副社長とわたし 奥様、お手をどうぞ 12
奥様、お手をどうぞ
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それから仕事を終えて、その後は金田さんの送別会だった。三上さんがこれは俺にやらせてと 言ってお店を手配してくれたのでわたしはお店の名前を聞いていただけだった。大阪へ帰る岡本さんと別れて本当に三人だけの最後の送別会になった。
「所長、長い間お疲れ様でした。お世話になったお礼にもなりませんが、俺たちからの感謝の気持ちです」
三上さんが感謝の言葉を言ってわたしたちは乾杯した。
三上さんが案内してくれたお店は銀座にほど近い場所にあって金田さんもわたしも初めてのお店だったけど、金田さんはお店に入るときから感心していた。古風で磨きのかかった棚には銘酒と思われる日本酒の瓶が並べられ、落ち着いた店内は重厚な雰囲気もあったけれど、まるで気さくな料亭という感じだった。気さくな料亭があるかどうかわからないけれど、ともかくそんな感じだった。個室に案内されて運ばれてくるお酒もお料理も素晴らしく、三上さんの気合いの入れようが良くわかった。
「三上君、いい店を知っているんだね」
調理師免許を持っていて自らが料理をする金田さんも感心している。金田さんは退職後は奥さんが住んでいる自宅のある町へ戻って料理店を開く予定だった。そこは営業所が東京へ移転するまであったところで、わたしの実家もある市だ。
「勉強になるよ。こんなところで送別会をしてもらえるなんて私も幸せだな。いただくよ」
久々にわたしも金田さんへお酌をした。あまり一緒に飲む機会がなかったけれど今日は最後まで付き合うつもり。あまり飲めないわたしだったけれど三上さんがこれは飲みやすいからとガラスの盃に冷酒を注いでくれた。
「おいしい。さすがお酒に詳しい三上さんが選んだお店ですね。こういうお店って予約を取るのが難しいんじゃないですか」
「うん。実はね、この店、常盤課長に紹介してもらったんだ」
「え、そうなんですか」
ちょっとびっくりした。
「へえ、そうなんだ」
金田さんも驚きつつも聞いてきた。
「以前に俺、常盤課長に連れてきてもらったことがあるんです。古風だけどすごくモダンでいい店でしょう。常盤課長が来るだけあります。金田所長の送別会だって言ったら常盤課長が紹介してくれて予約を取ってくれたんです」
「ほお。それは常盤課長にもお礼を言わなきゃねえ、瑞穂ちゃん」
「いえ、お礼なんて。お役に立てれば孝一郎さんも喜んでいると思います」
金田さんもわたしの盃にゆっくりとお酒を注いでくれた。
「常盤社長はじめ常盤課長にもたいへんお世話になったからね。ありがとう、瑞穂ちゃん。常盤課長になら帰ってきたときの廊下でのこと、任せておいても大丈夫だよ、きっと」
金田さんにも廊下でのことは聞かれていたんだ。でもそう言われて、なんだかわたしは胸が詰まりそうだった。
「瑞穂ちゃんだって常盤課長のこと怒ってないよね。あれはやっぱり課長のせいじゃないみたいだし」
「怒ってないですよ」
三上さんに言われてちょっと笑って答えた。なんだかわたしと孝一郎さんのことのほうを心配されているみたいだ。わたしって怒ると恐い? 三上さんにそう思われているのかも。
「常盤課長、この前も私に言っていたよ。結婚してからも瑞穂ちゃんは良くやっているって。自分と結婚して三光製薬のビルの中ではいろいろと気をつかうこともあるだろうに、以前と変わらず仕事も家のこともがんばっているって」
「え……」
知らなかった。孝一郎さんが金田さんにそんなことを言っていたなんて。
賀川さんのこと、丸投げしちゃって悪かったかな。どうなったかな……。なんて考えながら手に 持ったお酒の盃を見ていたら三上さんが
「ほらほら、瑞穂ちゃんももっと飲んで」
と言ってまたお酒を注いでくれた。三上さんが明るく座を取り持ってくれている。
「所長、店を開店されたらぜひ呼んでくださいよ。俺たち一番乗りで行きますから」
「店の名前は考えてあるんだ。ほら」
そう言って金田さんは名刺サイズの紙を取り出したので、わたしと三上さんは思わず身を乗り出した。それは食べ物のお店でよく置いてある店名や電話番号などが書かれているカードだった。
「こころうお、ですね」
三上さんがカードに書かれた店名を読み上げた。わたしにも渡されたカードに黒の毛筆タッチで書かれた店名だった。
心魚。
「こころ、うお」
