静かに満ちる 2

静かに満ちる

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「守田さん」
 八百屋の主人の声に庭を見ていた圭吾は振り返った。八百屋の主人とその後ろに若い女性がついてきていた。
「こちらが守田さんだよ」
 八百屋の主人にそう言われて女性が立ち止った。赤いバンダナの三角巾にエプロンをしている。少し驚いたようなその顔は祭りでマーマレードを売っていた女性だった。
「あの、初めまして。さっきはありがとうございました」
 そう言って女性が頭を下げた。
「いいえ」
 素っ気なく答えて圭吾は視線を外した。先ほどまで見ていた庭のほうを向いたが、庭を見ているわけではなかった。父の若いころからの友人でもあるという弁護士から聞かされた吉村三香子という女性がこんな若い女だとは思っていなかった。三香子は自分と同じくらいか年下かもしれないと思われるような感じだった。弁護士は三香子の年齢を言わなかったが、圭吾は父と同じくらいの年代だろうと思い込んでいた。
「あの」
 三香子の少し困ったような声に八百屋の大石の声が続いた。
「ここじゃなんだから家の中へ入ってもらったら。三香子ちゃん、先に窓を開けてよ」
「はい」
 三香子がすっと圭吾の脇を抜けて玄関の中へ入った。靴を脱ぎ奥へ入っていく。戸惑うこともなく入っていく三香子の後ろ姿を圭吾はじっと見ていたが、それを八百屋の大石が見ていた。
「私が忙しいもんでね、お父さんが亡くなられた後の掃除や庭の手入れなんかを三香子ちゃんに頼んであったんですよ」
 父の亡くなった後、住む人のいなくなったこの家のことは大石という人に頼んであると弁護士から聞いていたが、実際は三香子が手伝っていたらしい。それを聞いて圭吾はなんとなく不愉快な気分を抑えられなかったが、大石に促されて家の中へ入った。
 居間らしき畳敷きの部屋の窓が開けられて網戸になっていて、中央に座卓があり座布団が二枚置いてあった。小さな棚がひとつあるほかは物がなく、きれいに片づけられていた。ここが父の暮らした部屋だったのだろうが、古びた畳の部屋は圭吾にはなにもないとしか感じられなかった。三香子が奥の部屋の窓を開けているらしく音がしていたが、すぐに戻ってきた。
「さっきは失礼しました。吉村三香子です。お父様には大変お世話になりました。ありがとうございました」
 三香子が正座をして畳に手をついて頭を下げ、若いのにきちんとした挨拶をした。丁寧過ぎると感じるほどの挨拶だったが、圭吾は座布団の上であぐらをかいて座っていた。大学からずっと外国暮らしで正座が苦手になっていて、できれば座りたくなかった。
「守田さんはここは初めてでしょう。こんな田舎でなんもありませんが、今日だけはにぎやかなんですわ」
 三香子の挨拶になにも答えない圭吾に大石が取りなすように言った。三香子のそばに座った大石もどっかりとあぐらをかいている。
「すみませんが、用件だけにしましょう。僕もあまり日本には長くいないので」
「イギリスですか。守田さんが住んでいるのは。ずっとですか」
「ええ。出張で日本に来ているだけなので。この家のことは早く決めてしまいたいので、手短にお願いします」
 大石に向かって圭吾は言った。三香子は正座したままじっと聞いていたが、圭吾は三香子に向かって話していない。
「弁護士は父の言葉を伝えてきました。自分が死んだら吉村三香子という女性の願いをかなえてやって欲しい、と言っていたそうですが。吉村さん」
 やっと圭吾が三香子を見た。
「あなたの願い、というのはいったいどういうことでしょうか。父に関わることでしょうか。それとも財産とか」
 三香子がちょっと困ったような表情を浮かべた。
「財産と言われたらそうなのかもしれません。お気にさわりましたでしょうか」
「聞いてみないとわかりません」
 圭吾の口調は事務的だった。三香子が目を伏せた。
「わたし、お父様が生きておいでのときに約束をしました。お父様はご自分が亡くなったらこの家を使ってよいとわたしに言ってくださいました」
「それは、この家をあなたに譲ると、そういうことですか」
「いえ、譲るのではなくて、使っていいと。建物も庭も使っていいと」
「使っていい。それはあなたが住むということですか」
「そうなるかもしれません。でも、ただ住むんじゃなくて、庭にある夏みかんをわたしにくださるって
言ってくださって」
「夏みかん? 要するに庭木も含めて土地と家をあなたへ譲るということなのですか」
「いえ、そうじゃなくて」
「言っていることがよくわからないが」
 圭吾は立ち上がった。
「父は生前ここが気に入っていたのでしょう。ですが僕はこれからも日本に住むつもりはないし、こんな古い家を持っていてもしかたがない。父の遺言は正式なものではなく弁護士に言っただけだ。相続人は僕だけなので僕がしたいようにします。ここは処分させてもらう。今日はそのことを伝えに来たのです」
「ちょっと待ってください」
 三香子も立ち上がった。
「もう少し話を聞いていただけませんか。わたしは」
「失礼だが」
 かなり背の高い圭吾が三香子を見おろしていた。圭吾の表情は変わらなかったが三香子に対しては冷たい視線だった。
「あなたにはお礼というかたちで現金を渡してもいい。それで納得してもらえませんか」
「お礼? 現金?」
 三香子がぽかんとした顔をしたが、すぐに表情が変わった。
「どうしてわたしがお金を受け取らなければならないんですか」
「父がお世話になった礼です」
 苛立ってくる心を抑えて圭吾は平静に言った。言ったつもりだった。

