静かに満ちる 5

静かに満ちる

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「あの家は処分します」
 圭吾がそう言ったときの三香子の一瞬に沈んだ表情。青白い顔色とあいまって三香子のその顔を思い出すたびに圭吾は後悔しそうになる自分を振り払っていた。
 三香子はまた来ると言っていたが、あれ以来三香子は現れなかった。あれだけはっきりと言ったのだからあきらめたのだろうと圭吾は思っていた。
「守田さん、来週帰るんですか」
 木下がパーテーションの向こうから顔を出した。
「こっちの新しい取引の話がまとまったからな。なに食べているんだ?」
「守田さんにもらったマーマレードですよ」
 木下が左手にコーヒーの入ったマグカップ、右手にマーマレードをのせた食べかけのパンを持っている。
「このマーマレード、最高ですね。家に持って帰ったらほとんど奥さんに食べられちゃったんですよ。だからここで食べてるんです」
 木下が食べているのは三香子が持ってきたマーマレードの2個目だったが、瓶の中身はほとんど残っていなかった。
「守田さんは食べないんですか。こんなにうまいのに、もったいない」
 圭吾はいらないというように手を振って書類に戻った。そのマーマレードがうまいのは知っている。桑原の町で最初に買ったやつは自分で食べたのだから。確かにうまかった。強い苦みと酸味がちょっと癖になるような味だった。
「あの子が作ってるって言ってましたよね。守田さんはもう桑原には行かないんですか」
 木下は三香子の言ったことを聞いていたらしい。
「どうして俺が行かなきゃならないんだ。自分で買いに行けばいいだろう」
 圭吾が不機嫌そうに言うと木下は肩をすくめて自分のデスクへ戻って行った。
 三香子の持ってきたマーマレードの瓶のラベルには製造者名と住所が書かれていて、製造者は『三香舎』となっていた。三香子の名前と関係があるのだろうとすぐにわかる名前だった。それが会社名か店の名前で、三香子はそこでマーマレード作りをしているのだろう。

 来週にはイギリスに帰る。それまでに三香子が現われなかったら。
 あの家は処分すると自分で言ったことなのに、三香子がこのまま現われなかったらと考えている。圭吾はいつもの合理的な考え方ができない自分に気がついてはいたが、昼まで仕事を続けていた。

 昼食を支社長に誘われて一緒に出かけて帰ってくると圭吾のデスクの真ん中にマーマレードが
ひと瓶置かれていた。透明な袋に入れられたそれがすぐに未開封のものだとわかった。圭吾が
ぱっと振り返って大股で飛びつくようにして今、入ってきたドアを開けると廊下に木下が立っていた。木下は手にダンボール箱とやはり未開封のマーマレードを持っていて、圭吾にわかるように
持っているマーマレードの瓶を持ち上げて見せた。
「……なんだ?」
 そう言って立ち止った圭吾に木下がにこにこしながら箱を差し出した。
「三香子ちゃんからマーマレード、もらっちゃったー」
「来たのか」
「残念でした。はい、守田さんに三香子ちゃんから宅配便」
 木下が持っていた箱を差し出した。
「俺宛の荷物なのに勝手に開けたのか」
「違いますよ。守田さんのとは別に僕にも送ってくれたんですよ。この前のお礼にって。三香子ちゃん、いい子だなあ。あ、守田さんの机の上に置いておいたのは、この前もらったお返しです」
 むかつく感情を押し殺して圭吾は宅配便の箱を受け取り、わざとらしすぎる木下に礼も言わな
かった。圭吾はそれ以上感情を顔に出さないようにしてデスクへ戻った。木下は面白がっているのか、それともおせっかいなのか、たぶん面白がっているのだろうと思った。三香子のことを「三香子ちゃん」と呼んで、明らかに圭吾がどんな反応をするのか見ているとしか思えなかった。

 宅配便の中にはマーマレードと手紙が入っていた。木下から見えないパーテーションで区切られた中で圭吾は手紙の封を開いた。

 ―― 守田さんにお願いするためにもう一度そちらに伺いたいのですが、健康上の理由で行くことができません。でも、あの家を貸していただきたいのはわたしの本当の気持ちです。どうかお願いします ――。

 健康上の理由。
 手紙に書かれたその言葉に圭吾は眉をひそめたが、それがどういうことなのか詳しくは書いてない。桑原から自転車で来た三香子は汗まみれだったが、車で送ったときは青白い顔をしていた。いったいどういうことなのか。
 手紙の最後には電話で話したいという三香子の要望と連絡先の電話番号が書かれていた。
 来週にはイギリスへ帰らなければならない。
 圭吾はじっと手をあごへあてて考えていた。視線の先にはマーマレードの瓶が置かれたままだった。
 桑原へ行くのなら今週末しかない。
 圭吾は三香子と直接話すことを選んで、週末に桑原の町へ行くことを決めた。







 この前来たときからまだ二週間も経っていないのに桑原の町はおだやかな気温でどことなく秋の気配だった。産業祭りの日は暑いくらいだったのに今日は上着を着ていてもちょうどよい。
 高架になっている駅からは近くの山が見えたが、町の中の道路へ出ると建物に遮られてすぐに見えなくなった。圭吾は大石青果店へ向かいながら産業祭りの行われていた通りを歩いていたが、あのときの混雑が嘘のように今日は人通りもほとんどなく、時折車が通り過ぎて行くばかり
だった。三香子が店を出していたところを見てみたが、そこは普通の民家で表札の苗字も違っていて三香子の家でも『三香舎』でもないらしい。圭吾は大石青果店の前まで行くと預けたままになっている鍵を受け取ろうと店の中へ入った。
「こりゃあ、守田さん」
 レジの前で総菜のパックを並べていた大石が出てきた。奥には冷蔵ケースがあって野菜だけではなく豆腐などの生鮮品も並べられていた。
「どうしたんですか」
「いえ、あの家のことで吉村さんに会いに来たのです」
「はあ、そうですか。もしかして三香子ちゃんが来て欲しいと言ったんですか」
 大石は丸い顔をちょっと傾げながら尋ねた。
「いいえ、違います。三香子さんは電話で話したいと言ったのですが、僕は来週イギリスへ帰らなければなりません。できればそれまでにと思いまして」
「守田さん」
 大石が圭吾を見た。
「あの家はあんたが相続するのだから、どうしようとあんたの勝手だ。それはわかっちゃいるんだけどね」
 大石は自分の首筋を手で撫でながら品物の並んだ台を見おろした。そこにはプラスチックの箱に並べられた菓子パンや食パンが置いてあり、横には瓶詰のマーマレードが並べられていた。三香子のマーマレードだった。
「須崎さんは言い残していたんでしょう? 三香子ちゃんの希望を聞いてあげて欲しいって。いや、もちろんそれが言っただけだって私も知っているけどね。でも、あんまり三香子ちゃんをいじめないでやってくださいよ」
 いじめているつもりなどない。圭吾はそう言いそうになったが、ひとの良さそうな大石の顔と、これまでの自分の三香子への態度もわかっていただけに言えなかった。
「あの子、守田さんが思っているような子じゃないですから。私からもお願いします」
 大石はそう言ってから圭吾に須崎の家の鍵を渡した。


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