静かに満ちる 6

静かに満ちる

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 住む人のいない家は穏やかな秋の陽射しの中でしんと佇んでいるようだった。玄関を開けて入った圭吾はぐるりと家の中を見てみた。畳敷きの部屋が三間並んでいる。部屋は襖で仕切られていたが開ければ広い座敷として使えるようになっていた。並んだ部屋の庭側には板敷きの広めの廊下があり、反対側には台所、風呂場、トイレがあった。
 この家は圭吾の父が中古の家を買ったそうだが、家の中は特には手を入れてないようだった。家具はほとんどなく、細長い部屋のような廊下に小さなテーブルをはさんで色あせた布張りのイスがふたつ置かれていた。
 そのイスに座って圭吾は家の中を眺めた。家具がないのは父が住んでいたときからなのか、それとも父の死後、誰かが片付けたのか。ふと見ると奥の部屋の突きあたりにある簡素な床の間の前に小さな文机が置かれているのに気がついた。小さな机の上には線香と丸い器の線香立てが置かれ、その横には小さな花瓶に小菊が一本挿されていた。花が新しい。圭吾はその小さな花をじっと見つめた。

 玄関のほうから声がしたので、上がってきてくださいと言うと三香子がお邪魔しますと言って入ってきたが、三香子は産業祭りの日と同じエプロン姿だった。
「仕事中だったのですか」
「はい。でも、かまいません。準備をしていただけですから」
 それから三香子は圭吾の前に来ると礼を言った。
「こちらから出向かなければならないのに、わざわざすみません。それから先日はありがとうございました」
「いや、こちらこそ。マーマレード、木下が喜んでいました。あれはおいしい」
「そうですか。よかった」
 おいしいと言った圭吾に三香子はちょっと驚いたように少し笑った。その顔がなぜか見ていられなくて圭吾は立ち上がると庭を眺める振りをして背を向けた。ガラス戸越しに見た庭の奥には屋根と同じくらいの高さの濃い緑の葉の木があって、常緑の葉の合間に黄緑色の実がいくつも見えていた。この前来たときには気がつかなかったが、三香子の言っていた夏みかんの木というのはこれだろうかと思った。
「あれが夏みかんの木ですか」
 後ろの少し離れたところにいる三香子も庭を見ているようだった。
「そうです。わたしの作るマーマレードはあの木の夏みかんで作っているんですが、夏みかんの
木ってこのあたりではここにしかないんですよ」
「ここにしかない? この町では夏みかんは作られてないのですか。ありそうだけど」
 圭吾は庭を見たまま尋ねた。
「畑の木はみんな甘夏なんです。夏みかんじゃなくて」
「甘夏と夏みかんは違うのですか」
 はい、と三香子が答えた。
「甘夏でもマーマレードは作れますが、とろみの成分が多い夏みかんのほうがマーマレードに向いているんです。わたし、夏みかんでマーマレードが作りたくて探したんですけど、売っているのはみんな甘夏で夏みかんじゃないんです。近くのミカン農家の人たちに聞いてみたりしたのですけど、今はほとんど甘夏に切り替えられてしまって、もう夏みかんの木は残っていないそうなんです。
残っているとしたら、農家の畑ではなくて個人の庭に植えられたものなら、もしかしたらあるんじゃないかって言われました。それで八百屋の大石さんに尋ねてみたら、そういえば須崎さんの庭に古い夏みかんの木があったなって。この家の隣りは大石さんの土地なんです。それで須崎さんに夏みかんを譲ってもらえないかお願いしてみたんです」
 ひと息に言ったのだろう。そこまで言うと三香子が圭吾から少し離れてはいたが並ぶように廊下に立ったので、圭吾が黙って三香子のほうを見た。
「わたしが突然お願いに行ったのに、須崎さんはとても親切に好きなだけ取っていいよと言ってくださったんです。自分が取ってやれないけれど、わたしが取るなら全部取っていいよって。ここの夏みかんで作るマーマレードはとても評判がいいんです。最近は取り寄せで買ってくださるかたが増えてきているんです。須崎さんのおかげです」
 話している三香子の口調は須崎のことを思い出しているような、そんな口調だった。それは圭吾がそう思うから、そう聞こえるのだろうか。
「わたしがこの家を借りたいのは、ここで店をやりたいからです。田舎風のカフェを兼ねたような食事を出すお店です。家の中にテーブルや座卓を並べて、田舎の家へ遊びに来たような感じで食事をしてもらうお店にしたいと思っています。わたしの工房のマーマレードやジャムを売ったりもできるように」
「店ですか」
 意外な話に圭吾はちょっと驚いた。
「それをここで?」
「はい。須崎さんにお店をやりたいことを話したらとても賛成してくれて、いろいろ相談に乗ってくれました。須崎さん、以前は東京で喫茶店をされていたんですよね」
 圭吾は父が喫茶店をしていたということを知らなかった。三香子は圭吾が知っていると思って
なにげなく言ったようだったが、圭吾にとっては不意打ちのようだった。
 三香子が父のことを話すたびに、圭吾の心に波が立つ。言葉にはできないような気持ちのざわめきが父に対するものだとわかってはいたが。
「お茶やコーヒーのこととか、とても詳しくて。あ、それって当たり前ですよね。でも、わたしにもわかるように話してくださって、わたし、実際にコーヒーの淹れ方を教わりました」
 圭吾の知っていた父とは違う姿だった。父は母と別れるまでは企業のサラリーマンだった。それなのに三香子のような若い女にコーヒーの淹れ方を教えて楽しんでいたのか……。
 三香子が窺うように圭吾を見ていた。黙っている圭吾の様子に気がついたのだろうか、急に言いたすように言った。
「あの、それで……須崎さんが自分がいなくなったら、この家でやるといいよって言ってくださったんです。すみません、勝手なこと約束して」
 そこまで言って三香子が口をつぐんだので圭吾が向き直った。