 弁護士は父の言い残した言葉を圭吾に伝えてきたときに、どうやら家のことのようですよ、と言っていた。あなたのお父さんはあの家を吉村三香子という人に譲るつもりだったようですよ。残念ながら私も詳しい話を聞いていなかったが、お父さんが亡くなる前の最期に言い残したことです。話だけでも聞いてあげたらどうでしょうか、と。
 ここへ来るまではこの家が欲しいというのなら譲ってやってもいいと思っていた。こんな家、持っていても面倒なだけだろう。でも……。
 圭吾には自分でも腹立たしく感じる理由がわからなかった。歩いて駅まで戻って電車へ乗ったが、いらいらとした気持ちが続いていた。




「なんだか怒っていたみたいだねえ、あの人」
 圭吾が帰ってしまったあとで大石が圭吾の父の家を出ながら三香子に話しかけていた。
「須崎さんとはぜんぜん似てないね。まあ親子といっても性格まで似るわけではないけどさ。須崎さんは穏やかで優しい人だったから」
「そうですね」
 須崎亮輔が圭吾の父親だった。
「なあ、三香子ちゃん、もしかして、あの人」
「はい?」
 大石が言いかけたので三香子は立ち止って振り向いたのだが、八百屋のおやじはすぐに打ち消すように手を振った。
「あ、いや。須崎さんは息子さんがいるなんてひと言も言ってなかったし、奥さんとはだいぶ前に離婚していたそうだから、息子といってもあの人とは縁が切れていたんじゃないのかな。ずっとロンドンで仕事をしているって言ってたし。まあ、この家のことはまたあとで話そう」
「わたし、家のことを話したかったのにどうしてか、ぜんぜん話させてもらえなかった。大事なことだからもっとしっかり話せばよかった。駅まで行ってみようかな。守田さん、まだ駅にいるかも」
「でも、祭りの店はまだ終わってないんだろ?」
「そうですけど……」
 大石は三香子の心配を打ち消すようにパンパンと手を叩いた。
「弁護士さんが守田さんの勤務先を知っているはずだよ。弁護士さんの電話番号教えてあげるから連絡してみたら」
「はい。とにかくもう一度守田さんにわたしの話を聞いてもらわないと、ですね。区長さん、お手数かけて申し訳ありません。じゃあわたし、お祭りのお店に戻りますので」
 三香子が頭を下げて礼を言い、大石も自分の店へ戻った。


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