそうですけど、でも桑原に来てからジャム作りを始めたそうだから工房を始めてしばらくは大変だったみたい。今はもうすっかり桑原の人だって三香子さん笑っていましたけど」
 三香子の笑い顔が目に浮かぶようだったが、圭吾はそう言えば三香子のことは全然知らなかったと思った。
「三香子さんは何歳だろう」
「えっ、マジで。守田さん、それマジで知らないんですか」
 いちいち木下はうるさかった。
「俺と同い年ですよ」
「木下、いくつだ?」
「31ですよ。守田さん、それも知らないんですか」
「別に重要なことじゃないだろう」
「あーあ、これだから」
 木下はあきれたように言った。本当にあきれているようだった。

 桑原の家は「三香舎」と書かれた小さな木の看板が玄関にかけられていた。あたたかなオレンジ色の外灯がつけられて暗くなり始めた家の前を照らしていた。
「いらっしゃいませ」
 三香子がそう言って出迎えてくれた。家の中は畳の部屋には座卓が置かれ、廊下にはテーブル席があった。予約の人数に合わせてあるらしく、奥二つの部屋にはそれぞれ絨毯が敷かれテーブルと椅子が置かれて席が作られてあった。
「三香子さん、おめでとう」
 木下と沙希にも言われて三香子は礼を言っていたが、圭吾がそう言うと嬉しさをにじませるように笑った。
「ありがとうございます。今日はよくおいでくださいました。お席にどうぞ」
「あれ? 座卓じゃないの」
 木下が畳の部屋のテーブルを見ながら聞いた。
「今日はテーブルをご用意させていただきました」
 そう言って三香子は真ん中の部屋へと案内してくれた。圭吾が畳に座るのがあまり好きではないと知っていてテーブル席にしてくれたようで、圭吾が三香子を見ると小さく会釈をしながら笑った。木下も沙希もそれを見ていたが、ふたりともなにも言わなかった。
「ね、三香子さん、あとで少しお話きかせてもらえる? もし他にもお客様がいるのなら帰られたあとでいいのだけど」
 沙希が席に座ったあとで尋ねると、今のところ客は圭吾たちだけだったが三香子はもうひと組み客があると答えた。
「もうお見えになると思います。じゃあ、そちらのお客様が帰られてからということでいいですか」

 すぐにもうひと組の客がやってきたが、その客たちは奥の部屋のほうへ案内された。
「わあ、昭和の家って感じね」
 ふたり連れの女性のうちのひとりがそう言っているのが聞こえた。
「東京からわざわざありがとうございます。ご予約の名前を聞いたときには里美さんだって気がつかなかったです」
「結婚したの、わたし」
「あ、そうだったんですか。おめでとうございます。わたしちっとも知らなくて」
「おめでとうだなんて。結婚したのは1年前よ。でも、ここが三香子さんのお店だったなんて、ほんと偶然」
 どうやら三香子の知り合いらしく三香子は笑顔で穏やかに話していた。三香子の横顔が圭吾からも見えたが、三香子はすぐに台所へと引っ込んでいった。かわりに別の女性が運んできたのは前菜の盛られた皿だった。
 子鮎の南蛮漬け、小さなミニチュアのような小カブを煮たものがひとつの皿に盛られている。
「子鮎って初めて食べる」
 出される料理と手書きで書かれた献立とを見比べながら木下たちは食べていた。牛肉をしょうゆでソテーしたものにかけられたクリームと玉ねぎのソース。ひと口サイズのマグロを豆板醤ともろみで焼いたものには角切りの茹で野菜が添えられ、大根とゆで卵をたっぷりの汁で煮た煮物も
あった。キャベツのコールスロー風のサラダはレモンの香りが効いていて、酸味の強いドレッシングにはニンニクと炒めたベーコンが加えられていた。 いずれもシンプルな感じの器に盛られていたが和食器でも創作陶器のような器ではなく、洋食にも合うような皿だった。三香子からごはんは普通のごはんと本日は豆ごはんの二種類を用意してありますと言われて、沙希は「わお、豆ごはん」と言って喜んでいる。両方お召し上がっていただくこともできますよと言われて結局三人とも両方のごはんを食べた。
「ごはんがおいしいって幸せー」
 圭吾もそうは思ったが、沙希や木下にしゃべるのはまかせて食べていた。手際良く、しかしバタバタとした感じを与えずに料理を運んでくる三香子をときどき見ていた。

 料理は終わっていたが、三香子の知り合いらしいもうひと組の客はなかなか帰らかった。さっきから女のほうが三香子を引きとめて話している。久しぶりに会ったのだろうか、三香子は笑顔で応えていたがが、ずっとしゃべっているのは客の女のほうだった。
「しかたないわね。帰ろうか」
 沙希は三香子と話をしたいと言っていたが、今夜は無理そうだった。
「三香子さん、お忙しいようだから話を聞くのはまた今度にするわ。こっちのお店のほうも取材させてもらいたいっていうのが本題なんだけど、また電話してもいい? じゃあ、そうさせて」
「すみません、沙希さん。今日はありがとうございました」
 圭吾たちが帰ることにして支払いを済ませ、沙希がまた来ると言ったときだった。奥のふたり連れが席から立ち上がった。木下があの客が出ていくのを待っていようかと尋ねるように沙希のほうを見たが、沙希は首を振った。圭吾もなんとなくふたり連れが帰るのを引き延ばしているようにも思えたが、こちらが三香子を独占する理由もない。木下たちと一緒に店を出て駐車場で木下の車に乗ろうとしていたところでふたり連れと一緒に三香子が店から出てきた。
「今日はありがとうございました」
 ふたり連れの車のそばで三香子がそう言っているのが圭吾にも聞こえた。
「おいしかったわ。ねえ、三香子さんのジャム工房ってこの近く? 見に行ってもいい?」
「あの、今からですか」
「ちょっとだけ。車で行けばすぐでしょ? 案内してよ」
 女が三香子の手首を握って引っ張っていた。車の中へ引き込もうとしているのを見て思わず圭吾の足が止まった。


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