「吉村さん、飲食業で働いた経験は?」
「……あ、あります」
 急に聞いてきた圭吾に三香子は驚きながら答えているようだった。
「どんな?」
「ウェイトレスを少しですが」
「ウェイトレスが悪いわけではありませんが、経営とか店での調理に関する経験は?」
「……ないです」
「それで田舎風カフェをやろうと?」
 矢継ぎ早に繰り出される圭吾の問いに三香子は答えていたが、最後の質問に顔が赤くなった。
「素人だって、そう思っているんでしょう。そんなこと言われなくてもわかってます。でも、わたしには経験がありませんがちゃんと考えてます。材料の仕入れ先とか、いろいろ」
「いろいろ、ね」
 遮って圭吾は続けた。
「店をここでやる。それはあまり現実味のない話に聞こえますね。どの程度の計画がおありか知らないが、準備資金だって要るでしょう。そんな大雑把な話に銀行が融資するとも思えない。スロー
フード的な自然派の食事を出すカフェやレストランが流行っているらしいですが、こんな都会でも田舎でもない中途半端なところで客が来るのですか。いや、あなたの目指すところはわかりますが、実現は難しいでしょう。夢見る女性の考えそうなことだ」
 三香子が目を見開いて圭吾を見ている。

 ……三香子にあたってもどうしようもないのに、経営とか資金とか、そんな話をして三香子を問い詰めている。夢見る女性なんて言えば不快に思うのに決まっているのに。本当に聞きたいのはそんなことではないのに。
 心の隅ではそうは思うのに圭吾の言葉は勝手に出てきてしまう。

「家を借りて、うまくいかなければ返せばいいと思っているのでしょうが、貸すほうは普通の住宅を店に直されて、うまくいかなかったからと返されても次の借り手がつきませんよ」
 ダメ出しのように圭吾に言われて三香子の表情が驚いた顔から怒ったような顔に変わった。
「どうして……。いえ、守田さんがそう言われるのはわかりますが、ご迷惑はかけませんから。きちんと賃貸の契約をして、それで」
「契約以前の問題です」
「でも!」
 むきになったように三香子が声を上げた。
「でも、須崎さんはそうしていいと言ってくださったんです」
「僕は父じゃない」
 冷たく言った圭吾に三香子は言い返してこなかったが、その瞳が揺れていた。少し明るく澄んだような三香子の瞳の色が不安と動揺で揺れながらも圭吾を見ている。それを見るともう圭吾は聞かずにはいられなかった。

「あなたと父は……どういう関係だったのですか」


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