静かに満ちる 8

静かに満ちる

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 父の家と土地を圭吾の名義にするのは父の友人の弁護士に紹介してもらった司法書士に頼み、その後に三香子へ貸すことができるようにするあいだは三香子へ直接連絡するようなことはないだろうと考えて木下へ連絡役を頼んでおいたのだが、イギリスへ帰った圭吾に送られてきた木下からのメールには三香子のマーマレードを気に入っていた木下の妻が雑誌の取材をさせてもらうことになったと書かれていた。それからしばらくしてまた送られてきたメールには写真の画像が付いていて、その写真にはふたりの女性が写っていた。

 ―― 桑原の三香子ちゃんのジャム工房に行った時の写真で、右側は俺の奥さんです。三香子
ちゃんにこの写真を守田さんに送ってもいいって了承をもらっていますので、ご心配なく。――

 なにがご心配なく、だ。と心の中で言いながら圭吾はその写真を眺めていた。黒いダウンコートを着た木下の妻といつかのエプロンと三角巾をした三香子が写っていて、三香子はマーマレードを
持って少し恥ずかしそうな笑顔だった。
 木下に自分のパソコンのメールアドレスを教えておいたのはまずかったかなと思った。木下は要件も知らせてきてくれたが、必ず三香子の事も書き添えてあった。木下の妻が載せた雑誌の記事は取り寄せ産直品特集の記事のひとつで、マーマレードの写真だけの小さな記事だったが、木下はごていねいにその雑誌のページの写真も送ってきていた。

 ―― 三香子ちゃん、取り寄せの注文が増えたって言ってましたよ ――

 おせっかいだな。圭吾はそう思ったが木下にそれを言うとまたにやにやしながらなにか言われそうだと思い、やめた。あいだに木下を入れなくても三香子に直接連絡を取ることもできると言われてしまえばその通りだったからだ。
 マーマレードを持った三香子の写真を圭吾はメールから離して保存しておいた。雑誌用の写真ではないスナップ写真で、写っている三香子の笑顔は圭吾に向けられたものではないだろう。きっと三香子は圭吾にこの写真を送ることは写真を撮った後で聞いたはずだ。だが、圭吾はその写真を保存しておいた。開いて眺めることもしなかったが、捨てはしなかった。



「日本か……」
 日本出張のひと月前にイギリス本社の社長から打診された異動に圭吾は一日だけ考えさせて欲しいと猶予をもらってロンドン郊外の自宅フラットへ帰ってきていた。
 4月の日本への出張は決まっていたことなので、そのときに圭吾は相続の手続きが済んだ家を三香子へ貸すつもりでいた。圭吾の働く会社は貿易会社といってもイギリス国内にある大手の商社とは違い、おもに小規模の企業の製品や部品などの輸出入に関する業務を行っていたが、ヨーロッパの経済不安の波を受けて業績は横ばい状態だった。日本の支社は木下も含めて社員は
6人で、そこの営業部長として行ってほしいという異動だった。36歳の圭吾には栄転と言えなくもないが、日本支社の業績も良くはなかった。
 圭吾はイスに座りテーブルの上に置かれた黒いノートパソコンの上に手を置いていた。
 ずっとこのままイギリスで働き続けていくつもりだった。べつに日本に住まなくてもいいと思っていた。しかし……。
「日本か」
 もう一度、圭吾はつぶやいた。いずれにしても来月には日本へ行かなくてはならない。圭吾は携帯電話を取り出すと国際電話で三香子の電話番号にかけた。ロンドンは深夜だから日本は午前中だろう。これが日本にいる三香子にかけた初めての電話だった。
『……はい、三香舎(さんこうしゃ)です』
「三香子さんですか」
『あ、守田さんですね』
 三香子がすぐに圭吾だということがわかってくれたことに、圭吾はなぜだかほっとしていた。
「突然にすみません。前にも言いましたが4月には日本へ行きますが、その前に相続の手続きも済むのであの家は三香子さんに貸します。契約は後になってしまいますが、店をやりたいということは変わってはいませんよね」
『変わっていません』
 大きくはない声だったが、三香子がはっきりと言った。
「それならば準備を始めてもいいですよ。家を貸す契約は後になってしまいますが、僕のほうはかまいません。三香子さんは?」
『あ、はい。そうしていただけるなら……やっぱり守田さんにお願いして良かったです。ありがとうございます』
 少し三香子の声の調子が変わった。それが圭吾には、はにかむような嬉しさを滲ませている声のように聞こえた。
「いいえ、家を貸すことは前に約束していましたから」
『でも、ありがとうございます。あの、守田さんは来月には日本へ来られるんですよね。何日に来られるんですか』
「まだ決まっていません」
『そうですか。じゃあ、わたし待っています。守田さんが日本へ帰ってくるのを』
 誰かに待っていると、日本へ帰ってくるのを待っていると言われたのは初めてのような気がした。今までの圭吾にとって日本は帰るところではなく、行くところだった。ずっと今までは。
「では、またそのときに」
 それ以上は話さずに電話を切ったが、圭吾は携帯電話を持ったまま長い時間座っていた。






