副社長とわたし 15
副社長とわたし
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「瑞穂さん」
「はい」
「さっきからあまり食べていないけれど、これは好きじゃなかったのかな」
「……あ、いえ、そんなことありません。とても美味しいです」
副社長が案内してくれたのは和風のお店だった。この副社長だからどんなレストランへ連れて行かれるのかと内心おっかなびっくりだったのだが、一部屋ずつになったお座敷でテーブルにはコンロが置かれ、出てきたものがうどんすきだったのでやや安心した。
でも、この副社長と差し向かいでうどんをすするなんて。相変わらず整った顔で落ち着き払ってうどんすきを食べている。とても美味しいうどんすきだったけれど、この人が食べるとうどんまでもがスーツに似合って見えるから不思議。そんなことを考えていたわたしと目が合ってにこっと副社長がほほ笑んだ。
「少しは元気が出たかな」
副社長、それは……。
こういう言葉でもこの人が言うと特別の言葉のように聞こえる。そんな副社長になんだかずっとペースを崩されっぱなしだった。何をしていても人目を奪ってしまうような副社長の端正な振る舞いも、さっきお店の中へ入っただけで何人もの女の人が振り返って見ていた。整った顔と恵まれた容姿に副社長というポジション。わたしだってときめく。
三光製薬のビルへ来てからも仕事はちゃんとやって当然、東京へ来ても同じ仕事をするだけ。そう思っていても。
「すみません」
「どうしたの? 急に謝ったりして」
どうして。それは。
「わたしだけが忙しいわけじゃないのに、そういうふうにおっしゃってくださって。すみません、わたし、東京へ来て三か月で少し疲れていたのかもしれません」
「初めてのところはみんなそうだよ」
…………
「やさしいんですね」
「瑞穂さんにはいつでも」
さらっとそんなことを言ってしまうところも。
「なにせエレベーターで手を差し出しても、デートに誘っても失敗しているから。これ以上瑞穂さんに嫌われたくない」
笑顔でそんな冗談を言ってしまうところも。
「嫌ってなんていません。ただ」
「ただ?」
「副社長がわたしをびっくりさせるようなことばかりするからです。いきなりあんなことをされて」
「正攻法でせまっていたつもりなんだけどなあ」
あなたには正攻法でもこっちにはそうじゃなかったんですけど。
「でも僕にもわかったよ。瑞穂さんには唐突なことをしてもダメだって」
「そうかも……しれません」
しばらく黙ってふたりとも食べていた。でもこの沈黙は嫌じゃない。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「僕も美味しかった。ありがとう」
「副社長がお礼を言うなんて変です。お礼を言わなきゃならないのはわたしのほうです。わたしが疲れたって言ったの、聞いていらしたんでしょう?」
「うん、聞こえてしまった。だから瑞穂さんに元気を出してもらいたかったんだ」
箸を置いた副社長がわたしを見ている。
「そんなことを言ってしまっていいんですか。そんなこと言われるとわたしだってつけ上がりますよ。副社長は本当にわたしのことを……って思っちゃいますよ」
「思ってくれていいよ。それが信じてもらえないようなことを僕はしていないはずだけど」
すっと副社長の手が伸びてわたしの手に触れた。指輪もなにもしていないわたしの指に副社長の指が触れている。
「でも……、常盤さんは三光製薬の副社長ですから」
わたしがそう言うと副社長はちょっと小さく息を吐いたようだった。その表情……。
「だから? そんなことを言うなんて瑞穂さんは困ったねずみちゃんだ」
ねずみ……ちゃん?
思わず顔を上げると、常盤さんはうっすらとほほ笑んでいた。
「本当のこと、白状しようか。僕もね、瑞穂さんを最初に見た時は思ったよ、田舎のねずみがまぎれこんできたんじゃないかと。会議室で稲葉に食ってかかっている瑞穂さんを見ていてね。あんなことを言う人は初めて見た」
田舎のねずみ……?
「おまけにこのねずみはくるくるとよく働くねずみで。裏表のない仕事ぶりが本当に田舎のねずみらしくて。でもその真面目な仕事ぶりはうまく立ち回るだけの都会のねずみなんて足元にも及ばない。そう思ったんだよ」
ねずみ……って、それって。
副社長はわたしのことを褒めてくれているの? それとも?
