副社長とわたし 34
副社長とわたし
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34
「ただいま」
孝一郎さんの声に振り返るとスーツのままでキッチンへ入ってきた。
「おかえりなさい……わ、と」
「ん?」
孝一郎さんがわたしの足元を見た。
「おイモがすべって落ちただけ」
「里いも?」
「今のは見なかったことにして。早く着替えてきてください」
「うん、そうする」
そう言って孝一郎さんは寝室へ入って行った。
柔らかなコットンのシャツとチノパンツに着替えてきた孝一郎さんがテーブルについた。普段着姿でも彼はいつでもだらしなく感じさせない。
「瑞穂って料理は意外と苦手だね」
「それ言わないで下さい。現在鋭意練習中なんですから」
「でも忙しい時は無理しなくていいよ。今日だって会社から帰ってきてからこれ作ったんだろう?」
「あんまり上手くできなかったけど……」
わたしが恨めしそうに里いもの煮物を見ても孝一郎さんは全然気にしてないようだった。いつもと変わらず食べてくれた。
「落ち込んでいるの? 美味しかったよ」
ソファーでクッションを抱いていたら孝一郎さんがとなりに来た。
「落ち込んでません」
わたしは首を振った。
「わたしってまだまだだなって思っただけです」
「瑞穂がまだまだだなんて思わないけど」
孝一郎さんがわたしの抱えたクッションを取り上げると足元へ落とした。引き寄せられてすぐに唇がつけられるとだんだんとキスが深くなっていく。彼の手がわたしの服の中へ入ってきて、でもわたしは先に言っておかなければ言えなくなってしまうと思って顔を離した。
「あの、孝一郎さん、わたし、今夜は帰りますね。アパートへ」
孝一郎さんの手が止まった。
「どうして?」
「えっと、やっぱり結婚まではちゃんとけじめをつけたほうがいいと思って。ここに泊るのが嫌だとかそういう意味じゃないですよ、誤解しないで。でも、なんていうか、同棲みたいになってしまうと、あの……」
孝一郎さんはわたしの顔をじっと見ている。そういう顔で見られると……。
「……わたし、ほんとはもう孝一郎さんと一分でも一秒でも離れていられなくなりそうで……なんだか自分が怖いんです。こんなこと言うなんて甘ったれた子供みたいでしょ?」
孝一郎さんが薄く笑った。
「それは僕をあおっているようにしか聞こえない」
「そうじゃなくて……」
「今週はずっと出張で瑞穂に会えなかった。やっと帰ってきてこうして瑞穂を抱いているのにそんなことを言うんだ」
「あ……」
孝一郎さんの顔がわたしの首筋へ埋められた。
「瑞穂が帰りたいのならそうする」
また服の中へ手が入ってきて素肌に触れる彼の手に小さく声を上げてしまった。
「瑞穂が本当にそうしたいのならね」
言葉とはうらはら。
それはわたしのこと。
帰るなんて言っておいて体はあっけなく陥落してしまう。
首筋から耳へ移動してきた唇にふっと息を吹きかけられて思わず首をすくめた。
「や……」
背中へ回された彼の両手をはずそうとして、もがくだけ。
「い、や、くすぐったい」
「ここ、だめ?」
かすかなタッチで背骨の上をなでる彼の指から逃げようと背が反る。わたしが背中を触られるのが弱いことを知っている指。その指をさわさわと動かされて、背中が、腰が、ぞわっとする。背中がベッドへ着いてもまた触られるかと思って体のほうが先に逃げてしまった。
「やっ、あ……」
「逃げないで」
あおっているのは孝一郎さんのほうだ。
今度はしっかりと抱き寄せられてわたしの体を落ち着かせるようにキスをされた。孝一郎さんの手が胸をなでて彼の手にすっぽりとふくらみが包みこまれている。
「瑞穂が嫌ならやめるけど?」
優しく言われて、もう離れることなんてできない。
「やめないで……」
首まで振ってしまったけれど彼は笑わなかった。キスをされながら彼の手に、唇に、揺らされていく。
彼がわたしの中へ入ってくる感覚にうっと体が強張る。そうされながら孝一郎さんがわたしを見ているのがわかった。
「好き……」
はあっと息を吐き出すと体の中が隙間なく満たされて、そして包みこまれる。体の内も外も彼に包みこまれている。
「大好き……っ」
「僕もだ」
わたしの体が動いてしまう。彼から与えられる快感にどうしようもなく高まっていく体は止められない。
