副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 13

奥様、お手をどうぞ

目次


13


 そして月曜日。
 いつもより早めに会社へ行き、営業所の中を掃除した。金田さんのデスクの上はきれいに片付けられていたけれど念入りに拭いた。今日は金田さんの定年退職の日。予定を一年早めた退職だったけれど定年退職であることは変わらない。三上さんも早く出社してきた。ファックスには土日の間に金田さん宛に送る言葉が書かれたものが何枚も送られてきていた。本社の人たちや取引先の人たち、いずれも金田さんと一緒に仕事をしたり、お世話になったことのある人たちだった。
 金田さんは普通に始業時間に来る予定だった。うちの会社の恒例として定年退職の日は挨拶のためだけの出社だ。どうしても当日に残ってしまう仕事がある場合はそれを済ませるが、金田さんの場合はもう仕事は残っていない。金曜日はとても忙しかったのに帰社してから送別会までにすべての仕事を終わらせたのは段取りをおろそかにしない金田さんらしかった。新所長の岡本さんも来て、あとは金田さんを待つばかりだ。時間を確認して三人で金田さんの出社を待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
 金田さんのいつもと同じ挨拶だった。いつもと同じ背広を着ている。
「ありがとう、瑞穂ちゃん」
 わたしがお茶を淹れて席に着いた金田さんの前に出すと、金田さんはわたしを見上げてそう言ったので、わたしも笑顔で答えた。そのあとで金田さんと岡本さんがしばらく話をしていた。それも
ほどなく終わり、岡本さんが立ち上がった。
「三上君、常盤さん」
 呼ばれて三上さんとわたしは所長たちの前へ行った。金田さんも立っている。
「金田所長は本日定年退職の日を迎えられました。所長、長い間お疲れ様でした」
 ここまで言って岡本さんの口調が急に関西弁になった。
「トーセイ飼料がまだトーセイ製粉の飼料部門やった時代からの人が定年を迎えるなんて、ほんま、なんと言うたらいいのかわかりません」
「そういえば岡本さんもトーセイ飼料がまだトーセイ製粉だったときに入社されたんだった」
「私がトーセイ製粉最後の入社でした」
「飼料部門がトーセイ製粉の子会社としてトーセイ飼料になったのはそれからすぐでしたね。それからトーセイ製粉のほうがなくなってしまって元々の親会社の明研製薬についたんでした」
 金田さんがなつかしそうに言った。
 それはわたしも聞いたことがあった。人が口にする物を作ってきたからなのか、製薬会社と食品会社というのは昔から関係が深い。今だって製薬会社が食品関係の部門を持っているところがある。トーセイ製粉はずっと以前になくなってしまっていたけれど、トーセイ飼料は巡り巡って明研製薬の関連会社として三光製薬の傘下にいる。そういう時代の流れの中で金田さんたちは働いてきたんだ。
「こうしてうちの会社がなんとか生き残ってきたのも金田さんはじめ、諸先輩の方々のおかげです。ありがとうございました」
「所長、長い間ありがとうございました」
 岡本さんと共にわたしたちも一礼した。用意していた花束をわたしから渡すと金田さんはとても
うれしそうに受け取った。
「私こそこの営業所はじめいろいろな人たちに世話になりました。長い間、ありがとう。岡本さん、三上君、瑞穂ちゃん、これからもがんばってくれよ」
 そう言って金田さんは岡本さん、三上さんと順番に握手をした。三上さんとは手を振るように大きく握手をしていた。そして最後にわたしの手を取った。
「瑞穂ちゃん、ありがとう。元気でがんばって」
「はい。ありがとうございました」
 笑顔で答えた。今日は笑顔で金田さんを送ろうって三上さんとも約束していたから。
 営業所を出る金田さんのためにわたしがドアを開けると廊下の先には何人かの人たちが待っていた。孝一郎さん、稲葉さん、そして浅川さんも。
「これは常盤課長」
 孝一郎さんに気がついた金田さんに孝一郎さんが歩み寄った。
「所長、長いあいだお疲れ様でした。瑞穂ともども大変お世話になりました。私たちが結婚してこうしているのも所長のおかげです。この日が来てしまうのは瑞穂も私も惜しいことですが、所長には新たなスタートがおありだと聞いています。ご成功をお祈りしています。ありがとうございました」
 三光製薬の総務課長として、そして同時にわたしの夫として孝一郎さんが言ってくれるのがうれしい。そして孝一郎さんも手を差し出してふたりが握手した。
「いやいや常盤課長、私こそお世話になりました。瑞穂ちゃんは私の大切な部下でした。どうかこれからもふたり仲良くがんばってください。仲良くする夫婦喧嘩なら大いに結構。ね、瑞穂ちゃん」
 振り返って真顔でそう言った金田さんにわたしは顔が赤くなりそうだった。
「励みます」
 うわー、孝一郎さん、その答えって。孝一郎さんまで真顔で答えないでください。『仲良くする夫婦喧嘩』ってやっぱりそういう意味? 今まで父親のようにかわいがってくれた金田さんの親心というか、こんなこと言われたことなかったのに。
 でもそのおかげでわたしは金田さんを最後まで笑顔で見送ることができた。やっぱりいろいろな意味で金田さんはわたしの上司なんだ。今までも、これからも。
 孝一郎さんに続いて稲葉さんと浅川さんとも言葉を交わして金田さんはエレベーターのドアの前に立った。
「皆さん、ありがとう。これまでありがとう」
「所長、ありがとうございました」
 最後に三上さんが言って金田さんがエレベーターの中で頷いた。わたしたちが見送る中、エレ
ベーターのドアが閉まり、静かに降りていった。

