静かに満ちる 9

静かに満ちる

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「手伝いましょうか」
 三香子が夏みかんを取っていた途中だったと思い、成り行きで圭吾はそう言った。
「いいえ、いいです。これはわたしの仕事ですから。守田さん、今日来たばかりなら時差があるから大変でしょう。家の中で待っていてもらえれば」
 三香子がそこまで言ったところで道のほうからプッ、プッと短いクラクションの音がした。はーいと三香子が返事をして表のほうへ走って行ったと思ったら、すぐに年配の女性と戻ってきた。
「あれ、お客さん?」
「この家の持ち主の守田さんです」
「はあー、あんたが。そりゃ、ご苦労さん」
 三香子と並ぶとまるで祖母と孫のように見えるその女性はにこにことしながら同時に興味ありげに圭吾を見ていた。つまり圭吾に興味津々なのが丸出しだった。
「こちらは八百屋の大石さんのお母さんです。夏みかんを運んでもらうのを手伝ってもらっているんです」
 圭吾は、あの八百屋の、と思いながら名乗った。
「守田です」
「いーや、いい男じゃないの。三香子ちゃん、ここを借りられてよかったねえ」
 いーやってなんだと圭吾は思った。掛け声なのか方言なのか、圭吾にはわかりかねたが、三香子は全く気にしていないようだった。
「これから取った夏みかんをわたしの工房へ運ぶんです。おばさんが車で運んでくれるので」
「じゃ、積み込もうかね」
 大石の母がそう言うと三香子が夏みかんの木のそばに置いてあった夏みかんの入ったコンテナ箱を持ち上げた。
「あ、手伝うよ」
 三香子だけならまだしも七十代らしき大石の母も箱を運ぶのを見て圭吾が黙って見ているわけにはいかなかった。圭吾もコンテナ箱を持ち上げたが、かなり重い。玄関の前のところへ持っていくと道には白い軽トラックが止められていた。
「おばさん、あとはわたしが運ぶから」
 荷台に箱を乗せると三香子が取って返したので圭吾も残りの箱を運んで積み込んだ。
「すみません、守田さんに手伝ってもらって」
「工房は近いの?」
「近くです。でも200メートルくらいは離れているかも」
「三香子ちゃん、いいかね」
 運転席に座った大石の母がエンジンをかけながら聞いてきた。
「はい、お願いします。わたしも追いかけますから、おばさん、わたしが行くまで降ろさなくていいからね。守田さん、ちょっと工房のほうへ行ってきます。荷を降ろしたらすぐに戻ってきますから」
 え? と圭吾は思った。
 むこうで荷を下ろすのをするのなら助手席に乗って行けばいいのに。そこまで考えて急に思い出した。三香子は乗り物が苦手なのだと。
 軽トラックが走りだし、三香子が行ってきますと言って出ていった。

 圭吾は三香子が出て行って急に静かになった家のまわりを眺めていた。日曜日なのに人も通らない。三香子は戻ってくると言ったが、それまでどのくらいかかるのか。かといって家の中に入る気にもなれなかったので、夏みかんの木のそばのなにも入っていないコンテナ箱をひっくり返して圭吾はその上に腰を下ろした。
 やはりここは田舎だな、と思った。三香子は忙しそうに働いているが、すべてがのんびりとしているようだ。昨日まではロンドンにいて、今日は横浜から1時間でこの町だったが、この町のほうがよほど外国の見慣れない町のように思えた。
 三香子は戻ってくるだろうから置いてきぼりをくらったのではなさそうだ、と思いながら圭吾は夏みかんの木を見上げた。まだ木にはたくさんの夏みかんがなっていて、いくつも実をつけた枝は重みでしなっているほどだった。
 日曜日なのに三香子は働いていた。夏みかんは自然のものだから日曜日も休みも関係ないのだろう。店の準備を見直せといったのは圭吾だったが、三香子は大丈夫そうだと思えた。契約の書類などは圭吾が直接ここへ来なくても不動産管理の会社に依頼するとかそれなりの方法があることは知っていたが、そこまでする気はなかった。田舎の古い家なのだ。でもここがいいと三香子は言っている。

 しばらく座りながらじっと考えていたが、表のほうで気配がして三香子が圭吾のいる家の裏へと
入ってきた。手にビニール袋を持っていた。 
「すみません、守田さん。せっかく来てもらったのに。お茶を淹れますから、どうぞ」
「あ、いや。それより夏みかんのほうはいいの」
「全部いっぺんには加工できないので何日かに分けて取りますから大丈夫です。どうぞ」
 言いながら三香子が玄関へ回って中へ入った。圭吾も家の中へ入ったが、さっきはなにもないと思った家の中には奥の部屋にテーブルやイス、ダンボール箱などがいくつか積まれていた。それを見てから、廊下に置いてあった古いテーブルのところにしか椅子がなかったので圭吾がそこへ座ると三香子が茶を運んできた。
「ロンドンにいる守田さんに紅茶を出すのは恥ずかしいんですが」
 そう言って三香子が置いたティーカップにははっきりとした水色(すいしょく)の紅茶が入っていた。廊下のガラス戸越しの明るい陽射しのなかで紅茶の水色が美しかった。圭吾はイギリスでの生活は長かったが紅茶は出されれば飲むという程度で、イギリス人だってコーヒーは普通に飲んでいた。それでも長く暮していれば紅茶を飲む機会は多いから、ひとくち飲んでみてこれは良く淹れてあると思った。三香子が紅茶と一緒に置いた皿には丸いクラッカーの上にクリームのようなものとマーマレードを乗せたものが並べられていて、圭吾はそれをひとつ食べてみた。
「これはなに?」
「クリームチーズとマーマレードです。お手軽ですけど、チーズケーキ風です」
 まさかチーズケーキを食べたことがないとは言えず、いや、食べたことはあったかもしれなかったがどんな味だったか憶えていないというのが正直なところで、圭吾は黙って食べていたが、ふたつめのクラッカーを食べるのを三香子がそばに立ったままで見ているのに気がついて、どうぞと向かいの椅子へ座るように言った。これではまるで圭吾は店の客だった。
「守田さんは今回はどのくらい日本にいるんですか」
 三香子は座るとそう尋ねてきた。
「いや、まだちょっとわかりません」
 じつのところは日本への異動を承諾していた。ロンドンのフラットは借りたままにしていたが、こちらでもマンションを借りるつもりでいて会社の木下がいくつかの物件を当たってくれているはずだった。
「仕事の都合でしばらくは日本にいることになりそうです」
「そうですか。よかった」
 三香子がうれしそうな顔をした。
「そしたらお店にも来てもらえますよね」
「木下も来る気まんまんですよ。そんなことを言っていましたから」
「沙希さん、あ、木下さんの奥さんですけど、沙希さんも来てくださるって約束したんです。この前、お花見を兼ねてここのお料理を食べてもらったんです」
 木下もその妻もすっかり三香子のことが気に入っているらしい。木下はともかく、木下の妻に気に入られるのならやはり店のことは大丈夫なのだろう。そう考えながら圭吾は三香子が話すことを聞いていた。
「イギリスにも桜の木ってありますか。アメリカにはあるって聞いたことありますけど」
「さあ、どうかな。俺が気がつかないだけかな」
「あ、桜は花が咲いているときでないとわからないですよね。わたしも前はそうでした。木を見てもこれ、なんの木だろうって」
 花とか木とかそういうことに興味のなかった圭吾は三香子に尋ねられても答えられないのだが、こうして話しているのは嫌ではなかった。三香子も花見をしたときのことや桑原の町のことを話したりしていたが、圭吾の父のことに触れることはなかった。


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