副社長とわたし 16

副社長とわたし

目次


16


「やっぱり帰るの?」
「はい」
「送っていくよ」

 車を呼んでくれた常盤さんがいっしょに乗った。黒塗りのハイヤーが走り始めたところでとなりに座っていた常盤さんがそっと手を握ってきた。運転手さんがいるのにと思うと顔が赤くなるが常盤さんの手は離れなかった。

「じゃあ、また」
「はい」 
「明日、電話してもいいかな」
「はい」

 部屋の前まで送ると言った常盤さんをここでいいですからとお願いして車から降りた。常盤さんを乗せた車が去っていくと、わたしはアパートの自分の部屋へ入ってはあーっとため息をついて座り込んでしまった。体のあちこちに常盤さんの記憶が確かに残っている。
「わたしってこんなに大胆な人だったの……」
 今夜、食事をして、キスをして、そして、そして……。





 ドアが閉じられた瞬間にわたしの心拍数はマックスだったのに違いない。
 ホテルの部屋へ入る、それはこれからすることを予感ではなくて間違いなくおこることだと思わせることだった。

「ここに座って」
 示されたのはソファーのとなりだった。ベッドのある部屋とは別にこちら側にはソファーや低いテーブルが置かれている。セミ・スィートとでもいうべき、ここはそういう部屋だった。モダンで落ち着いた雰囲気の部屋だったが、でも、それを楽しむ余裕なんてわたしにはなかった。
「さっきから黙ったままだね」
 ここまで来る間もなにもしゃべれなかった。そして今、横にいる常盤さんへ目が上げられなかった。この人の顔をまともに見たらもう心臓の鼓動がマックス以上になってしまうことがわかっていたから。でも、常盤さんはそうは思わなかったらしく、ちょっと顔を下げてわたしの顔を見た。
「……嫌なのならそう言って。さっきはああ言ってしまったけれど、こういうことは一方的な気持ちですることではないから。瑞穂さんが嫌だというのなら」
「嫌じゃありません……」
「瑞穂さん」
 常盤さんのほうを向いて、やっと彼の目を見ることができた。
「嫌なら……ちゃんとそう言います」
「そうだね。瑞穂さんはそういう人だ」
 それは過大評価かもしれない。だって……。

 何度も繰り返されるキスにそのたびに心臓の鼓動が跳ね上がる。体を引き寄せられて、わたしの肩や腕に感じる常盤さんのスーツ越しの腕に支えられて離れることもできない。
「もう一度聞かせてくれる? 僕を好きだと」
 唇がやっと離れたかと思うとそんなことを言われて。
「そんな、何度も」
 恥ずかしいのに。

 わたしの頬へ笑いながらキスをしてくる常盤さんの頬が、髪が触れる。唇に触れたキスが深くなって、でも体が緊張して固くなってしまっているのも恥ずかしくてたまらない。

「お、ねがい、です……」
「なに?」
 自分の声が切れ切れになってしまいそうなのも。
「シャワーを……」
「それは、あとで。もう少しキスをさせて」

 ソファーヘ座ったままで何度も繰り返されるキスをしながら常盤さんの手がわたしの体をなでていく。肩から背中へと服の上からなでている手はとてもやさしいのに、いつのまにか上着の裾から入り込んだ手に初めて体の素肌に触れられて思わず体がびくついた。 わたしが動いてしまったせいで常盤さんのネクタイが曲がってしまったそれを彼がわたしを抱いたまま片手で結び目を緩める。すぐ目の前で見せられる彼のしぐさ、それがもう見ていられないくらいに。
「……はずか……しい」
 彼がこんな、こんな……。
「目を開けて、瑞穂さん」
 ためらいながらやっと目を開けると目の前で常盤さんがほほ笑んでいる。
「恥ずかしい? それは僕も同じ。好きな人を抱いて、男だって恥ずかしくないわけがない。でも瑞穂さんが好きだから」
 
 足が地に着かない、手に物が付かない感じだった。
 シャワーで体を洗っている間も自分の手や足が熱を帯びてふわふわしているような感じが続いている。
 常盤さんの滑らかな肌に触れられて、触れられるたびにそこが熱く感じられてやがて体全体が熱くなっていってもそれは変わらなかった。熱でほてったように赤くなっている頬へ彼の唇がつけられてささやかれる。
「きれいだ」
 ちゅっと音をたてて頬へキス。
 それから胸にも。
「ここも。ここも」
 体へのキスを繰り返されて、そして彼の指がわたしの中の熱さを確かめる。
「みんなきれいだ」
 そんなこと言われたら。
 きれいだなんて初めて言われたら。
 常盤さんに初めて言われたら。

 ゆっくりと体を離した常盤さんを横たわったままぼうっと見ていた。でも、それが避妊の準備をしているのだとわかってあわてて目をつぶった。また彼の体が触れてきても、もう目を開けられなかった。体の熱でまるで感覚が飛んでしまったようだった。押し開かれる感覚もほとんど感じないまま彼が入っていた。

「……は……あ」
「苦しい?」
 首を振って、それは嘘ではないけれど、体が熱い。
 もうこれ以上、熱くさせないで……。
「瑞穂」
 そう呼ばれて、頬に指が触れてわたしの目を開けさせた。
「僕を見て、瑞穂」

 僕を見て。

「こう、いちろう、さん……」
「そうだよ」
 もう一度キスを落とされて、常盤さんの体の重みを感じる。ゆるやかに動き始めた彼に体を押されるたびに、またわたしの熱が上げられていく。
 わたしになにも考えられなくする熱さを……。






「信じられない……」
 息が落ち着いてきても、動けないままだった。
 こうなってしまったことが信じられなかった。自分の意思でこうなってしまったことでも。
「そういうこと、言わないで」
「あっ……」
 常盤さんに見られてしまいそうでシーツの中で隠すように胸を押さえて丸くなった。そんなわたしの体へ腕をまわしてきたのはまぎれもなく……。
「僕の腕の中で丸まっているねずみちゃん。あなたを抱いているのは誰ですか」
 誰って……。
「常盤副社長です……」
「だから」
 常盤さんが思い切り、苦笑した。
「そうじゃなくて」

 そうじゃなくて? あ、そうか……。
「……常盤……孝一郎さんです」
「よろしい。ではあなたは常盤孝一郎をどう思いますか」

 どう思う?
 わたしは胸を押さえたままもう一度自問した。もう逃れられない彼の腕の中だということも忘れて。
「好き……です」
 常盤さんから長く静かなため息のように息が吐き出された。
「やっと言ってくれた」
 こんどこそにっこりと常盤さんは笑った。



 ……ねずみ。
 田舎のねずみと都会のねずみ。
 都会のねずみは副社長だったけれど、でも、それは……。

「孝一郎さん……」
 笑ったままの常盤さんの目はじっとわたしを見ている。
「僕は瑞穂さんにとって副社長から常盤孝一郎になれたかな」

 ……だめだ。
 この人にはかなわない。この人に持っていかれてしまった。彼が副社長だということも、なにもかも吹き飛ばされて。

 さすが、あなたは常盤孝一郎です……。


目次      前頁 / 次頁

Copyright(c) 2010 Minari all rights reserved.