副社長とわたし　１０

副社長とわたし

１０

「総務部のほうではやりたくないということですか」
「時間がかかり過ぎるという言い分もわかります。今までにないことですし」
「人事部のほうはどうですか」
「こういうことを手続き的な慣例にするのではないというのならやる価値はあると思います」
　前に立った人事部長はこともなげに言う。
「無駄な慣例にするかどうかはレビュー後の判断と活用によるでしょう」
「その通りだと思います」

　問題は総務部長か。というよりは、そもそもこれは人事の問題でもあるということを人事部長はわかっているのか。
　人事部長が出ていった後でブラインドを開けた。
　向かいのトーセイ飼料ではブラインドを閉じっぱなしにしておくかと思っていたが、業務時間中は大抵開けられていた。

　今日はトーセイ飼料は皆、出社していて山本瑞穂もデスクへ向かっていつもの仕事をしているようだ。時々電話を受けたり、下の階へ行ったり。彼女はひとりでいる時も男性社員がいる時でも、昼休みも外出もせずにあの部屋にいる。それは電話がかかってきたときに取るためか。ひとりだけの女性社員ならそれも仕方のないことだろうが……。

　真面目なねずみちゃん。
　日々の仕事をこなしていく様子は働き者のねずみみたいだ。このねずみは手を差し出しても、話をしても、俺のことはあくまでも副社長で、時々あわてた表情を見せても仕事上の態度は崩さない、真面目な、真面目なねずみだ。仕事には田舎も都会も関係ないということか。それが彼女にとってはあたりまえなことなのだろう……。

「副社長ってのは暇なんすかね」
　そう言ったのは三上さんだった。金田所長も三上さんも月末で営業所にいた。
「まあ、俺たちみたいに地方をめぐり歩くって感じじゃないだろうな」
「秘書の浅川さんが会議が多いって言ってましたけど、ときどき出張でいらっしゃらないときもありますよ」
「お、瑞穂ちゃん、詳しいね。それはあの副社長だから？　俺たちよりも副社長のスケジュールのほうを把握しているんじゃないの」
　三上さんが笑いながら言う。
「そんなことありませんよ。三上さんに月報を出してもらわないといけないことくらい、ちゃんと把握しています」
「はい、はーい。今、書いているからちょっと待って」

　月末の集計が本社と合わない個所がないかどうかを調べるために本社の数字が上がってくるのを待っていたので今日は残業になってしまった。今月は営業所の移転もあっていろいろと雑用も多く、月末の仕事がスムーズにいくか心配だったけど、なんとか終わってほっとした。いつものように帰ろうとエレベーターの前でボタンを押して待っていた。
「瑞穂さん、いま、帰り？」
「あ、副社長、お疲れ様です。お先に失礼させていただきます」
　後ろから来た人が副社長だったから向き直ってお辞儀をした。
「遅いんだね」
「はい、月末ですので」
　副社長も帰るのかな？　そんな感じじゃないけど。ああ、早くエレベーター来ないかな。
「それでなかなか来なかったんだ。待っていたんだけど」

　えっ？
　待っていた……って、わたしを？
　言葉通りに受け取るとそういうことになるけど……。

　一歩前に出て近づく常盤副社長にこの人に慣れてきたとはいえ、内心緊張する。

「よかったら、これから食事を一緒にどうですか」
　……は？
「あの、食事ですか？」
「そう、このまえお茶をごちそうになったので。あの時の話の続きも聞きたいし」

　え、続き？　エサの話の？　じゃあ、食事って仕事の続きみたいなものとして？
　そうだよね……。
「あの、お話ならここで……」
　そう言ったわたしに副社長はちょっと困ったような顔をした。
「言い方が悪かったかな。こういう時にどういう言い方をしたらいいのか。つまり僕と食事をして欲しいというのはデートをして欲しいという意味なんだが」

　デ………………

　この時くらい「デート」という言葉が異星の言葉のように聞こえたことはない。まさかこの人がこんなセリフを言うなんて。しかも……わたしに？！

「じゃあ、向こうのエレベーターで降りようか」
　むこうのって、それは直通？
　常盤副社長はさっさと歩きだしたけれど、わたしはなにも言ってないのに。
「待って、待って下さい。わたしはこっちのエレベーターで」
　くるりと常盤副社長が振り向いた。
「嫌ですか？」

　…………
　嫌だと答えるのも、違うと答えるのも。

「瑞穂さん」
「……はい」
「無理にとは言わないけれど、それでも？」
「……急にそんなことをおっしゃられても、なんとお答えしたらいいのかわかりません」
　純情ぶって恥ずかしそうにすることも、おとなのふりしてさらりと受け流すことも、にっこりと笑って受けることもわたしにはできない。自分でも馬鹿かと思えるくらい何もできないよ！

「そうか、急に悪かったね。たぶん瑞穂さんならそう言うんじゃないかなって思っていたんだ。じゃあこの次は予告して誘うから」

　常盤副社長の最後のひと言。それはわたしにだって妙な言い方だとわかった。

　予告して誘う？
　この次？
　……この次もあるってこと？！

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