副社長とわたし 36
副社長とわたし
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『瑞穂、お願いだからドアを開けて』
「嫌です」
夕方、仕事の終了時間ぴったりに孝一郎さんが営業所のドアをノックしたけれどわたしは開けなかった。このまま営業所に籠城してもいいと思っていた。
『じゃあ、そのまま聞いて』
携帯電話から聞こえてきたのはかすかなため息の音だった。その音についわたしが黙りこむと、ややあってから孝一郎さんは話しだした。
『僕の母が結婚前に三光製薬にいたことは知っているだろう?』
…………
『父はその頃、まだ三光製薬へ入ったばかりだったけれど、今の僕がそうであるように父が社長の息子だということはみんな知っていた。父はあのとおりの人だから母を口説くのにまわりも気にかけずかなり強引なことをしたらしい。だから、すぐにまわりの社員たちに知れ渡ってしまって母はとても苦労したそうだ』
…………
『ねたみ、やっかみ……、相当陰湿なこともされたらしい。母は参ってしまって病気のようになってしまったそうだ。父の両親にも結婚を反対されていたこともあって父とのことはすべて白紙に戻して会社を辞めてしまった。母は父のことも怒っていたのだろう。傍若無人な父のせいでもあるのだからね。でも、あの父がそれで収まるはずがなかった。母を連れ出すと三光製薬のビルの屋上で、母と飛び降りると言ったんだ』
お父さんが……。あのお母さんが。
『でも、飛び降りなかった。最後に父を説得したのは母だった。どんなに参っていたとしても母にはそういうところがある。あの父が惚れた母ならね。そして父も母の説得だから応じた。そうすることでまわりに母との結婚を納得させた。だから以前から母は僕の結婚相手については僕の望む人で良いと言っていた。両親が僕たちの結婚をすんなり認めたのはそういうわけもあったんだよ』
『瑞穂』
孝一郎さんの声がこもった。
『僕たちのことが社内に知られてしまったら、瑞穂にも母と同じようになにかを言われたり嫌な思いをすることがあるかもしれないと思っていた。だから瑞穂が内緒にしておきたかった気持ちもわかる。でも、いつまでも秘密にはしておけないだろう。だから早く、婚約だけでも急いだんだ。親にも認めてもらった婚約者なのだということが、それが少しでも瑞穂を守ってくれたらと。
でも瑞穂はそんな僕のあげたお守りさえ使おうとしなかった』
……お守り。
「だって……」
仕事とプライベートは別。そう思わないとわたし、やっていけそうになかった。だって孝一郎さんは……。
『僕は瑞穂に出会ってしまった。僕の目を覚ましてくれたのは瑞穂だ。だけど瑞穂は婚約をしても、いつまでたっても僕になにも言わない。やっぱり僕が三光製薬の副社長だとどこかで気にしている』
『僕もプライベートと仕事はちゃんと区別するつもりだ。でもそれは秘密にしておくこととは違うと思う。秘密にしておいてもそれで瑞穂が僕になにも言えないのなら、そんなプライベートなど苦しいだけだ。瑞穂だけが苦しいだけだ』
…………
涙が落ちた。
知らぬまに落ちたしずく。
『瑞穂』
「……はい」
『さっき父と会ってきた。総務課長を辞めさせた責任を取ることを申し出てきた』
責任……。
『父からは総務のことは社員の首を切らずにやるように言われていた。けれど結果的に僕にはそれができなかった。だから責任を取って常盤孝一郎は来週から総務課長に降格。もう父には了承を取ってある』
「えっ、えっ、ええーっ」
今、降格って、総務課長って……。
ドアを開けると孝一郎さんがにこっと笑った。あんぐりと口を開けたままのわたしを見て。
「…………それって」
わたしは体の力が抜けてへなへなと座り込んでしまいそうだった。孝一郎さんが手を出して支えてくれた。
「本当? それ……」
そんなことってあるのだろうか。そんなことって……。
「その驚き方、まさか副社長でない僕にはもう興味がないって意味じゃないよね」
彼はちょっと目を細めてわたしを見ている。
……この人は。
この人は。この人は。この人は。
「……腹黒」
「なんとでも」
「……どこまでわたしを翻弄するんですか」
「一生。僕の奥さんは瑞穂しか考えられない」
孝一郎さんはもう笑ってはいなかった。
「これから仕事は一から覚えなければならない。事務の経験のない僕はまわりの人に迷惑をかけながらそれでも助けてもらわなければならない。本当の意味で僕はまだ会社の地味な仕事を知らない。不安だ。これは冗談ではなく。だから当分は結婚式どころじゃなくなるけれど、それでもついてきてくれる?」
……孝一郎さん。
……この人は。
「ばか! 孝一郎のばか! くっついていくんだから。離れないんだから。あなたが平社員でも窓際社員でも、三光製薬をクビになってもついていくんだから!」
「窓際社員はひどいなあ」
抱きついた孝一郎さんが笑いだした。笑いながらわたしを抱きしめている。
「三十歳で課長職ならお買い得だと思うけど?」
三光製薬の社長がこのビルへ移ってくるという日。
わたしは所長に許しをもらって孝一郎さんといっしょに社長室の前で並んで出迎えた。
「なんだ、瑞穂さんには愛想尽かされなかったようだな」
「おかげさまで」
ふん、とお父さんが笑う。このお父さんが笑ったところを初めて見た。
「瑞穂さん、こんな息子だがよろしく頼みます」
お父さんがわたしへ向かって頭を下げた。まわりに重役たちがいる、そんな前でだった。
「わたしこそ、よろしくお願いします」
そう言うのが精一杯だった。
「瑞穂さん、秘書室で待っていてくれる?」
孝一郎さんが他の重役と一緒に社長室へ入り、しばらくしてから出てきた。社長室を出る際に一礼して、そしてドアを閉めると秘書室へ来た。
秘書室には稲葉さん、浅川さん、そして社長秘書の人たちが孝一郎さんを並んで待っていた。そしてわたしも婚約者としてここにいる。
「皆さん、これまでありがとう。今後は社長の世話をよろしく頼みます」
孝一郎さんが挨拶すると稲葉さんと浅川さんはなにも言わず黙ってお辞儀をした。
「あの、副社長。本当に総務へ移られるのですか。わたし、信じられなくて」
社長秘書の新庄さんがそう言うと、もうひとりの社長秘書の男性もうなずいた。でも孝一郎さんはほほ笑んだ。とてもきれいな笑顔だった。
「新庄さんと仕事ができなくて惜しいと思っていますよ」
新庄さんがびっくりして、でもすぐに彼女の顔が苦笑に変わった。孝一郎さんの言葉が社交辞令だとわかったようだった。
孝一郎さんが秘書室を出るとわたしは孝一郎さんへ近づいた。自然に回される孝一郎さんの腕が軽くわたしを引き寄せた。
光あふれる最上階のオフィスの廊下。
彼の胸元へ手を伸ばすと彼のネクタイをくいっと引っ張った。わたしが誕生日にプレゼントした渋い紫色のネクタイ。
「うわべ紳士」
唇をちょっと尖らせて言う。
「なに、それ」
「女性には温度低いくせに」
孝一郎さんが笑った。
「瑞穂以外の女性に温度上げてどうするの」
終わり
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