いつかの海辺で 4
   
   
    
    いつかの海辺で
   
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 漣は緒都のアパートの前で待っていた。緒都が帰ってくるのを。 
 しかし緒都は帰ってはこなかった。共通の友人もいない、緒都の所属する劇団すらも知らなかった漣は探しようがなかった。そういえば緒都は劇団に所属していることも漣には話していない。
携帯電話だけが空しくコールされたが、緒都が電話に出ることはなかった。メールにさえ何の返事もなかった。漣がいらいらしながら一週間を過ごしたその後の金曜日の午後、緒都からメールが届いた。 
「これから伊豆へ行きます」 
 
 金曜日なのを幸いに仕事を終えると漣は車に飛び乗って伊豆へ向かった。やっと緒都に会える。 
 漣が別荘へ着いたのはもう夜中だったがそれでも吉田さんたちは食事の支度をして待っていてくれた。しかし緒都の姿はなかった。吉田さんのところへも来ていないという。 
 いったいどうしたんだ。伊豆に来ているんじゃないのか。今夜別荘へ着くことを彼女にメールしておいたのに。 
「漣さん、緒都がなにか?」 
 吉田さんが心配して聞いてきたが漣はあいまいにごまかした。 
 緒都はいったいどこにいるんだろう。 
 
 十月の月が出ていた。 
 さっき、吉田のおかあさんが「今日は満月だんて(だから)」と言ってススキや他の花を花瓶に活けたものを居間に置いていた。 
 むら雲がだんだんと晴れて行く。もう秋だ。夜遅くの満月は空高くで白く輝いている。漣は思い立って浜へ降りて行った。 
 誰かいる。近づくと月明かりでわかった。緒都だ。砂に腰をおろして空を見ている。漣が近付くのに気が付いているはずなのに振り向こうともしない。 
「何してるの」 
「お月見」 
 漣は緒都のとなりへ腰をおろした。 
「この前、東京で会ったよね」 
「うん」 
「仕事?」 
「そう……あれが私の仕事なの」 
「ふうん……」 
「驚いた?」 
 緒都が漣のほうを向いた。 
「辞めたら?」 
「もう半分辞めている。この前は頼まれて仕方なく」 
「じゃあ、もう辞めるんだ」 
 はっきり言ったので緒都は驚いたふうだった。 
「あなたにそんなふうに言われる理由はないわ」 
「緒都!」 
 漣が思わず叫んでしまう。 
「あんな、あんな踊りをして、客たちにああやって見せているなんて、君がそんなことをしているなんて我慢できない!」 
「あんな踊り? そんなこと?」 
 緒都の瞳がひらめいた。 
「そんな言い方しないで。べつに変なことをしているわけじゃないわ」 
「だけど……君が客に誘われることだってあるだろう。そうなったら……」 
「もちろんあるわよ。仕方ないじゃない。ときにはお酒をつきあうこともあるけれど、あなたが考えているようなことはしない」 
 緒都は砂を払って立ちあがった。 
「私は仕事として踊っているのよ!」 
「……でも君は失業中だって」 
「いくら踊りが好きでも、やっぱりああいうところでは若さが求められるの。私はもう三十を超えている。芸術ならともかく鑑賞用のダンサーとしては歳をくっているのよ。だから」 
 緒都の声が完全に怒っていた。そのまま漣を浜へ残して緒都は行ってしまった。 
 
 翌日東京に戻らなければならない漣はとうとう緒都を見つけることができなかった。吉田さんに聞いても知らないと言う。吉田のお母さんは怪訝な顔で漣を見ていたが何も言わなかった。 
「当分は来られないけれど元気にやってよ。じゃあ」 
「漣さん、伊勢えびが獲れたら送りますんて」 
「うん、楽しみにしてるよ。ありがとう」 
 吉田さん夫婦に手を振られて別荘を後にした。細い道にスピードを出さずに眼下に別荘の浜を見てその先の崖の上へ続く道へ出ると人が立っていた。緒都だ。 
「緒都!」 
「お店の人にも聞かれたんだけど」 
 車から出てきた漣に緒都は話しの続きのように言う。 
「あなたは大きな会社の跡継ぎなんでしょ。育ちが良くって、そうよね、こんな別荘の持ち主だもの。それを知っていたのに意識していなかったわたしがばかだわ。わたしが踊っているのを見て飛び出していっちゃうほどショックだった? ごめんね、傷つけて」 
 漣に対して謝っているのに緒都の言い方も声も冷たかった。 
「軽蔑したでしょ。あんな仕事で。あなたが飛び出すのはむりもないわ。だから気にしないで」 
「緒都……僕は」 
 緒都は完全に漣を年下扱いしている。世間知らずの、ぬくぬく育ったお坊ちゃん扱いに。 
「あなたのことは気楽なセックスフレンドだと考えたらいい? 相性は悪くないと思うけど」 
「お願いだから黙ってくれ……」 
 漣が苦しそうに言うと緒都は笑った。その笑いはどういう意味だ? 
「そう、じゃあ」 
 緒都は振り返りもせず集落へと戻る道を駆け下りて行ってしまった。 
 
