副社長とわたし わたしの総務課長様 12
わたしの総務課長様
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12
年度初めの四月一日。
三光製薬では今日が入社式。新入社員でなくとも新しい年度の始まるこの日がなんとなく心を新たにしてくれるようなそんな雰囲気を感じる。
わたしたちの営業所には新入社員が入ってくるわけでもなかったけれど、今日は三人だけの朝礼があった。
「今日から新年度だね。今年度初めの仕事としては関東営業所への本社からの仕事の一部移管が五月までに行われる予定になっている。これは営業と事務と両方の仕事だから引き続き着実に進めていこう」
「はい」
「それから」
と、金田所長はここでわたしを見た。
「ふたりとも知っての通り、私は来年の八月で定年になる予定だったんだが、来年の八月を待たずに少し早いけれど今年の八月で退職することになった」
「えっ」
そう言ったのはわたしだけだった。三上さんはもうそのことを聞いていたらしかった。
「それは本当ですか、所長」
「うん。定年退職を一年早めたっていう形になるけれど、年度末で本社にそのことを話してそういうことになった。退職にあたってはこれから瑞穂ちゃんにもいろいろ手間をかけるかもしれないけれど」
「いえ、それは。でも……」
金田所長が退職する。
来年で定年退職だということはわかっていたことだけれど、それが早まるなんて思ってもみなかった。まだ来年までは金田さんがいてくれると思っていたのに。
そう思うとなんだかわたしはたまらない気持になった。
トーセイ飼料のこの営業所に入社してからずっと金田さんはわたしの上司だった。学校を出たてのわたしに事務の仕事だけではなくていろいろなことを教えてくれた。東京にも一緒に来て、この三光製薬のビルの中でもいろいろなことで助けてもらった。それなのに……。
「なんだ、瑞穂ちゃんらしくないな、そんな顔は。会社だって人だってだんだんと変わっていくものだよ。ずうっと同じだなんてそんなことはあり得ない。瑞穂ちゃんだってそう思うだろう?」
そう言って金田さんはぽんぽんとわたしの肩をたたいた。
「私の後任のことはまた改めて決定があると思う。いろいろと忙しくなるけれど私ももうひとがんばりするから、ふたりともよろしく頼むね」
「瑞穂ちゃん、元気だしなよ」
その後、三人で仕事を始めたけれど、自分ではいつも通りだと思っていても三上さんにはわたしが元気なく見えたらしい。金田さんがトイレに立つと三上さんがそう言ってくれた。
「所長は退職後はご自分のお店を開かれるんでしょうか」
金田さんが以前に話してくれたことのある定年後の計画。奥さんと一緒に磯料理のお店を開くという念願。
「すぐにってわけじゃないらしいけど、そうみたいだよ。いろいろと準備なんかもしているんじゃないのかな」
「そうですよね……」
「やっぱり谷崎さんかなあ」
「え」
三上さんが言ったことの意味がすぐには飲み込めなかった。
「金田所長の後任。今回の仕事の移管に谷崎課長が来ているのもその布石というか、準備なんじゃないのかな」
そうなのだろうか。ありえる事だとは思うけど。
「まあ、まだわからないけどね。谷崎課長は来週からまた来るんだよね」
三上さんに尋ねられてわたしは予定を確認した。
「はい、今週は年度末と年度初めなので本社を離れられないって言ってましたから」
「こっちへ移管する取引先っていうのは、ほとんどが谷崎課長の受け持ちらしいしね」
「そうですか……」
三上さんの話を聞いてもわたしは谷崎さんのことはどうでもいいという気持ちだった。まだ決 まっていないことだし、それよりも金田所長が退職してしまう、その事のほうが。
わたしの仕事は日々めまぐるしく変わっていくという仕事ではない。そう思っていたけれど、それでもいろいろな事が少しずつ動いていく。
三光製薬では今頃はきっと入社式。
孝一郎さんも裏方として会場にいるはず。入社式だからなのだろう、今日の彼は黒いビジネススーツだった。いつもよりフォーマル感のあるスーツ。
そして明日は研修所で始まる新入社員研修の初日に孝一郎さんも社内の一般業務について話をすることになっていると言っていた。きっと今日も明日も忙しいはず。
