副社長とわたし 11
副社長とわたし
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次の日、わたしは昼休みに浅川さんにつかまった。ちょっとお茶でもと言われて会社の近くのカフェへ引っぱられるように連行されてしまった。今日も所長たちがいてくれたから出られたんだけど。
「昨日、見たわよ」
開口一番、注文したコーヒーも来ないうちに浅川さんに言われた。見られていたんだ。
「それで? どこまでいったの?」
どこまでって、それはまた。
「行きませんでした」
「ええ?」
「だから、食事にって誘われましたが急に言われたのでなんとも答えようがなくて。帰りました」
「えええー?」
目を丸くして驚く浅川さんだけど、美人にそんな顔されても。
「ちょっと瑞穂さん、あなた、わかっているの? 相手はあの副社長よ。三光製薬のゆくゆくは社長よ。その副社長に誘われて断るなんて」
あきれた、と言いたげに浅川さんは首を振った。
「副社長、昨日はあなたの仕事が終わるのを待っていたんだから。それにエレベーターで手を差し出したことだって、昼休みにトーセイ飼料さんの部屋へ行ったことだって、あの副社長には今までありえないことだったのよ」
「でもうちの営業所に来たのは新庄さんを避けるためですよ。副社長、新庄さんが苦手だってご自分で言って」
「もう! あなた、天然? それとも鈍ちん?」
に、にぶちんって……。
「秘書のわたしが言うんだから確かよ。あんな副社長初めて見る。いままでもそりゃあもてたでしょうけど、もててもクールビューティー、いいえ、はっきり言って女性には温度低かったわね、副社長」
「はあ」
「副社長、確かに紳士よ。よく訓練されていて。でも、なんかこう温度低いのよね。温度差っていうの? そういう感じなのよ」
「温度差ですか……」
女性には温度低い。
それはわかる気がする。あの新庄さんに言った言い方もそうだったと思う。でも、わたしには冷たくはなかった。驚くようなことは言われたけど、少なくとも冷たいことは言われてない。
あれ、これって……。
「わたし、副社長って女性に親切なタイプかと思っていました」
美形だし、背が高しい、副社長だから、もしかして手広く女性にやさしいとか。簡単に言えば プレイボーイとか。
「いやっ、わかってないのねえ」
オーバーアクションで言う浅川さんの、なんだかその言い方、悶えてますか?
「食事断って、そしたら副社長あきらめた? なにか言った?」
「えっと、次も誘うからって……」
はああーと浅川さんが感嘆のような、あきれ? のようなため息をもらした。
「あの副社長がそこまで。あなた、ずいぶんと副社長になつかれているのねえ」
な、なつかれているなんて、そんな、ペットじゃあるまいし!
「ああ、会社へ来る楽しみができたわ。これからが楽しみ。あ、誤解しないでね。瑞穂さんの邪魔をする気はないから大丈夫。このことはほかの人には言わないから」
「浅川さん、勝手に期待値を上げないでください! わたしなんてわけのわからないことばっかりなんですから」
そもそもあの副社長ってどういう人だろう。浅川さんは副社長は意外と気さくな人だって言ってた。でも、女性には温度低いって。うわべは紳士ってこと? でも、わたしには冷たくされた事がなくて。それにプレイボーイってわけじゃなさそうだし。あー、わからない。このわからないっていうのがわたしがデートって言われても舞い上がりきれなかった理由なのかもしれない。
「ところで浅川さん」
「なあに? どんなことがわからないの?」
「あのフロアでは三光製薬の社長さんをお見かけすることがないのですが、もしかして別のところにいらっしゃるんですか」
「あら、そこへいくの」
それは言えないわ、という顔を浅川さんはしたけれど。
「社長はいつも旧本社にいるの。ここは新しい本社ビルだから。知っていると思うけど、社長はもちろん常盤副社長のお父様よ。社長はワンマンで有名なのよ。会社を引っ張っていく力が強いとも言うけれどね。うちの社はこてこての同族会社だから社長の力が強いのよ。副社長もそれで苦労するでしょうね。社長と副社長、親子関係がうまくいってないって感じらしいし」
ふーん、いろいろあるんだ。あの副社長でも。あの容姿、恵まれた境遇でもスムーズに前途洋々っていうわけじゃないのかも。
「それに副社長、これから忙しくなるわよ、きっと。だからその前にあなたのこと誘ったんだと思う。公開できる情報はこのくらいかな」
忙しくなる?
その時は浅川さんの公開できるという情報ではそれがどんなことかわからなかったけれど。
翌日、備品の伝票の件で総務にいた時だった。
担当の人に伝票の確認をお願いして、わたしは総務部入口の来客用のカウンターの脇で座って待っていた時だった。奥の部長室から何人かが出てきた。出てきた人たちが総務課長の席のほうへ向かって行くのを見るまわりの総務課の社員達の空気がなんとなく張り詰めている。さりげなさを装っても総務の社員のだれもがそちらを気にしているのがわかった。
「私は総務課の組織表を見たいと言っているんだ」
「それは年度初めに総務部全体で作成したものを提出してありますが」
「これでは大雑把過ぎる。対外用の簡略化した組織図並みです」
その声は常盤副社長だった。
この人にしてはかなり大きな声だった。この広い総務室が静まりかえり、副社長の声が通る。いつもは総務の課長が座っている席に副社長が座っていて、その前に総務課長と部長を立たせている。総務の社員たちのすべての意識が常盤副社長に向けられている中で、普段は総務に来ない重役が来ている緊張感だけではない、どうして来ているのかという疑問のようなもので空気がびりびりしているのがわたしにも感じられた。
「最新でもっと詳しいものを提出してください。明日までに」
それだけ言うと常盤副社長は席を立った。総務課長と部長が一礼したけれど、それが好意的な話ではなかった証拠にふたりの顔は渋い表情だった。
常盤副社長が出ていくのをわたしはカウンターの陰で見ていたけれど、副社長はわたしに気がついていないようだった。秘書の稲葉さんも一緒にいなかったし、その顔は初めて見るとても厳しい表情だった。
「……なに? 副社長、どうしたの?」
「さあ、組織図って言っていたけど」
副社長が出ていってしまうと、総務の女性社員達がひそひそと話し始めた。
「組織図くらいのことでここへ来るの? でも相変わらずハンサムねえ。お綺麗って言うべき?」
「しーっ、課長がこっち見ている」
「では、よろしくお願いします」
わたしは伝票の訂正が行われてなかったところの再訂正をお願いすると総務部を後にした。
正直言ってさっきの副社長に驚いていた。
あのやさしげな人のイメージに合わない言動に。
さっきのあの人はわたしの知るすべのない、副社長としての顔だった。
あの副社長のことをわたしはまだなにも知らない……。
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