 酒を飲む気にもなれなかった。緒都は劇団の稽古場にいた。 
 もう誰もこない稽古場に。あと数日で今月の賃貸契約が切れればもうこの稽古場も消えると劇団のボスが言っていた。緒都もここのカギを返さなければならない。誰もいない稽古場で緒都はステップを踏みながら泣いていた。いつまでも。 
 
 とにかく働かなきゃと思って以前も働いていたことのある和食の店でバイトを始めた緒都は夜遅く帰ってきた。忙しい飲食店で働くのはさすがに疲れる。忙しい店だからバイトにありつけたのだが。 
 あれから漣からは何もいってこない。あんな言い方をすれば当然だろう。所詮生活の違い過ぎるふたり……。 
 漣のことを考え出すと緒都は自分がひどく落ち込んでしまうのがわかっていたのでもう何も考えないようにしていた。毎日働いて疲れて帰ってきて眠るだけ。ぜんぜん漣と会う以前と変わらないわ……。緒都は無理にそう思うことにして夜道を歩いていた。やっとアパートへ着く。 
 
 緒都のアパートの前。誰かいる。 
 警戒が驚きに変わる。 
「漣さん……」 
 漣の前に緒都が立つと背の高い彼が緒都を見下ろしている。 
「この前はごめん。あやまりたくて君のこと待っていた」 
「もう遅い時間よ」 
 緒都ははぐらかそうとしている。 
「好きなんだ」 
「そうなの?」 
 なぜそんな言い方をするのか漣のほうが聞きたいくらいだ。 
「君が好きだ。何回言ったらわかってもらえるかな。でも何回言ってもいいけど僕は君のひと言が聞きたい。僕が好きだとなぜ言ってくれない?」 
 緒都がちょっと笑った。 
「わたしがバツイチだって知っているでしょう。親もいないし。それにクラブのダンサーだし」 
「緒都!」 
「楽しく付き合う友達? それでもいいわよ、わたしは」 
「遊びなんかじゃない!」 
 それでもいいと言った時の緒都の大人な表情。ふだん感じない緒都の隠れた面にはっとさせられる。しかし漣はそんな彼女の大人な態度を突き崩すように緒都の体を引き寄せた。 
「どうしたら僕の気持ちをわかってもらえる……?」 
 じっと彼女を抱きしめたまま。 
 もがくようにしていた緒都の体がだんだんと静かになった。 
「ごめん……あなたが遊びじゃないってわかってる……本気だよね。わたしも……」 
 つぶやくような緒都の声。最後まで言い終わらない緒都の唇を漣がキスでふさいだ。 
 
「漣……」 
 彼女の声が小さく聞こえる。漣、漣と……。 
 漣は緒都の部屋へ入りながらネクタイを引き抜き、上着を脱ぎ棄ててズボンのベルトをはずす。緒都のつぶやきには答えずに彼女の着ていた服を脱がし無造作に床へ落としていった。
着ていたものを脱ぎ散らしながらベッドへ着くころにはふたりとも裸でキスを続ける。 
 ベッドの上にふたりとも膝をついていた。下から入った漣の指が緒都の体を突き上げる。
緒都は漣の首に両腕を回してその頭を胸に抱え込むと漣が緒都の乳首を口に含んで吸い上げる。まるで赤ん坊のように。しかし漣の指は繰り返し緒都の潤いを絡め尽くす。 
「ああ、もうだめ……」 
 緒都がたまらず言うと漣は緒都を横にならせて自分の体を重ねていく。
熱い漣の体が熱い緒都の体へ入っていく。まるで熱で溶け込んでいくように。 
 
