副社長とわたし 35
副社長とわたし
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35
不意に後ろから発せられた声。
わたしの後ろには孝一郎さんが立っていた。
「副社長、なにを」
総務課長の声がする。
「わ、私にどうしろと」
孝一郎さんは平静だった。
「副社長室へ来るように。理由はわかるはずです。それはセクハラだ」
「セクハラ? なにを言っているのです。私はエレベーターのことを言っただけで」
総務課長がとぼけた。
「それとも私に直通エレベーターのことを言われてなにかまずいことでもあるんですか。なんでしたらその理由をここで言いましょうか? 言ってもいいのですか」
「言うのはかまわないが、あなたのためにはここで言わないほうがいいでしょう。続きは副社長室で聞きます」
総務課長が鼻で笑った。
「ほら、やっぱり私が言ったら困るんじゃないですか。副社長ともあろう人がこんな子会社ともいえないような小さな会社の女の子の肩ばかり持つ。たかが小さな関連会社の女の子のためにねえ。直通エレベーターはさぞ都合がいいことでしょうね。役得だ」
「山本さんは『女の子』ではありませんよ」
「じゃあなんだっていうんですか」
「彼女は私の婚約者です」
言ってしまった……。
総務課長の驚いた顔。近くで立ち上がっていたほかの男性社員も驚いている。
わたしは動けないでいたが、後ろから誰かに腕を触られて、見ると島本さんがいた。そして総務のほかの女性社員たちの何人かもいた。
「婚約者? そんな馬鹿な」
「信じられませんか。でもあなたに信じてもらわなくても結構です」
「し、信じるもなにも、だからなんだっていうんですか。婚約者だろうとなんだろうと関連会社の社員だ。こっちの言うとおりにして当然でしょう」
総務課長が叫んだ。
「だからセクハラの発言が許されるとでも思っているのですか」
答えた孝一郎さんの顔は怒っているようには見えなかった。顔も話し方もひどく冷静そうで、でも孝一郎さんはわたしのほうなど見ていなかった。
わたしのまわりには大勢の女性社員たちが立っていた。そして彼女たちの誰もが総務課長を見ていた。そんな女性たちに総務課長も気がついた。
「なんだ、きみたちは」
総務課長の顔がみるみる赤くなった。
「きみたちまでなんのつもりだ。そんなことをしたらどうなるかわかっているのか。仕事もできないくせに俺に逆らって。女は黙って言われたとおりにしていればいいんだ。それをこの副社長だからって」
「黙れ」
強引に遮ったのは孝一郎さんだった。
「ほかの女性社員までも侮辱する気か。ここから出ろ。それくらいの配慮はしてやる。それともここで処分を言い渡されたいか」
孝一郎さんの厳しく強い言い方に誰もが動けなかった。
総務課長は憤然とした表情だった。納得できないという顔でわたしたちから顔をそむけるとカウンターから出た。
「山本さん」
総務課長が出ていってしまうと島本さんがわっという感じで胸の前で両手を握りしめてうれしそうにしている。まわりの女性たちもこっそりと小さくVサインやガッツポーズをしている。
みんな……。
「大丈夫ですか」
稲葉さんに声をかけられて稲葉さんもそばにいてくれたことに気がついた。
「あ、……はい」
「山本さん、営業所の部屋までお送りします」
稲葉さんに促されてわたしはやっと歩き始めた。
副社長室の中は見えなかった。
稲葉さんにトーセイ飼料の部屋のブラインドもすべて閉じられてしまった。わたしは営業所の中にいたけれど、ドアの外には稲葉さんが立っていた。
それからノックの音がするまでがひどく長い時間に感じられた。何時間も経ったように感じられた後でやっとノックの音がして、ドアを開けると孝一郎さんが立っていた。
孝一郎さんは怒っているようじゃなかった。でも彼のついたため息がやはり怒っているのだと感じられた。
「どうしてあの総務課長に言われたことを話してくれなかった? 前にも言ったはずだよ。他人行儀な考え方はやめて欲しいと」
「でも、それは……」
「僕には絶対に言わない。瑞穂はそう思っていたんだろう。そんな顔していた」
「それってどんな顔ですかっ」
また孝一郎さんにため息をつかれて、それにむっとしたわたしは冗談ではなくそう言ってしまった。
「でも瑞穂の口から聞かなくてもわかっていたけれどね」
「わかっていたって、……それはもしかして」
「そう、島本さん」
孝一郎さんはきれいな顔でほほ笑んだ。どうしてこんな時に笑うの?
