庭の草陰 春1
庭の草陰
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少し、ほんの五分も歩いたところの川の土手には桜の木が何本か植えられている。地元の町内会か誰かが手入れをしているらしく、桜の木の下の雑草はきれいに刈られていた。けれどもここで花見をしようとするような奴はいない。まだ桜はやっと数えるほど咲き始めたばかりだ。
東京ではもう満開らしい。
テレビのニュースで見るだけだったが、青いビニールシートを敷いて満開の桜の下で飲んでいる人々。毎年変わらぬ花見風景。よくも飽きないものだ。
木々の芽がふくらみ、若葉が伸び始める。梅が咲いて、桃が咲いて、桜が咲いて、どれがどれだかわからない。そんな季節。芽吹き、伸びて、咲く。
「たまらんな……」
花粉症ではないけれど、山が近く、田んぼや畑が不規則に広がる整然とはしていない田舎の町はこの季節は過ごしやすいとは言えない。あたたかくなってきていても。
「たけのこ、食うかね」
となりの家のばあさんがビニール袋に入れたたけのこを持って来てくれた。
「昼に食べな」
「ありがとう」
俺がひとり暮らしだからだろうか、煮て味付けのされているたけのこ。
となりのばあさん、普段は挨拶するくらいで話もしないが、この季節になるとなぜかたけのこをくれる。きっとたくさん取れて余っているのだろう。
残っていた飯とたけのこを食べる。昼飯が終わってしまえばなにもすることもない。
画室に座り、ぼんやりと縁側の外を見る。
タバコを吸わない俺はなにも手にするものがない。ざらっところがしてある中から鉛筆を取り出して握る。クロッキーブックを広げる。
だからといって描き始めるわけでもない。なんとなく線を走らせ、また止める。習性のようなものだ。
誰も来ない。
庭の草が伸びている。
冬枯れの草の中からいつのまにかまた緑の雑草が伸びてきている。雑草でも新芽はやはり若い緑色をしているものだ。赤みがかったり、あざやかな緑色だったり、小さな葉は美しくもある。
かさ、というかすかな音。
日当たりのよい庭では猫が寝そべって体をくねらせている。
飼っている猫でもなく、俺がエサをやっているわけでもないのに猫がいる。庭を通り道にして、いつのまにか当たり前のように歩いている。そのうちに夜に金切り声のような鳴き声を上げるんだろう。去年もそうだった。
頼むからここで子どもを産んだりしないでくれよ。
猫は嫌いじゃないが、やっかいなことは嫌いだ。
猫を描いてみようか。
でも無理だな。動物なんて今までほとんど描いたこともない。だが、猫好きな人間には売れるかもしれない。そういう絵が欲しいっていう物好きがいるかもしれない。画商の城嶋ならそのあたりをうまくやるだろうな……。
眠る猫。
体をくねらす猫。じっと置き物のように動かない猫。
そういう猫を描くならば自分で飼うか、ある程度慣らさないとだめだろうな。じっとしていろと 言っても聞く相手ではなさそうだし。
夏の夜に板の間で眠っていた。
静かな吐息だった。
黒いタンクトップから出ていた腕。その腕に毛は生えていなかったが。
にゃあ、と言って笑った顔。
真っ直ぐな黒い髪の毛先をわざと不揃いのようにした今どきの髪型。高校の制服には似合わない髪型。そして真っ黒な瞳で。
三月が終わって。
四月になれば。
本気でそう思っていたとはな……。
電話があって来週、城嶋が来るという。
来なくていい。どうせ仕事の話だ。また描けというのだろう。城嶋の言うところの『人物』を。
桜は咲き始めてから一週間で満開になるという。
ちらちらと咲き始めた桜はもう枝いっぱいに咲いている。風に散る花びら。川の土手へ、石だらけの間を流れる川の水に落ちていく。流され、淀み、溜まっている花びら。
生温かい夜の空気。
ついこの間までは寒いくらいだったのに。
ぬるい空気の中でうごめく気配。
春の気配。植物の伸びる気配。虫が動く気配。
どうして春なんて来るんだ。
真っ暗な部屋に横たわって目だけを開いている。
厚い掛け布団が今夜は暑苦しい。足で脇へ蹴るようにしたまま。パジャマのボタンを全部はずして胸から腹を夜の空気に晒す。
寝苦しい。
まだ四月なのに。夏ほどは暑くないのに。蒸しているわけでもないのに、体がなんとなく熱い。
熱くなっている。
体が。
芯が熱くなっている。立ち上がって、硬く熱を帯びている部分。
案外、単純だ。
こんなことで。
手で解放してやりながら息を詰める。
いま、ここにいてくれたら、なんて思わない。
やっかいなことは嫌いだ……。
またとなりのばあさんがたけのこをくれた。今度はゆでただけのたけのこ。
知らないあいだに台所の上がり端へ置いてあった。
ばあさんめ。
たけのこを煮るのも面倒だ。
切って醤油をつけて食べてみた。味噌汁にも入れた。何度かそれで飯を済ます。残りは冷蔵庫へ突っ込んだまま。
「信さん、ではお願いしますよ」
城嶋はやはり仕事の話だった。
「ああ」
と唸るように言ってそれで承知した。仕事をしなけりゃ飯が食えない。
城嶋は画室を見回しながらかすかに笑ったようだった。
「なにか?」
「いいえ、変わり映えしない部屋だと思いまして」
「大きなお世話だ」
「来るんでしょう?」
「あの子」
「さあ」
そう答えた俺に城嶋はこんどはにこやかに笑った。男にしては線の細い、女のような笑い顔。でもこの男には妻も子どももいる。会ったことはないが。
この男の妻は、俺の描いた『人物』の絵を自分の夫が売っていることを知っているのだろうか……。
もう桜も満開を過ぎたな。
あっというまに咲いて、散っていく。風もないのに赤っぽくなった花は盛大に花びらを散らす。
土手の桜を見て家へ帰る。
野菜や肉を買った袋をぶらさげて。
家の低い塀越しに見えている草だらけの庭。だが、まだ夏ほどには茂っていない。陽のあたる草地のつもりか、今日も猫が寝そべって体をくねらせている。
それを縁側に腰を降ろして見ている、かおる。
「おみやげ」
かおるの差し出したのはビニール袋に入った、ゆでたけのこ。
「げ」
「げ、ってなんで?」
「なんでもない」
「そこの道のところで売ってたから。無人販売っていうの? お金、ちゃんと箱に入れてきたよ」
「おまえ、たけのこを料理できるのか」
「えー、別に。信は?」
別にってなんだ。高校生の文法は変だ。
高校生じゃないか。もう。
俺がたけのこを受け取ろうとしないので、かおるは袋を持った腕を突き出したまま、にっと笑った。鼻にしわを寄せて。
あいかわらずな奴だ……。
2010.04.09
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