白 椿 21


白 椿

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21


 なにも感じないで時間が過ぎてくれたらどんなにいいだろう。
 忙しい暮れから新年にかけて久乃は仕事を、家事を懸命にこなした。普段と変わらない顔で。久乃の顔を見ると何かをひそひそと言うような人たちもいたが、買い物も外出も町の人との関わり合いも務めて平気な顔を心がけて。
 そんな久乃を父も母も黙って見守っていた。


 年が明けて1月。すぐに和史の保育園も始まり、口数の少なくなった久乃だったがいつも通りの仕事をしていた。その日も和史を保育園へ送って家へ戻ってきた久乃だったが、今朝は香織が待っていた。
「ひさちゃん、久保田さんね、あさってアメリカへ行くって」
 あさって……
「好きなんでしょ。彼のこと」
「……好きだよ。でも……」
「会いに行きなよ。それとも、もう久保田さんのことは忘れる?」

 会いに行くことも、忘れることもできない。
 ここにいるって決めたのに。
 それでも礼郷への思いを消すことはできない……

 香織が久乃の手を取ってぎゅっと握った。
「ひさちゃん、あたしはね、ひさちゃんのこと、ずうっと偉いなあって思っていた。ひさちゃんはひとりっ子で自分が宮原酒造の跡を継いでいかなきゃならないってちゃんとわかっていて。 圭吾さんと結婚して和くんを産んで。でも圭吾さんが亡くなっちゃって。圭吾さんがやってくれるはず
だった仕事もまた手伝い始めて。ほんとにひさちゃんは家のこと考えているなあって思っていたんだ。そう、ひさちゃんはすごく良くやっているよ」
「香織ちゃん」
「おじさん、おばさんのためにも宮原酒造を支えていかなきゃならないってわかるよ。でも、ひさちゃんが家のためにすべて犠牲になっているなんて思わないけどね。ひさちゃんだって自分の家だから和くんを安心して育てていけるんだし。 片親で子どもを育てていくのってすごく大変なことくらいあたしにだってわかるよ。でも、だからって久保田さんのことをあきらめるの?」

 あきらめることなど。
「そんなこと……できない……できないよ……」

 香織がじっと久乃を見つめている。
 できるならば父母のためにこのままでいようと思っていたのに。自分の気持ちを押し込めていこうと思っていたのに、香織はそんな久乃の隠した心の奥底を見つめている。

 ここにいるって……いるって……決めたけど……

 このまま礼郷を失ってしまってもそれでいいの……?
 失っても……

 圭吾さん。
 わたしは……。




「香織ちゃん、わたし……わたし……行ってくる」
「ひさちゃん」

「行っておいで。久乃」
 不意に後ろからした母の声。
「お母さん……」

「香織ちゃんに久保田さんへ連絡してほしいって頼んだのはお母さんだよ」
「お母さん」
「会いに行っておいで。おまえが久保田さんをあきらめないのなら行っておいで。でも帰ってくるんだよ。お母さん、和史と一緒に待っているから」
 お母さん……

「待っているから。待っているからね」
 母は和史と待っていると言った。行ってこいと、でも和史のところへ帰ってこいと。和史が待っているからと。

「うん……行ってくる。ありがとう……香織ちゃん、おかあさん……」




 …………
 何を願うことも、もう許されていないのかもしれない。ただ和史の母親として生きていこうと思うことであきらめようとしていた。
 でも、あきらめられるはずがない。また礼郷の姿を見てしまったら。また彼の腕に抱きしめられてしまったら。

「久乃」
「礼郷……」
 今ほど彼を恋しいと、愛していると思ったことはない。今までの思いさえどれほどのものだったのかと思わせるほどに。
「少し……痩せたみたいだ」
 にじむような礼郷の笑顔。

「そんなことない……和史を産む前に戻っただけだよ……」
「うそつき」
 やさしく言う礼郷に久乃のあごが震えている。
「久乃はうそつきだな。いつからそんなうそつきになったの」
「ごめん……」
 うなじに息の触れるたび、かすかな快感が流れる。まるで初めての愛撫のように何度も何度も繰り返される。柔らかい乳房を、肩を、首筋を愛撫する礼郷の手。

「僕は弱い人間だ……。久乃が結婚しているのがわかっていたのに、初めて会った時から忘れられなかった。久乃のことは忘れようとしたのに……どうしようもなかった。 久乃のご主人が亡くなったのを知ってから……いつでも久乃を探していた。いつでも久乃を待っていた。ただ会いたくて」
「礼郷 ……」
「今も久乃を苦しめたくない、そう思っていてもどうする事もできない。久乃をあきらめることも、さらってしまうこともできない」
「礼郷、やめて」
「自分の力で久乃を幸せにすることもできない……」

 違う。
 礼郷がわたしをさらえないんじゃない。彼はわたしが捨てられないものを知っている。

 家業。両親。和史。
 久乃の捨てることのできないものたち。いつもそこへ還ってゆく。

 それでも、また誰かを失うことはもう、いや……。

「あきらめない……」
「久乃」
「会えなくても、電話できなくても、わたしはあきらめない。何年でも待っている。だって……」
 久乃の頬に涙が落ちていく。でも泣いていない久乃。
 久乃はいつだってそうだ。
 泣いているのに決して泣いていない……。

「礼郷が好きだから……ずっと、ずっと思っている。礼郷が長い間わたしを思っていてくれたようにわたしも礼郷を思っている」
「久乃……」
「礼郷が……好きだから。ずっとずっと好きでいたいから」

 泣いているのに、どうすることもできないのに、自分の腕の中でこんなにも弱いのに。
 久乃は……。
 泣いているのに、決して泣いてはいない久乃……。

「待っていてくれるの……?」
 また落ちていく涙。でも久乃はほんの少し笑った。
「何年だって待っている。愛しているから、だから思っている。礼郷を……」
 
 好きだからもう失いたくない。二度と大切な人を失いたくない。

「ん……」
 すくい上げられた唇が離れる瞬間に声にならない声がもれる。
「はぁ……」
「久乃、久乃……」
 
 ああ、あなたの声でわたしの声を消して。
 わたしの何もかもを消して。あなたの手で。
 
 今だけは、何もかも……
 …………


2009.05.17

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