静かに満ちる 7

静かに満ちる

 目次



「関係って……」
 そう言った三香子の表情が急に変わった。なにかに気がついたような、なにかを言おうとして止めたような、そんな顔だった。
「失礼です」
 大きな声ではなかったが、はっきりと三香子が言った。
「関係だなんて、守田さんが思っているようなことはありません。それは須崎さんにも、……わたしにも失礼です」
 圭吾を見ていた三香子がそう言うとガラス戸のほうへ向き直った。なにかをこらえているような顔で窓の外を見ていた。
「須崎さん、ずっと病気だったんですよ。何度か入退院を繰り返していて、それもご存じなかったんですね」
 三香子の声はなじるような言いかたではなかったが、圭吾はなにも言わなかった。
 病気だからなんだっていうんだ。病気でひとり暮らしだっていうだけでここの人たちから親切にされていたのか。そう言いたい気持ちを理性だけで押さえていた。
「わたし、須崎さんのことは身寄りのない人だと思っていました。須崎さんは大石さんには言ってなかったようですけど、亡くなる少し前に息子がいるんだってわたしに話してくれました。わたしが連絡しましょうかって言ったら、連絡してもきっと来ないよとも言ってました。でも、息子さんなのにって、わたしが言ったら」
「息子だからですよ」

「父と母が離婚したのは父が家を出て若い女のところへ行ったからだ。その女とどうなったか知らないが、ここではひとり暮らしで結局はひとりで死んでいったんでしょう。自業自得だ。家族を捨てたんだから」
 驚いた表情で三香子が振り向いたが、圭吾を見上げる三香子の目は戸惑っているようだった。なんと言ったらいいのかわからない、とでもいうように。

 子どもだったときに父が家に帰ってこなくなった理由を聞いたときから、もう父には会わないと決めた。どんなことがあっても、たとえ父が死んだとしても会わないと決めていた。父の友人の弁護士は父の死を連絡してきたが、圭吾は葬式には行かないとはっきり断った。イギリスにいたからではなく、もとより行くつもりはなかった。葬儀にも墓にも。
 それなのに三香子はどうしてあんな男のために。
「あなたには親切な男だったかもしれないが、僕にとってはそうではなかった。そういうことなのです」
 冷たく言い切って三香子から目を逸らした圭吾はまた庭を見た。ガラス戸越しに見える庭はあいかわらず午後の陽射しで静かだった。三香子はまだ戸惑ったような目で自分を見ていた。庭を見ている振りをしていてもそれがわかった。
 化粧が薄く、髪の毛を首のうしろで括っている三香子の顔は圭吾には欧米人の顔を見慣れているからというわけではなかったが、とても素朴に見えた。田舎の人だから、素朴な人だから父に親身になっていたのだと思いたかった。それなのにこんな冷たい言いかたしかできない。
 父のことは誰にも言いたくないと思っていた。誰かに話したのも初めてだった。イギリスの大学へ留学したのも、その後もロンドンで働き続けたのも日本にはいたくないからだった。母が再婚したこともあるが、このままイギリスに住み続けようと思っていた。
 父に対して気持ちを変えることはできない。父のことは心から抹消しようとしていたのにここでは否応なく父の事を考えさせられる。三香子が圭吾の知りたくない父の様子を垣間見せるたびに気持ちが波立つ。
 だが、父のことが不快だというよりは三香子が関わっているから、三香子の口から父のことを聞かされるから、不快なのだ。
 三香子には父のことを言って欲しくない。他の誰よりも三香子には……。


「そうだったんですか」
 三香子の小さい声が言ったが、その声はごく普通に聞こえた。
「だから守田さんはお葬式にも来なかったんですね……」
 やはり三香子の声は圭吾を責めてはいなかった。いや、圭吾がそう思いたかったのか。気持ちを落ち着けるように息を吸いこんでから圭吾は三香子を見た。
「あなたには失礼だった。すみません」
 三香子が、いいえ、というように小さく首を振った。
「きっとそれぞれ事情があるんだって、大石さんが言ってました。でも、守田さんはここに来てくれたから、それでいいのだと思います。わたしが横浜から帰るときにわざわざ車で追いかけてきて送ってくれましたよね。あのとき冷たい人じゃないんだって思いました。あの、わたし、じつはとても乗り物に弱くて、ほとんど車には乗れないんです。ちょっと持病みたいなものなんですが、でも守田さんの車には乗っていられました。静かに運転されていたし、そういう人なんだなって思ったら……。すみません、あきれてましたよね」
 三香子に謝られても、と思いながら圭吾はあのとき三香子がパンクした自転車を引いて歩いて帰ると言ったときのことを思い出した。
「あきれましたね。この人はなにをしたいんだって思いました。車に乗せてもひと言もしゃべらないし」
「ごめんなさい。車に乗ったの、三年ぶりだったんです」
 三香子は済まなそうに言った。なんと言ったらいいのか。あきれた気持ちと同時に三香子を車に乗せたことがひどく無理をさせてしまったのだと気がついた。
「僕はあなたに嫌な思いばかりさせているようだ」
 三香子は困ったようになにも言わなかった。それは肯定だった。やっぱりという気持ちと、それが自分の本意ではないと言いたい気持ちで圭吾は迷った。
「花をあげてくれたのはあなたですか」
 唐突に言われた花という言葉に三香子は意味がわからないようだった。圭吾が奥の部屋へ手を向けるとやっと三香子はわかったようだった。
「そうです」
「毎日?」
「いいえ、ときどきです。この家のお掃除に来たときに。すみません、勝手なことして」
 三香子が頭を下げている。謝る理由などないのに、謝らなければならないのは自分のほうなのに、まったくこの人は、と思いながら圭吾は三香子の黒い髪の頭を見ていた。

「僕は来週、イギリスに帰らなければなりません」
 え、と三香子が驚いた。
「それまでにこの家のことを済ませてしまいたかったのですが、半年後にまた日本への出張がある予定なので、それまでに手続きをします」
「やはり処分してしまうんですか」
 三香子の顔に失望の色が浮かんでいる。
「いいえ、賃貸の契約です。弁護士にも連絡して僕の会社の木下にも頼んでおきますが、手続きができたらここは三香子さんに貸します」
「えっ、本当ですか」
「ただし」
 ぱっと聞き返してきた三香子を圭吾は見ていた。
「店のことは計画と準備をもう一度検討し直してください。木下の奥さんが女性雑誌の編集部にいるはずです。レストランや外食のことにも詳しいそうだから一度話をしてみたらいいですよ」
「は……はい、ありがとうございます」
 嬉しそうな顔をしていたが、三香子は喜んでいいのかどうか戸惑っているような顔だった。嬉しさと驚きが混ざったような表情。だが、さっきよりもずっと明るい顔だった。
「ありがとうございます」
「いや、僕はまだ礼も言ってなかった」
 なんの礼か。そこまでは言わなかったが、圭吾はありがとうと言って頭を下げた。

「三香子さんの電話は携帯ですか。電話番号を木下に教えてもかまいませんか」
「はい」
「僕が日本に来るまでは木下に連絡させます。マーマレードをもらったのだからそれくらい働かせてもいいでしょう」
 同意していいのかどうか、ちょっと困ったように三香子が笑った。三香子は圭吾のことは冗談も言わないような男だと思っていたのだろう。
「それまで三香子さんにここの鍵を預けておきます」
「あ……、はい」
 圭吾が鍵を差し出し、三香子が右手に左手を添えるように両手で受け取った。鍵を渡すそのときに一瞬三香子の手に触れた。丸っこい手だなと圭吾は思った。


目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2012 Minari Shizuhara all rights reserved.