 悲しくない別れはあっけない。
 胸に迫る思いはあっても、これですべてが終わりじゃない。ほんとうに金田さんの言った通りだ。振り返るとうしろには孝一郎さんがいてわたしを見ていた。
 ありがとう、孝一郎さん。
 会社の中だけど、今だけ夫婦に戻ってわたしはそう言った。今だけ、見つめ合って。彼の目が
やさしく応えている。

「瑞穂さん」
 真鍋副社長の声にわたしたちは振り返った。広いエレベーターホールに真鍋副社長が賀川さんと一緒に入ってきた。真鍋さんは岡本さんと三上さんに会釈をしながらわたしの前に来た。
「先日は失礼しましたね。金田所長の退職前と知らずに瑞穂さんを煩わせてしまいました。許してください」
「いいえ、とんでもありません」
 真鍋副社長に謝られて慌てて頭を下げた。
「瑞穂さん」
 今度は賀川さんの声に顔をあげたらいきなり手を差し出された。
「あんな話し方をして悪かったわ。でもわたしは本気だった。あなたと一緒に働いてみたいって思った。女性部下を本気で育ててみたいって思ったのはあなたが初めてよ」
 あんなことがあったのに賀川さんは真っ直ぐに立ち堂々とわたしへ話している。今日もポジティブ、前向きで変わらない。この人の強さはすごいと思う。こういう強さがあるから三光アメリカでやっていけるのだと思う。でも。
「そう言ってもらえるのはうれしいですが、わたしは今の仕事が好きなんです」
「そうね。あなたの仕事は誰にでもできることだけど、自分の仕事のペースを守りながらも他の人の仕事をスムーズにフォローしている。これは簡単そうに見えてなかなかできないって孝一郎が
言ったけど、確かにそういう仕事の仕方もある。あなたを見ていたらそれがよくわかったわ」
 賀川さんに言われてわたしはとなりにいる孝一郎さんを見た。孝一郎さんもわたしを見て、笑顔ではなかったけれどやさしい視線でわたしを見ていた。
「わたしは帰るけど、瑞穂さん、その気になったらいつでも三光アメリカへ来てちょうだい。待っているわ」
「三光アメリカへは行きませんが、孝一郎さんがアメリカへ行くことになったらわたしも一緒に行きます。ずっと先のことになりそうですが」
「あら、じゃあ孝一郎がアメリカへ来てくれる可能性は残っているわけね」
「必要なら彼は行くと思います」
 となりの孝一郎さんがびっくりして目をみはったのがわかったが、わたしは差し出された賀川さんの手を握って握手した。
「お帰りになるのですか」
「ええ、これ以上孝一郎に嫌われるとわたしの立場が危なくなるから」
 驚いたような目をしていた孝一郎さんが、賀川さんの言葉を聞いてにこっと笑った。
「とんでもない。あなたなら部下の人事の問題も解決できるでしょう。もとは私の教育係だったあなただ。それができないはずはない。相手が女性でもね。同じ総務として期待していますよ」
「ご期待に添えるよう努力します」
 賀川さんのかしこまった口調に孝一郎さんが手を差し出した。
「賀川さん、お気をつけて」
「ええ、ありがとう」
 孝一郎さんと握手をした賀川さんはにこやかな笑みを浮かべた。さすが、というか、やっぱりこういうところが賀川さんだ。
 真鍋副社長と一緒にエレベーターへ乗った賀川さんにドアが閉まる寸前、わたしはお辞儀をした。そうせずにはいられなかったから。顔を上げると賀川さんと目があった。わたしを見る視線が
ドアで遮られ見えなくなってもわたしはドアを見つめていた。
「瑞穂」
「はい」
 見上げればやっぱり孝一郎さんはわたしを見ていた。じっと見入るような、でもやさしい笑顔で。