でも、ねずみ。田舎のねずみ。
それはもちろんわたしのことで……。
「……そうなんですか」
わたしが立ち上がった拍子に副社長の指が離れた。
「わたしのこと、そんなふうに見ていたんですか。都会にまぎれこんだ場違いなねずみって。知りませんでした。でも、わたしだって好きで迷い込んだんじゃありません」
「瑞穂さん」
副社長も立ち上がった。
「怒ったの? でも僕が言いたいのはそういう意味じゃなくて」
「だったらどういう意味ですか。わたしにエレベーターで手を差し出したことだって、手を振ってくれたことだって、紳士的に振舞っていながらそんなふうに思っていたなんて」
「常盤さん、自分が御曹司だってわかっているんでしょ? 顔がいいことをわかっているんで しょ? それが女性にどう思われるか知っているんでしょ? それなのにわたしに好きだなんて言って、わたしのこと振り回して」
「振り回してなんかいない。僕の言うことを最後まで聞いて」
「いいえ、振り回しています。常盤さんはなんだかわかりにくくて、常盤さんが仕事しているのを見てもどんな仕事をしているのかわたしにはわからないんです。だってわたしのところは所詮間借りの小さな会社で、わたしは確かに田舎者です。でも、そう思っていてもあんなに仕事をしている姿を見せられたら好きになってしまうじゃないですか」
「…………え?」
「だから、わたしだって振り回されるんです。あんなことして、ときめかせておいて、それで常盤さんが本気だって信じられなかったらきっと噛みついてますよ。本物のねずみみたいに」
「瑞穂さん、それは……」
先に笑ったのはわたしのほうだった。
常盤さんのあっけにとられたような顔がおかしくて。
「いつもの余裕のある常盤さんもいいですけど、いまの常盤さんの顔も素敵です」
常盤さんの驚いた顔。初めてこの人にこんな顔をさせてやった!
「仕事をしていた常盤さんはもっと素敵でした。そうでなかったら常盤さんを好きにならなかったと思います」
「……やられた」
常盤さんが驚いた顔のままで言った。
そうですよ。田舎のねずみをバカにすると後が怖いですよ、副社長さん!
「やられたよ。こんなことは初めてだ。さすがは瑞穂さんだ」
おかしそうに笑い出すと声をあげて笑っている。
「……あのう」
「あ、失礼。なに?」
「わたしは怒っているんです。ねずみ、ねずみって連呼されて女としては聞き捨てならないのですが」
「……く くっ。そうだった、ごめん。でも瑞穂さんの顔、そんな顔って……」
「ど、どうせ、わたしは田舎のねずみですよっ!」
「ねずみっていうよりハムスターかな。その顔は」
「変わらないじゃないですかっ! そんなにねずみだとかハムスターだとか言うとほんとに齧りますよ!」
「頼むからキスのときは齧らないでほしいな」
えっ! その発言って!
そんなわたしの顔を見てまたおかしそうに笑いだした。常盤さん、笑いすぎて苦しそう? でも、そんなに笑わなくてもいいじゃない。美形のくせにそこまで笑うか? 普通。
いつのまにかわたしも笑っていた。笑いながら気が付くと常盤さんの腕がわたしへまわされていた。笑ったままの常盤さんの顔が目の前に近づいていて……。
「こういう時、都会のねずみがどうするか知っている?」
わたしが答えないうちに唇が触れた。
思わず力の入ったわたしの肩が常盤さんの手にしっかりと押さえられている。常盤さんの唇が一瞬、わたしの呼吸を止めた。
「……そんなの、お話と違います」
「うん、違う。でも真面目で働き者な田舎のねずみのおかげで僕にもわかったことがある。うまく立ち回ることしかできない都会のねずみの僕にもね。だから瑞穂さんが好きになった」
「でも、こんなところで」
もがいて離れようとするとさらに常盤さんの手に力が入った。
「だめだ、離さない。さっき瑞穂さんが言ったこと、聞いてしまったから」
「えっ。あの」
「まさか嘘とは言わないよね。僕を好きだと言ってくれたこと」
――わたしは自分で墓穴を掘ったのではなく、この人に掘らされていたのかもしれない。と気がついても遅かった……。
「嘘なんて言えません。……言えるわけ、ないです」
さらに近づく顔に目をつぶってしまったわたしに「うれしいよ」とつぶやく声が聞こえた。
そして……。
「好きと言ってくれた瑞穂さんをこのまま帰すほど僕はいい人じゃない」
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