「彼女から聞いた。総務でのことを報告してくれと頼んでおいたから。今日も瑞穂が総務へ来たのを連絡してくれたのは彼女だ」
やっぱり島本さんだった。孝一郎さんは島本さんをいわば自分のほうへつけておいたのだ。わたしが知らないうちに。わたしと孝一郎さんが婚約していることも彼女たちは知っていて……。
だけど。だけど。
「総務課長は……総務課長をどうされたんですか」
「課長には異動を言い渡した。だが、彼は自分から辞表を出したよ」
……そんな。そんなことって……。
「でも、あの人はわたしたちが婚約していることを知らなかったじゃないですか。わたしが婚約者だって、そんなことを言ったらあの人は」
「辞めざるを得なくなるだろうね」
「そんな! あの人にだって立場が、家族があるでしょう。それなのに」
「自分のことを侮辱されたのにどうしてそこまで言う?」
侮辱された。
そうだけど。
「それなら」
孝一郎さんは相変わらず冷静だった。でも、わたしはつぎに彼の言った言葉に耳を疑った。
「父からは総務のことは社員の首を切らずにやるように言われていた。社員の首を切ることで仕事をした気になるなとね。だから総務部長のときも異動にした。でも最終的には総務課長をどうにかするつもりだった。だから今回のことで課長を辞めさせることができた、と言ったら?」
孝一郎さんは……。
辞めさせるつもりだったんだ。
総務課長を。
辞めさせるつもりで……。
わたしは孝一郎さんを見たまま後ずさった。
「それってわたしのことを口実にしたんですね。わたしが総務課長に言われたことを孝一郎さんは逆手に取った」
「その通りだよ」
孝一郎さんのわたしを見る平静な顔。いつもの隙のないスーツ姿だった。
どうして。どうして。どうして。
「もっと……、もっと違うやり方だってあったでしょう!」
これはわたしの問題で。わたしはなにもできなかったけれど、だからって。
顔をそむけてそう言ってしまいたかったけれど、孝一郎さんはその視線でわたしを離さなかった。
「婚約者を侮辱されて黙っている気はないよ。それに瑞穂のことだけじゃない。彼の女性を見下す態度が問題なんだ。この先また瑞穂や島本さんのような思いをする人がいてはいけない。僕たちが婚約していることを知らなかったとかじゃなく、課長のこれまでのことを判断した。それで彼が辞表を出したのだからそれは彼の意志だ」
わたしはわけもわからず腹が立った。
この人は副社長ならそういう判断も必要なのかもしれない。彼は副社長としてそうしたのだとわかっていてもそれがひどく冷徹に思えて。
わたしはそう言ってしまいそうで口を押さえた。
わかっていても。わかっていても!
「うっ……」
視界がにじむと彼が近づいて、でもわたしは彼の手を避けた。止めようがなく涙がボロボロ落ちていく。その時だった。
「ただいま。あ、れ?」
営業所へ入ってきた三上さんがびっくりして立ち止った。カバンやなんか持ったままで。
「三上さん」
わたしはわっと泣き出してしまった。三上さんに向かって、三上さんの胸にすがって。
「み、瑞穂ちゃん、どうしたの? これって。あ、あの、常盤副社長」
三上さんは困ってホールドアップ状態のまま。
「副社長が瑞穂ちゃん泣かせたんですか」
「違う。これは」
「でも瑞穂ちゃん、泣いているじゃないですか。男として彼女を泣かせるなんてどうかと思いますが」
「だから、それは」
「なによ、孝一郎の腹黒!」
わたしは叫ぶと営業所のドアから飛び出した。
孝一郎なんて、孝一郎なんて、柔道黒帯の三上さんに本気でのされてしまえばいいんだ!!!
と、心の中で叫びながら。
戻った副社長室では稲葉が無表情で立っていた。
「稲葉」
「はい」
「……俺はそんなに腹黒か?」
「それはお答えしないほうがいいかと」
「……わかった。ご苦労だった」
しばらくすると瑞穂がトーセイ飼料の部屋へ戻って来たが、こちらへは目も向けずにビシッと音が聞こえそうなほどの勢いでドアを閉じられてしまった。もとより閉じられているブラインドも開く気配さえない。
「さて、じゃあ社長に会いにいくとするよ」
「副社長」
稲葉が口を開きかけてやめた。
「……いってらっしゃいませ」
稲葉がそう言って頭を下げた。
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