 もう桜の季節は終わったのか。
 圭吾は横浜のホテルのテレビで桜前線が東北に達しているというニュースを見ながらそれなら横浜も桑原もすでに桜の花は終わったのだなと思った。今までは春に桜が咲くことは知っていても
桜の花を見たいと思ったことはなかったのだが、圭吾がそう思ったのは日本に来る直前に木下が桑原の三香子ちゃんのところで花見をしましたよというメールを送ってきていたからだった。べつにそれに返事をするような内容でもなかったのでそのまま日本へ来たが、今日は日曜日だった。ホテルでレンタカーを手配してもらおうかと思ったが、考え直して圭吾は電車で桑原へ向かった。

 なにも変わってはいなかった。変わる理由もないのだが、あきれるほど桑原の町はのんびりと変わっていないようだった。駅からの道も、まわりに見える住宅も、よく見ればところどころに変わっているところもあったかもしれないが、圭吾の目にはなにも変わっていないように見えた。ただ、家の庭に植えられた木が鮮やかな若葉を伸ばしていたり、置かれたプランターに色とりどりの花が咲いていたりするところは春なのだと思えた。天気の悪い日の多いロンドンの冬に慣れていた圭吾には日本の春はのんびりとしていて、でも野放図な暖かさのようにも思えて、正直に言えば妙に生暖かいようで体が慣れていなかった。
 父の家は外から見た限りでは静かだった。玄関で声をかけたが返事がない。鍵も閉まっていて庭のほうを見ても誰もいなかった。木下はこの頃は毎日三香子がこの家に来ているようなことを
メールで言っていたが、今日はいないのだろうか。そう思っていたら家の裏のほうで物音がしたような気がして圭吾は家の裏手のほうへ回って行った。
 敷地の一番奥にかなり大きな木があって、枝には大きな黄色い実がたくさんついていて枝が下がっているように見えた。その木の枝が揺れていた。
「三香子さん」
「えっ」
 脚立の上で手を伸ばしていた三香子の体がぐらっと落ちそうに見えて圭吾は思わず手を出してしまったが、三香子は落ちなかった。脚立の上部を持ちながら、はしご状のステップを慎重に降りてきた。
「ああ、びっくりしました」
 そう言って三香子が圭吾の前に降りたときには圭吾は手を引っ込めていた。
「表で声をかけたけど返事がなかったので」
「すみません、実を取っていたので」
 三香子はそう言って手袋をした手で帽子をはずした。デニムのシャツとズボンという服装の三香子の足元に置かれたコンテナ箱にはいっぱいに夏みかんが入っていて、あたりは柑橘類の木特有の香りが漂っていた。実の匂いとは違う切られた枝から匂う木の匂いだった。
「ちょうど今が収穫の時期なんです」
 圭吾の問いを待たずに答えながら圭吾の顔を見上げた三香子の顔はにこりと笑っていた。なんだかうれしそうな三香子の顔だったが、すぐに真顔に戻った。
「あの、守田さんはいつ日本に?」
「今日、早く着きました」
「そうだったんですか。お疲れでしょう。あ、どうぞ、こっちは開いてますので」
 そう言って三香子が台所の勝手口を開けたが、開いた戸口の中を見て圭吾は尋ねた。
「準備は進んでる?」
 三香子が勝手口を開けたままにして振り返った。
「守田さんが先に準備を進めてもいいと言ってくださったので、少しずつ。でも、部屋には極力手を加えないでこのまま使います。トイレと台所はちょっと直してもらう予定です。お店の改装のこととかも木下さんがいろいろと教えてくださってとても参考になりました。守田さんのおかげです。ありがとうございます」
 性格なのか三香子はきっちりと頭を下げて礼を言った。三香子の言った木下というのは木下の妻のことに違いない。
「それにしてはなにもないね」
 勝手口から見える室内はほとんど変わっているようには見えず、畳の部屋にはまだなにも置かれていないようだった。
「ちょうどこれから夏みかんの収穫時期なので、マーマレードの仕込みもしなければならないんです。夏みかんのピークが過ぎたらお店を開店させようと思っています」
「そうですか」
 それまでには賃貸の契約が整うだろうと圭吾も考えた。やはり三香子としては契約が済まないと使い辛いのだろうと思った。
 三香子はまだ夏みかんを切るための剪定ばさみを持ったままだった。


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