「あのー、瑞穂ちゃん、おふたりの世界を邪魔して悪いんだけど、先週の出張の経費を」
「えっ、すみません。なんでしょう」
 三上さんに話しかけられて振り返ると孝一郎さんがちょっと苦笑いしながら手を振った。
「じゃあ、瑞穂、俺は仕事に戻るから」
「あ、はい。えーと、すみません、三上さん、経費の精算ですか」
 三上さんを追いかけながら営業所へ入った。もう三上さんは出かける仕度をしている。岡本所長がデスクのパソコンの前で仕事を始めている。金田さんを送り出した後の、これからの仕事がもう始まっていた。
 孝一郎さんも仕事を始めているはず。彼もきっと忙しい。これからも変わらず忙しい日々が続いていくだろう。
 でも彼と一緒なら、わたしも奥さんをやっていけそう。百点満点の奥さんにはなれそうもないけれど、孝一郎さんと一緒にいれば気負わずにできる気がする。なにより孝一郎さんが好きだから。
 だって……。




「おかえりなさい」
「ただいま」
 その日、帰ってきた孝一郎さんがビジネスバッグを持ったままキッチンへ入ってきた。
「今日はなに?」
 孝一郎さんはいつもと変わらない笑顔だった。
「カレーでーす。完熟トマトも入れてみちゃった。孝一郎さん、早く着替えて」
 彼の手からバッグを受け取って一緒に寝室へ入った。シャツのボタンをはずし始めた孝一郎さんの前に回ると残りのボタンをはずす。
「先にお風呂のほうがいいですか。今日はシャワーでもいいよね」
 シャツのボタンをはずし終わってズボンのベルトへ手をかける。
「カレーは温めるだけだし、サラダもできていますから」
「瑞穂」
 ベルトにかけた手を押さえられた。目の前で孝一郎さんが笑っている。
「顔が赤くなっているよ」
 そしてちゅっと頬へキスされたと思うと抱きしめられた。
「限界?」
 頬へ唇をつけられたままささやかれて更に血が昇った。だってですね、やっぱり自分でも恥ずかしいんですよ、こんなこと。
「……限界です」
 こんなこと言ったの初めて。わたし、きっと真っ赤になってる。熱くなった頬を孝一郎さんの手がするっとなでて顔を上向かせた。
「俺も限界」
 彼の言葉に一気にわたしの中のリミッターが振り切れた。

 今度は彼の手がわたしの服を脱がしている。肌にふれる孝一郎さんの手が熱い。
「瑞穂は悪い奥さんだな。今日は俺のほうが限界だってわかっていたんだろう」
「そんなこと、な……」
 あっというまに裸にされて、腰を抱え上げられるとベッドへ降ろされた。笑いながら言っている
孝一郎さんにも、もう余裕がない。
「わたしが、限界、だったの……」
 同時に彼の体がかぶさってきて、わたしたちを隔てるものはなにもない。
 ああ、やっと……。
 恥ずかしさも忘れてぎゅっと抱きつくと唇も、胸も、ぴったりと彼に重なった。ほとんど押される
感覚もないままに彼がわたしの中へ入って、熱く占められている。
「俺には瑞穂が必要だよ。絶対にね」
 孝一郎さんのきれいな顔が一瞬だけ切なそうに歪む。快感に耐えているような表情がわたしを震わせる。
「うん……」
 わたしにだって必要だよ。必要で、愛しくて、愛しているんだよ……。

 愛してる。
 聞こえる言葉が同じ思いを共有しているのだと思わせてくれる。
 愛してる。愛してる。
 愛する人に包まれて、そう繰り返す。何度も。

 孝一郎さん。
 子どもができて家族が増えても、アメリカへ行くことになっても、これからもずっとあなたの手を離さないように一緒に歩いていくからね。ずっと、ずっと一緒だよ。

 わたしたちの未来はまだ始まったばかりだ……。

終わり


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