静かに満ちる 3

静かに満ちる

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 横浜のビルにあるオフィスで圭吾はロンドンから送られてきた情報をチェックしていた。ロンドンにある貿易会社の本社で圭吾は日本との取引を担当しており、取引先のいくつかが東京や横浜に
あった。
「守田さん、お客ですよ」
 となりのデスクの社員がノックして入って来た。この会社では外へ出ない社員はラフな服装でいることが認められているので、木下という圭吾よりも年下の社員も黒い半袖のポロシャツにジーンズ姿だった。圭吾がパーテーションで囲まれたデスクから椅子に座ったまま振り返ると木下が指で下だというしぐさをした。
「客?」
 約束もしていなかったし、心当たりはなかった。
「誰」
「僕が知りませんよ。でもロンドンの守田さんってご指名ですよ。若い女性ですけどね。じゃ、よろしく」
 ここにいる社員たちは圭吾のいる会社の日本支社の社員であり、貿易会社という仕事柄、英語が話せるだけではなく外国で暮らした経験を持つ者が多く、木下もアメリカの大学出身だった。そのせいか誰にでも気軽に話をしてくる。ちょうど昼になっていたので圭吾は立ち上がって一階へ向かった。
「あなたは」
 ビルの入り口を入ったところに立っている女性を見たときにはわかっていた。あの桑原で会った吉村三香子という女性だった。
「すみません。突然に。でもあの家のこと、どうしても聞いていただきたくて」
 圭吾を見上げた三香子の顔が赤くなっていた。汗を拭いたばかりといった感じで、前髪のかかるこめかみのあたりやポニーテールよりも低い位置で髪の毛をひとつに括って見えている首筋に髪の毛が汗で濡れて張り付いていた。手にハンドタオルを持っている三香子を見て、今日は天気は良かったがそんなに汗をかくほどの気温ではないのにと圭吾は思った。
「あ、すみません。みっともなくて」
 圭吾はまるで運動でもした後のような三香子の様子に引っかかったが、立ち話のままで話を続けた。
「今日はどういうご用件でしょうか」
「あの、この前言われていたこと、考え直してもらえないでしょうか」
「この前?」
 あの家のことだとわかっていたが、わざととぼけた。
「須崎さんの家を処分するっていうことです。売ってしまうんですか」
 そう言った三香子の表情はどこか必死だった。三香子の着ているものは長袖のシャツに綿のズボンで、汗だらけのまるで田舎っぽい小娘だった。
「金なら渡します」
「どうしてお金のことを言うんですか」
 三香子がむっとした顔をして言い返した。その顔もまるで少女のようだった。
「わからないな。どうしてあの家にこだわるのですか。なにか父との大切な思い出でも?」
「それもあります」
 むっとするのは圭吾のほうだった。しかしそれは三香子には悟られないように作り笑いを浮かべた。
「僕には思い出などありませんね。あなたはいったいどうしたいというのですか」
 三香子が真っ直ぐに圭吾を見ると、思いきったように言った。
「わたしにあの家を貸してください」
「貸す?」
「わたしには売っていただけるほどの資金はありません。だけどあそこがわたしにはどうしても必要なんです。あの家の庭に夏みかんの木があるんです」
「は?」
「この前、売っていたのはその夏みかんから作ったマーマレードです。わたし、それを作るのを仕事にしているんです。だからお願いします」

 そういえばあの桑原という町はミカン畑がある土地だった。三香子が夏みかんのマーマレード作りをしている。けれども圭吾にはそれが三香子があの家にこだわる理由には思えなかった。
「では夏みかんの木があるというだけであの家を借りたいというのですか。夏みかんだったら桑原では簡単に手に入るように思えますが」
 ミカンの栽培が行われている地域なら夏みかんもあるはずだ。そう思って圭吾は言ったのだが、三香子は首を振った。
「あそこの夏みかんでないとだめなんです。どうかお願いします」
「守田さん、ちょっと失礼します」
 声がして守田の後ろに木下が来ていた。
「駐車場にある自転車はこちらの人のですか。すみませんが、ほかの者が車を出したいので移動させますが、いいですか」
「あ、すみません、勝手に止めて。動かします」
 三香子がビルの入口へ行こうとしたが木下が止めた。
「いいですよ。僕が移動させますから。でも、あの自転車パンクしているようですよ。あれに乗って来られたんですか」
「えっ、パンク? でも、ここへ来るまではなんとも」
 驚いた三香子の顔を見て圭吾が尋ねた。
「桑原から自転車で来たのですか」
「……そうですけど」
 圭吾のとなりで木下がへえと驚いた顔をしたので、それに気がついた三香子がちらっと困ったような顔をした。
「それよりもあの家を貸してくださること、お願いできますでしょうか」
「すぐには答えられません」
「どうかお願いします。許してくださるまで、わたし何度でもお願いに来るつもりですから」
「しつこいですね」
 圭吾がそう言うと三香子がちょっとうつむいた。ずけずけ言っているわりに恥じて見せたりして、日本の女がやることはわからないと圭吾は冷ややかに見つめていた。
「すみません。でも本当にあの家を貸してもらいたいんです。あ、それから、これ」
 圭吾の手に手下げの紙袋が押しつけられた。
「この前は買っていただいてありがとうございました。これ、よかったら食べてください。お仕事中にすみませんでした。では」
 三香子が行ってしまったが、木下が圭吾を見ていた。押しつけられたときに紙袋の中に透明な袋に入れられたマーマレードの瓶が見えた。べつに食べ物をもらって懐柔されたつもりはなかったがしかたなく紙袋を持ったままビルを出た。 三香子が駐車場で自転車にかがみこんでいたが、見るとロードバイクでもなんでもないごく普通の自転車だった。
「あー、これは直さないと乗れないんじゃないかなあ」
 気さくな木下がそう言って三香子と一緒に自転車のタイヤをのぞき込んだ。
「この近くに自転車屋なんてないですよ。それにこの自転車って、どこにでも売っている安いやつでしょ。こういうのって直すよりも買ったほうが早いと思うよ」
「電車で帰られたらどうですか」
 圭吾はそう言ったのだが、三香子は頑固な感じで首を振った。
「いいです。この自転車引いて歩いて帰りますから」
 三香子が持っていたバッグを自転車のかごに入れながら言ったので木下がまた驚いたような顔で圭吾を見た。
「まさか桑原まで?」
 圭吾がそう尋ねると三香子は少し顔をそむけた。
 ここから桑原まで電車で一時間以上かかる。そもそもこんな自転車で来ること自体が信じられなかったが、歩いて帰るのにはもっと無理がある。
「電車の駅までお送りしますよ」
 木下の見ている手前、圭吾はそう言ったのだが。
「いいえ! いいです。わたし、本当に!」
 強い口調だった。木下があきれたように三香子と、そして圭吾を見たのに気がついて三香子は慌てたように言い直した。
「すみません、他所に寄る用事があるものですから、そのあとで電車で帰ります。失礼します」
 そう言った三香子はやはり圭吾の目を見ていなかった。


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