わたしも声に出して言ってみた。こころうお。
「いいですねえ。すごくいいと思います。所長にぴったりだと思います。ね、瑞穂ちゃん」
大きくて明るい三上さんの声にわたしもうれしくなった。大きくはなくても落ち着いた、美味しい磯料理を出してくれるお店に違いない。心を込めて、心から楽しんで。本当に、とても、とても金田さんらしいお店。きっと……。
うれしいのに、ぽたりと涙が落ちてしまって慌てて涙を拭った。
「すみません。金田さんが夢をかなえる第一歩になるのに、泣いたりしたらだめですよね。今日はわたし、泣いちゃいけないって思っていたのに……」
それ以上言えなかった。
もう泣かないつもりだったのに、止めようもなく涙が溢れてくる。
「瑞穂ちゃん、泣かないでよ。俺まで泣きたくなる」
「すみません、三上さん……」
急に肩を落とした三上さんの言葉にまた涙が溢れてきた。本当は三上さんも寂しいんだ。わたしみたいに泣いたりしないけれど。
「瑞穂ちゃん。みーちゃん、三上君」
金田さんがやさしくわたしたちの肩をぽんぽんと叩いた。声も出せずに泣いているわたしたちの肩を金田さんが自分の手で包んでいた。
「ふたりとも今まで世話になったね。長い間ありがとう。私は辞めてしまうけれどふたりの仕事が終わってしまうわけじゃない。これからも関東営業所をよろしく頼むよ」
金田さん……。
「岡本所長と力を合わせてがんばってほしい。いいね」
岡本所長と金田さんが言ったのが、もう金田さんは所長じゃないって言われているようで、わたしは……。
この日が来るのがずっとずっと先のような気がしていたのに。でも、あっという間にこの日が来てしまった。今週はずっと忙しくて落ち着かない日が続くかと思ったけれど、それでもこの日が来てしまった。
忙しくて、でも心のどこかで寂しくて。仕事のあいだも家にいるときもそれが頭から離れなかった。否応なく近づいてくる金田さんの退職をわたしはまだ受け入れられずにいたのかもしれない……。
送別会の最後の時間も過ぎていく。
最後に金田さんにお礼を言って、三上さんとふたりで見送った。帰っていく金田さんの後ろ姿を見たらまた泣けてきそうになった。
「すみません、三上さん、すみません……」
「いいよ、瑞穂ちゃん。所長の最後の送別会だもの」
「三上さん、よかったらもう一軒付き合ってください。このままじゃ帰れない気分です」
「そうだよね、瑞穂ちゃん。よし、今日は飲もう! 大丈夫、帰りは俺が送っていくから」
三上さんはそう言ったのにお店を出たところで急に立ち止った。
「うーん、俺じゃ役回りが違うって思ったんだけど」
「三上さん?」
くるりと振り返った三上さんが人が良いのかどうかわからないような顔で笑った。
「瑞穂ちゃん、やっぱり愛されてるんだね」
「え?」
ほらというように三上さんが指差した。その先には……。
「じゃあね、瑞穂ちゃん、また月曜日に」
「あ、三上さん」
三上さんは大きな体で手を振りながらもう離れていくところだった。あっというまに駅の方角へ三上さんが消えた。
「瑞穂」
孝一郎さんが近づいてきてわたしへ手を差し出した。
「迎えに来たんだ。うちへ帰ろう」
差し出された手に指を触れるとしっかりと握られて温かさに包みこまれた。彼の顔を見上げればやはりきれいで、そしてやさしい笑顔でわたしを見ていた。声にならず、うなずくだけのわたしの頬を残っていた涙が一粒すべり落ちていく。
「瑞穂もお疲れ様。がんばったね」
「ううん……」
「帰ろう」
「うん……」
タクシーに乗って、孝一郎さんに手を取られたままわたしは座っていた。お酒を飲んだので少し ふわふわするような感じがするけれど、足が重く疲れているんだと感じた。彼の手を握りながら夜のまだまだ人通りのある歩道や街並みを見ていた。
車窓を流れるような夜の風景にやっと今日という一日が静かに引いていく。今週は忙しくて、どこか落ち着かない一週間だった。仕事をしながらも金田さんの退職にわたしは地に足がついていなかったのかもしれない。きっとそう。自分ではわからなかっただけ。
そんなわたしを孝一郎さんは見ていてくれたんだね。こうして迎えに来てくれて……。
やっとすべてが終わったような気分でわたしは孝一郎さんにもたれてしまった。自然に腕が回わされて体が寄り添う。今はもうなにも考えずにわたしは目を閉じた。
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