静かに満ちる 1

静かに満ちる

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 なんだかとんでもない日に来てしまったと汗のにじんだ額を押さえて圭吾は街並みの日陰になっているところへ入った。10月だというのに晴れ渡った良い天気で、おまけにこの通りには大勢の人が歩いていた。道の両側には屋台のような店が並び、食べ物や地元の名産品を売る店の前では人々が行列を作っている。 今日がこの桑原という町の産業祭りなのだということは電車を降りてから駅に貼ってあったポスターで知ったのだが、関係ないだろうと思いながら歩いてきた圭吾の目的地がまさにその産業祭りの会場だった。車がやっとすれ違えるくらいのあまり道幅の広くない道路を通行止めにして沿道にさまざまな店が並んでいた。 たったそれだけなのに驚くほど人が多くて、ところどころでは前に進むこともできないくらい混み合っていた。圭吾は日陰に立って上着を脱ぎながら日本の10月はこんなに暑かっただろうかと考えていた。黒紺のスーツにストライプのワイシャツでネクタイはしていなかったが、暑くて汗が噴き出していた。 用件を済ますために来ただけだというのに、こんなに暑いとは。それにしてもこの人出はなんなんだと、すでに圭吾は暑さと人の多さに嫌気がさしていた。

 この通りで八百屋はうちしかないからと言われて来てみたのだが、人が多すぎて見通しも効かず、圭吾が訪ねようとしている八百屋がどこかわからなかった。スーパーじゃなくて八百屋だよ、と八百屋のおやじは言っていたが。
「すみません」
 圭吾は自分の立っているすぐそばに出されていた店の店員に声をかけた。
「はい、いらっしゃいませ」
 返事をしながら赤いチェックのクロスをかけたテーブルを並べた店の女性が食パンを小さく切ったものに黄色いジャムらしきものを少しずつのせている。手早くそれらを並べると皿を差し出しながら女性が顔を上げた。
「ご試食、いかがですか」
「あ、いや、ちょっと聞きたいのですが」
「おねえさん、ひとつもらうよ」
「はい、どうぞ」
 圭吾の横からひとりのおばさんが試食に手を伸ばしてきた。圭吾の見ている前で店の女性が愛想よく皿を差し出す。パンに乗せられているのはマーマレードで、手作りと書かれた紙がテーブルの端に貼ってあるのが見えた。手作り夏みかんマーマレードと書いてある。
「このへんで八百屋はありますか」
「これ、ちょうだい」
「はい、五百円です。あ、すみません、なんですか」
 店の女性がおばさんに商品を渡しながら聞き返してきた。忙しそうな様子に他で尋ねようかと
思ったが、どこも混んでいるように思えて圭吾はもう一度尋ねた。
「この近くに八百屋はありますか。大石青果店という」
「八百屋さんならこの先にありますよ。あそこの白い建物のとなりです」
 そう言って女性が通りの先を指差した。赤いバンダナを三角巾にしている頭が指差した方向から振り返って圭吾を見た。
「そうですか。ありがとう」
「お客様もいかがですか」
 女性ににっこりとされてまた試食の皿を差し出された。食パンの上で濃い黄色のマーマレードが光っている。
「いや、買わないから」
「ご試食だけでもいいんですよ。どうぞ食べてみてください」
 もう面倒だという気持ちでしかたなく一切れパンをつまんで口へ放り込んだ。食べるだけでいいだろうと。口の中に夏みかんの香りがぱっと広がり、ほろ苦く酸味の強い味が広がった。

 こんな味だったな……。
 子どもの頃に食べたことのある味を圭吾は思い出していた。マーマレードだったがオレンジとも
ミカンとも違う夏みかんの味だった。圭吾はマーマレードやジャムの類はあまり食べないのだが、このマーマレードがスーパーマーケットで売られている物やホテルの朝食で出される物とは違うということが圭吾にもわかった。 イギリスの物とも全然違う。口の中に残る夏みかん特有の苦みと甘みにトーストで食べてみたいと思った。今日は用事を済ますためにこの町へ来ていたから買い物をするつもりはなかったが気が変わった。
「ひとつ下さい」
「はい、ありがとうございます」
 女性が瓶詰のマーマレードを白いビニール袋へ入れてくれたのを受け取り、八百屋を教えて
もらった礼代わりにちょっと片手を上げてから店の前を離れて歩き出した。

「はい、らっしゃい!」
 八百屋の主人ではなく奥さんかパートの従業員か、そんな人に元気よく言われて圭吾はやはりここは田舎の小さな町なんだと思った。今どきスーパーマーケットではない青果店が、それもたいして大きくないこんな店が商売をしているとは。そう思わずにはいられなかった。 そうは思ったが沿道に出された屋台のような店とは違ってちゃんとした店舗の八百屋で、店の前には産業祭りの客が大勢歩いていたが、そのときは店には客はいなかった。
「守田ですが、大石さんはいますか」
「区長さん?」
 聞き返されて圭吾はそうだと答えた。八百屋の主人がこの地区の区長という、いわば町内会長をやっているのだと聞いていた。従業員に呼ばれて八百屋の主人が奥から出てきた。すぐに圭吾だということがわかったようだった。
「守田さんですか。わざわざすみませんね。ここがすぐにわかりましたか」
「いいえ、混んでいたので」
「そうでしょう。今日は年に一度の産業祭りなんですわ」
 八百屋の主人が店から外へ出たので圭吾も続いて出た。八百屋の主人が一緒に歩いていく。人の多く歩いている道から曲がって脇道へ入るとその先にある生垣のある家が圭吾の父が住んでいた家だった。
 鍵を預かっているという八百屋の主人が玄関を開けてくれたが、圭吾は開けられた玄関の中を見ただけで家の中へは入らなかった。ここは圭吾の父の家で、圭吾の家ではなかった。圭吾の母と別れた後で父が住んだ家で、圭吾はこの家に来たのも初めてだった。
「入ってもしかたないでしょう」
 圭吾がそう言ったので家に入ろうとしていた八百屋の主人が玄関から出てきた。
「弁護士から話を聞いていますので、相手のかたを呼んでもらえませんか。近くに住んでいるそうですね」
「そうですか。じゃあ、ちょっと待っていてもらえますか。呼んできますんで」
 八百屋の主人が出て行くのを圭吾は玄関の前の庭になったところでマーマレードの入った袋をぶら下げながら見ていた。道と生垣で隔てられた庭には低木が植えられおり、たいして広くない庭だったが地面には飛び石が置かれていた。庭に面した廊下のある古い家は平屋で、家の裏側には背の高い木が何本か見えていた。 家はしっかりとした作りらしかったが、古くて、まさに昔の家だった。父がこの家を買って移り住んだのは圭吾が大学生のときだったが、イギリスの大学にいた圭吾はもうそのときは母と別れていた父がどこに住もうと関心はなかった。父があまり体の具合が良くなくて東京での仕事を辞めてここに住むことにしたということも聞いてはいたが、その後の父がここでどんな暮らしをしていたか圭吾は知らなかった。 母も再婚して今は関西に住んでいる。圭吾自身も大学を卒業した後はイギリスの貿易会社で働き、仕事で日本へ来ることはあっても父とも母とも会うことはなかった。半年前に父が亡くなって弁護士から連絡があるまで父のことはほとんど思いださなかった。


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