 ふたりはやっと満ち足りてお互いの足をからめて眠りについた。 
 目覚めてもこのままでありますように。そんな願いを込めて漣の腕は緒都の胴へまわされたままだった。 
 
 漣が目覚めると緒都がとなりで眠っていて漣はうれしくなった。そっと薄い掛け布団をめくる。 
 うつぶせに眠る緒都は陽に焼けたすべすべの肌。引き締まった背中から尻、すんなり伸びた両足。まるで少年のようだったがかわいい尻は確かに女性のものだった。それにショートカットで隠すもののない首筋から背中へのライン。うつぶせの胸の下に乳房のふくらみがうかがえる。こちらは充分に大人の女のものだ。 
「きれいだ」 
 無防備に眠る緒都の背中に漣はがまんしきれずに口づけした。気がついて緒都が目覚める。くすぐったかったのだろう、寝返りをうつ。 
「ひゃっ」 
 今度は胸が丸見えでしかも漣がすかさずその乳首にキスをする。 
「あ……ん、漣ったら」 
「おはよう、緒都」 
 
 もうそれから漣は緒都のアパートから帰らなかった。翌日、緒都のアパートから会社へ出社すると帰りは買い物をしてまた緒都のアパートへ戻ってきてしまった。買い物してきたのは着替えや日用品でそれらを袋から出してみせる漣に緒都はあきれて言った。 
「それじゃあ、いい歳して家出になっちゃうわよ」 
「いいさ。会社へはちゃんと行ってるんだから」 
 たぶんそのうち家からなにか言ってくるだろう。会社には毎日行っているのだから逃げも隠れもしないが緒都のアパートにいることなど調べればすぐにわかるはずだ。 
「スーツはどうするの」 
「一着か二着買うからいい。そんな心配しなくていいよ。それとも僕がいたら迷惑? 家賃や食費だって払うよ」 
 緒都が首を振った。 
「そういうことじゃなくて」 
「もう言うな」 
 漣は緒都の唇へ指をあてた。 
「君のところへ帰ってきたのにこんな話をしてもう腹ペコだよ。夕飯は食べさせてもらえないの?」 
「あ、ごめん」 
 そう言いながら緒都は狭いキッチンに立って支度をしてくれた。ドライカレーやエッグサラダ。 
「毎日贅沢はできないわよ」 
「おいいしいからぜんぜんかまわない」 
 漣が頬ばりながら言うと 
「これじゃあ食事の支度が必要な居候が来たみたい……」 
 と緒都がぶつぶつ言いながらそれでも漣の買ってきた歯ブラシやシェーバーを洗面台へ並べてくれた。 
「緒都」 
 キッチンへ戻った緒都に漣の腕が後ろからまわされた。 
「ん?」 
「もうクラブでの仕事は辞めてくれ。僕の勝手な言い方かもしれないけれど、一緒にいるんだから生活費くらい僕が払う。頼むから」 
「…………」 
「それでも踊りたい?」 
「……クラブで踊りたいわけじゃないの。クラブも食べ物屋さんもみんなアルバイトよ。わたし本業は女優なの」 
 漣は知っていたがそのまま黙って聞いていた。 
「小さい劇団に所属しているの。そこでミュージカルまがいのものとか、いろいろ。踊るの好きだから。でも舞台だけじゃとても食べていけないから、ずっとアルバイトしている。食べ物屋さんだけじゃない、いろいろ働いたわ。吉田博之さんともバイト先で知り合ったの」 
 それで緒都は結婚したのか……。 
「じゃあ、女優に専念したらいい」 
「失業中、って言ったでしょ。もう劇団はつぶれているのと同じなの。だから伊豆で仕事を探していたんだけど。このまま女優を続けられるほど私は根性ないし……」 
「そうか……でも君がまだ東京にいてくれてよかったよ。でないと僕は毎日伊豆から会社へ通うことになった」 
 漣なら本当にそうしそうだ。緒都はそう思って思わず笑った。すかさず漣の唇がキスしてくる。 
「カレー臭いキスねえ」 
 緒都がわざと顔をしかめて言うと漣はぴゅっと洗面台へ飛んでいった。 
「ついでにシャワーを浴びちゃうよ」  むこうから叫んでいる。 
 
 緒都の体を抱いて眠りにつく。それはいままで漣の知らない幸せだった。 
 緒都は漣の恋人だけれども友達でもあった。両親ともすでになく、自立して久しい緒都は今さら漣に生活のあれこれを言うことはないし、転がりこんだ漣も気楽な性格だ。漣が一緒なら緒都も安心して暮らせる。緒都のアパートは手狭だったけれどふたりくっついて生活する分には問題はない。
ベッドだけはダブルに変えたが。 
 しかし、そんなふたりの穏やかな日々も長く続かないかもしれないという予感は確かに漣にはあった。それを緒都には言えなかったが。 
 
     
   
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