会えないだろうか。
今朝まで一緒にいたのに。
わたしは小さくため息をついた。金田所長の事を孝一郎さんに聞いて欲しい。わたしが話してただ聞いてくれるだけで、それだけでもいいから。
でも、そんなことは仕事が終わるまでは無理。そう思ってわたしはもう一度仕事へ集中した。
結局、その日は孝一郎さんと会えなかった。わたしはアパートへ帰って服や身の回りの物をまとめていた。たいした荷物ではなかったけれど孝一郎さんが今度の休みに車で運んでくれると言っていた。これも孝一郎さんと一緒に住むためだと思うと気持ちが浮き上がる。
夜遅い時間になって孝一郎さんから電話が入った。明日の金曜日には一緒に帰ろうと彼が電話の向こうで言った。
『荷物がまとまったなら明日、運ぼうか』
「でも会社が終わってからじゃ忙しいでしょ」
『瑞穂と早く一緒に住めると思えばなんでもないよ』
彼の言葉にちょっと笑ったけど。
『なんだか声に元気がないね。どうかした?』
「疲れたのかも。ゆうべのせいで」
今度は彼が笑った。彼は笑う声まで涼やかだ。孝一郎。
『瑞穂がそんなこと言うなんて。本望だけど。じゃあ明日は車で会社へ行くよ。帰りはそのまま瑞穂のアパートへ行けるように』
次の日の金曜日、わたしはいつもの通り仕事。
金田さんも三上さんもいる普通の一日。仕事も定時には終わりそうだった。孝一郎さんは研修所から帰ってきただろうか。研修所は神奈川にあるので夕方までには帰ってくることができると言っていた。
もうすぐ仕事も終わる。わたしが給湯室を片付けていると廊下のほうから孝一郎さんのお父さんらしい話し声が聞こえてきた。孝一郎さんの声も。
社長であるお父さんも研修所で話をすると言っていたから、孝一郎さんはもしかしたらお父さんのお供をしていたのかもしれない。
そう思って給湯室を出るとやはり孝一郎さんが常盤社長と一緒にいた。社長室へ行く途中のようでふたりともわたしに気がついた。
「お帰りなさいませ」
「おや、瑞穂さん」
「社長、お疲れ様でした。お話、ありがとうございました」
お父さんがわたしに話しかけようとしたところを孝一郎さんがすかさず遮った。そう、まさに遮るって感じだった。
「まあ、いいが」
社長であるお父さんがそう言って社長室へ入っていくと孝一郎さんは一礼してエレベーター ホールのほうへ戻った。わたしも同じように一礼してから孝一郎さんについていった。
「お疲れ様でした」
エレベーターホールで振り向いた孝一郎さんにそう言った。
「瑞穂は大丈夫?」
「大丈夫ですよ。仕事ももう終わりますし」
「仕事の事だけじゃなくて」
そう言った孝一郎さんがじっとわたしを見ている。
「ゆうべの瑞穂、なんだか元気がなかったから」
……え。
「なにかあった?」
孝一郎さん。
「……うん、ちょっと」
「話してくれる?」
うなずくと孝一郎さんがわたしの手を握った。この前のように。
「七時になったら迎えに来る。いいね?」
わたしはエレベーターに乗った孝一郎さんを見ていた。エレベーターの扉が閉じる前に孝一郎さんがちょっと手を上げて合図を送ってよこした。じっとわたしを見つめたまま。
なんだかそれだけでいいって感じ。
話を聞いてくれるって、そう言ってもらえただけで。わたしって単純。それだけで金田さんの事も漠然とした不安が晴れていくような気がして。
でも、わたしはその時後ろから聞こえてきた声にびくっと驚いてしまった。
「瑞穂ちゃん」
わたしはびっくりして振り向いた。そこには谷崎さんが立っていた。
「谷崎課長、どうされたんですか? 来られるのは来週だって」
「予定を変えて今日、来たんだ。ちょっと個人的な理由で」
個人的な理由、というその意味がわからなかった。
「きのう、九州営業所への異動を打診されたんだ。でも俺としては関東営業所に行きたいと言うつもりで考えていた」
「え……」
「金田所長が八月で退職されることは聞いたよ。でも、それがこっちへ来たいと思った理由ではないよ」
谷崎さんはエレベーターホールでわたしと向き合ったままだった。
「瑞穂ちゃんの彼って、あの人だったんだね」
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