静かに満ちる 10

静かに満ちる

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「三香子ちゃんの店、今週末からですってね。守田さん、行きますよね。一緒に行きましょうよ」
 木下がいつものお気楽な顔で書類を手にして入ってきていた。
「トランジットの連絡は来たか。見せてくれ」
「守田さん、行かないんですか。オープンのこと、もしかして三香子ちゃんから聞いていないんですか」
 圭吾は黙ってファックスで送られてきた書類を木下から受け取った。
「ねえ、守田さん」
「仕事中」
 木下はおしゃべりだ。人数の少ない日本支社で木下は輸送や輸出入に関する業務を担当していて、こまごまとした用件もやってくれるから仕事はできるのだが、圭吾から見たら無駄に明るい男だった。
「これを本社へも送っておいてくれ。ロジャーには俺から連絡しておくから」
「はい、わかりました。ところで守田さん、三香子ちゃんのところ、行きますよね」
「すぐには行かない」
「ええ、どうしてですか」
「忙しいんだよ」 
 忙しいのは自分ではなくて、三香子がという意味だとは言わなかった。


 あれからもう一度、圭吾が家を貸す契約の書類を持って桑原へ行ったときに三香子は自分の工房へ案内してくれた。三香子の工房は以前は野菜の加工所だったという建物で、以前の持ち主が廃業してしまっていたので借りているということだった。新しい建物ではなかったが中は明るく、入口を入ったところにジャムやマーマレードの瓶詰がクロスを掛けたテーブルの上に並べられていて、これだけが店舗代わりというわけだった。 細長い建物の中では大石の母と四十代くらいの女性が流し台のところで夏みかんを洗っていてふたりとも挨拶してくれた。圭吾は三香子がひとりで
やっているのだと思っていたが、忙しいときはパートの人たちに応援を頼んだりしているという。
「パートつったってわたしらも都合のいい時だけ働けるから便利なんだよ。みんな近所の人たちばかりだし」
 たぶんこの大石の母が近所の人たちのなかでは一番元気がいいのだろうと圭吾は思ったが黙っていた。
「今が一番忙しいみたいだね」
「そうですね。夏みかんのほかにも野いちごやブルーベリージャムなんかも作るので、やっぱり春から夏が一番忙しいです。でも大石さんや児玉さんが頑張ってくれるから」
 児玉というのは夏みかんを洗っていたもうひとりの人だった。
「この人が守田さん? よろしくお願いしますね」
 そう言った児玉という人は若く見えるのだが、やはり大石の母と同じで圭吾のことを興味深げに見ていた。
「マーマレード作りも、もともとは児玉さんに教えてもらったんです。何でも作れる人なんですよ。わたしの師匠です」
「なに言ってんの。師匠なんて」
 児玉は照れた様子もなくそう言ってせっせと夏みかんを洗っていた。三香子にしろ、大石の母や児玉という人にしろ、この町の女性は働き者が多いなと圭吾は思った。
「店を始めて、こっちの工房もやっていくつもり?」
「はい、ジャムやマーマレードは果物の収穫の時期に作っておく、いわば保存食ですから、わたしは旬の時期以外は作らないんです。地元の材料だけでは一年を通して作り続けるのは無理だってこともありますけど。だから大丈夫です。工房のほうは児玉さんがおもになって助けてくれますから」

 工房の作業場の奥が小さな事務室だった。
「わざわざ来てもらうのは悪いので、わたしが行きます」
 前回、桑原から帰るときに次に来るときは書類を持ってくると言った圭吾に三香子はそう言ったのだが、圭吾は取り合わなかった。
「また自転車で? あのとき横浜までいったい何時間かかったの」
「でも」
 そう言った三香子の顔が少しうつむいた。
「守田さんが日本にいるのならこの家を使うことだってできるのに、わたしが借りたらそれもできないし、なんだか」
「もともとここに住む気なんてないですよ。住みたくない」
 三香子の言葉を遮るように言ったが、それは圭吾の本当の気持ちだった。父への気持ちを変えられたわけではないし、変えるつもりもなかった。それにもう父への感情を他人にむき出しにするようなことはしないつもりだったが、つい住みたくないと言い切ってしまった。圭吾の語気に三香子が顔を上げたので圭吾は笑わないまでも少し穏やかな顔をしてみせた。
「でも三香子さんはここを借りたいんでしょう? だったら気にしないことです。そんなことを気にしていたら店なんてできないよ」
 それに。そう言い足そうとしたのだが、圭吾は口をつぐんだ。ずっと「人は人、自分は自分」という信条でやってきていたし、自分にはその考え方が身に付いていると思っていた。だからイギリスで生活して仕事をするのはなんでもないことだった。以前の自分なら家を処分していただろう。だが、そうしなかったのは。
 圭吾が黙ったので三香子が「そうですね」と返事をして契約書類に署名し始めた。三香子は工房のことも店のことも協力してくれる人たちに恵まれているのだなと圭吾は思った。



 木下は三香子の店が開店したらすぐに行くつもりらしかったが、圭吾がすぐには行かないと言ったのでその日はそれ以上言ってこなかった。が、翌日木下は会社へ出社してくると圭吾のところに来て奥さんから同じことを言われました、と言った。
「三香子ちゃんの店はどこかのフランチャイズの店が開店するのと違って最初から客が詰めかけるなんてそんな店じゃないでしょ。個人でやるお店って開店祝いに親しい人に来てもらうってことが多いけど、始めた直後は慣れていないからいろいろ修正とかしなきゃならなくなるのよ。お客からは見えない裏の部分でそういうのをいかに上手くやるかってことが大事なのよね。夜の食事は予約制でしょ。守田さんの言う通り、私たちも来週に予約して行くようにしようよ、だそうです」
「おまえの奥さん、わかっているな」
「そりゃあ俺の奥さんですから」
 めげない木下に圭吾はため息が出そうになった。
「守田さん、車で行きますか?」
「一緒に行くなんて言ってないぞ。俺は来月車を買う予定だからそれから行くよ」
「……素直じゃないんだから」
「なに?」
 どういう意味だと圭吾は木下を見たが、木下は急にへらっと笑った。
「それなら俺が車を出しますから。守田さんもそれならいいですよね。一緒に行きますよね」
 圭吾はあまり木下とは一緒に行きたくなかったのだが、木下が車を出して一緒に行くということで約束をさせられてしまった。


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