何度も満たされて、それでも彼から離れたくない。
「も……っと」
息を切らせながらわたしが言うとやっと彼が笑った。
「いいよ。何度でも」
わたしはまだ孝一郎さんになにもしてあげてないのに。
出会ってから求められて心も体も掴まれて、あっというまに婚約まできてしまっても。
それでも好き。
動けなくなってしまったわたしを彼はずっと胸に抱いたままだった。もう目をあけていられなくて彼の胸に顔をつけたまま眠りに落ち込んでいく。帰るなんて無理だった。彼にはわたしを帰す気なんてなかった。
総務課長に皮肉を言われても。
やっぱり好きだから。
常盤孝一郎が好きだから……。
「おはようございます!」
「お、元気あるねえ。瑞穂ちゃん」
「今日から所長は出張ですよね」
「そう、私は大阪の本社経由で、それから三上君は今日は都内に外出だから……」
予定を確認しながら今週は孝一郎さんがいるのでいつも通りのような気がしていた。もう孝一郎さんも副社長室で仕事を始めている。このところ視察のための出張が多いと言っていたけれど、今週はいいのかな。
「はい、防災安全管理者ですか?」
金田さんと三上さんが出かけてしまうと三光製薬の安全管理課という部署から電話がかかってきて、トーセイ飼料の防災責任者の氏名の提出をし直してくれと言われた。
事故や災害などが起きた時や安全管理のためにビルへ入っている三光製薬の関係会社各社にそういった責任者が決められているが、
トーセイ飼料の場合は三人だけだからそういう責任者はたいてい金田所長だ。所長に確認を取って提出し直すと伝えたら、書類が総務にあるので取りに来てもらいたいと言われた。
総務に?
聞き直したら安全管理課は総務部の中の部署だという。行かないわけにはいかない。
「防災責任者のほかにですね、常に社内にいる人を安全管理者としてもらいたいのですよ」
安全管理課の人が書類を示しなら言う。
「防災責任者と兼任でも良いのですが、安全管理者は営業などで外へ出てしまう人ではない人をお願いします。防災訓練やそのほかの連絡もしますので」
そうするとわたししかいない。
「あの、それはわたしでもかまいませんか。うちの場合、ほかに人がおりませんので」
「かまわないと思いますよ。ちょっと待って下さい。総務の上席課長がいますので確認します」
課長。
そう思った時は遅かった。すでに安全管理課の人が総務課長の席へ向かっていた。
「トーセイ飼料さんねえ」
「お世話になります」
あの総務課長がわたしのいるカウンターへ来た。
「ほかに誰かいないのですか。名前だけ書かれても困るので」
名前だけって。
「防災訓練や講習会などもあるから女の子の名前なんか書かれると困るのですがね」
女の子……。
「でも常に会社にいる者ということでしたので」
「それじゃ困るんですよ」
総務課長の声が大きくなった。まわりの人たちがこちらを見ている。
「小さな会社だからってそういうところをいい加減にしてもらっては困る。このビルへ入っている以上はきちんと決めてください」
なんだかわたしの言うことを頭から取り合ってくれない感じだ。なぜ……。
「では所長に確認してから提出し直しますので、少しお時間をいただけますか」
「どのくらいかかるの」
「それは、今、出張中ですので連絡が取れ次第」
「そんなんでよく仕事ができますねえ。あなたは連絡だけ?」
わざとだ。
この課長、わざと……。
「すみません。至急確認を取って提出します」
頭を下げて書類を受け取ろうとした。
「お願いしますよ。あなたの仕事は副社長室の前にいることだけじゃないでしょう?」
なっ……。
「それはどういう意味でしょうか」
「どういう? そのままの意味ですよ。あ、そうそう」
総務課長は声を落とした。カウンター越しにわざとらしく体を乗り出すようにして。
「今度は私にも直通エレベーター、頼みますよ。山本さん」
……私にも。
その意味に顔から血の気が引いた。
これってセクハラだ。これって……。
血の気の引いていく冷たさと同時に総務の人から見られている恥ずかしさにかっと体が熱くなった。喉に何かがこみ上げて詰まるように固まっている。
「それは……!」
言いかけた時、不意に後ろから声が聞こえてきた。
「総務課長、すぐにここから出るんだ」
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