静かに満ちる 4

静かに満ちる

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「桑原町って横浜から電車でも1時間くらいかかりますよね」
 戻ったオフィスで木下がそう言ったが圭吾は黙っていた。
「あの子、本当に電車で帰るのかな」
「そう言ったんだから、そうだろう」
「守田さん、冷たいなあ」
 木下が守田のパーテーションの内側へイスを滑らせてきた。
「あ、マーマレードじゃないですか。それ、あの子が持ってきたものですよね」
 圭吾のデスクの上には紙袋から出したものが置かれていた。
「俺、マーマレード好きなんですよね」
「じゃ、おまえにやるよ」
「いいんですか」
 マーマレードを差し出すと圭吾は立ち上がった。
「あれ、守田さん、どこ行くんですか」
「外出してくる。支社長には後で電話を入れるから」
 マーマレードを持ってにやにやしながら手を振る木下に心の中で舌打ちしながら圭吾は社用車のミニバンへと乗り込んだ。

 たぶんまだこの道路を歩いているのでは、と思いながら車を走らせると、会社の前から郊外へと延びている道が西へ向かう道路に合流したところで三香子の姿を見つけた。
「やっぱり」
 ほかに用があると言っていたが、三香子の言いかたは不自然だった。車の通行の多い道路だったが人通りはあまりなく、自転車を引きながら歩く三香子の後ろ姿はとぼとぼと歩いているようで元気なく見えた。この人はなにをしたいのか、無謀なのか、無鉄砲なのか。考えながら圭吾は三香子の前方で車を歩道に寄せると三香子が近づいてくるのを待った。
「乗っていきませんか。桑原まで送りますよ」
 三香子が立ち止り、声の主が車の中にいる圭吾だと気がつくと怒ったような顔をして動かなくなった。圭吾のほうを見てわずかに唇を噛んでいるようにも見えたが、その表情は強情というよりは叱られた子どものようですぐに三香子は目を伏せた。それではまるで自分が悪者のようで、圭吾は小さくため息をついた。
「自転車を積むからとにかく乗って。家のことは途中で話しましょう」
 車を降りて三香子の手から強引に自転車を離させると車の後部へ積み込んだ。ミニバンだったから自転車は積めたが、三香子は簡単に積み込めないかもしれないと思い、それで家のことを
言った。案の定、三香子はなにか言おうとしたが、家という言葉を聞くとしぶしぶながら圭吾が開けた助手席のドアから乗った。
「すみません」
 助手席のドアを圭吾が閉めるときに三香子が小さな声で言った。
「本当に歩いて帰るつもりだったのですか」
 しばらく運転してから尋ねたが、助手席で三香子は体を固くして座ったままなにもしゃべらなかった。じっと前を向いたままで黙っている三香子に、これじゃあ俺が誘拐でもしたみたいだと圭吾は答えない三香子の様子を見ていたが、三香子はどこか緊張しているようでやはりなにも言わな
かった。圭吾が運転をしながらちらりと見た三香子の顔はなんだか青白かった。圭吾はもうそれ以上は話しかけるのをやめて黙っていた。家のことを話すつもりだったが三香子もなにも言わない。
 三香子の圭吾に対するどことなく固い態度は自分の三香子に対する態度の裏返しなのだろうとわかっていたが、話しかける気になれなかった。弁護士から吉村三香子のことを聞いたときには胸の中に不愉快さがこみ上げてきて、相続を放棄しようかと思った。しかし放棄しなかったのは相続すれば自分がこの家を処分することができるからだった。どんな女か知らないが、父が言い残したことをやってやるつもりもなかったし、それが当然だと考えていた。母と離婚したときから父は圭吾にとって父親ではなくなった。それなのになぜ父があんなことを言い残したのか理解できなかった。

 桑原の町へ入っても三香子がなにも言わないので、三香子の家がどこか知らない圭吾は大石の八百屋の前に車を止めた。
「ありがとうございました」
 三香子が小さな声で礼を言って車を降りた。自転車を降ろすために圭吾も車を降りたところで大石が店の中から出てきていた。
「三香子ちゃん、あんた、車で送ってもらったのか?」
 大石が驚いたように三香子に近寄って三香子がうなずいた。
「自転車が、パンクしてしまって。それで」
「大丈夫だったかい?」
 大石のひどく心配そうな様子に自転車を降ろしてふたりのそばに行った圭吾はなぜかしらむかついた。三香子が車に酔ってしまったのだろうかと思ったが、酔わせるような運転はしていない。気分が悪かったのならそう言えばいいのに、三香子はなにも言わなかった。
「三香子ちゃん」
「大丈夫です」
 心配する大石に三香子が無理に明るい顔をしたようだった。圭吾には向けられていない、三香子の笑顔だった。

「ありがとうございました」
 圭吾に向き直りもう一度礼を言った三香子の顔は生真面目な顔に戻っていた。圭吾が運転席のドアを開けると三香子が近づいた。
「守田さん、須崎さんの家のこと、考えてください。お願いします」
 ドアに手をかけたまま圭吾が答えた。
「考えるまでもありません。あの家は処分します。そう言ったはずです」


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