白 椿 3
白 椿
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入院する父に付き添って時沢にある総合病院へ来た礼郷はその病院が予想以上に規模も大きく、父は昨年拡張されたばかりの新しい病棟へ入ることがわかり安心したのだった。2日後には姉の孝子が見舞いに来ると言っていたが、父へペットボトルの水やお茶を買っておいてやろうと
礼郷は1階にある売店へ降りて行った。病室の冷蔵庫やテレビは専用のプリペイドカードを差し込んで使うようになっていて、そのカードも買うつもりで礼郷は売店へ入った。
飲み物を選び、カードはレジで売っているのか、それとも自販機かと見回しながら礼郷は立ち止った。箱を持って広くはない売店へ入ってきた女性。
……宮原久乃。
久乃は礼郷に気がつかないようだった。彼女に会ったのはもう1年も前のことだ。けれども礼郷がじっと見ていたので久乃もそれに気がついた。
「あ、えっと、確か……」
「久保田です」
「あ、和泉屋さん」
久乃の顔がわかった、という顔になった。
「お久しぶりです」
「はい。……久保田さんはお見舞いですか?」
「ええ、まあ」
礼郷は曖昧に答えたが久乃はそれ以上聞いてはこなかった。親しい間柄でもないのでこういうことはあまり突っ込んで尋ねたりしないのだろう。礼郷はレジで会計を済ませると売店の前で久乃が出てくるのを待っていた。
「配達ですか」
「はい」
「売店でお酒を売っているの?」
久乃がちょっと笑った。
「まさか、病院でお酒を売ったりしたら怒られちゃいます。レジの人からお届け物を頼まれたんです」
「そうだと思った」
礼郷が笑うと久乃もまた笑った。控え目な笑いだった。
そういえば1年前に大吟醸を買った後でまたそのうちに注文しよう、会社の部長や酒好きの同僚へあげたあの酒は評判がよかったと思いながらも忙しい毎日にまぎれてそうしていなかった。しかし礼郷も夕方までは父に付き添ってそれから車で東京へ帰るつもりだったから宮原酒造へ寄れるかどうかわからなかったが、
それでも病院から車で15分ほどの宮原酒造へ礼郷は車を向けた。
「ごめんください」
夜の7時を過ぎていたのでもう開いてないだろうかと思ったが、宮原酒造の玄関の中は明るく灯りがついていた。棟続きのとなりが住まいらしかった。
「はい、あ」
奥から久乃が出てきた。
「すみません、遅くに。まだいいですか」
「どうぞ、どうぞ」
「じゃあ大吟醸を5本下さい」
「はい、ありがとうございます」
久乃が冷蔵庫から酒を取り出すその横顔へふと聞いてみる。
「お子さん、大きくなったでしょうね」
「はい。1歳半です」
代金を払い、家の前へ止めてあった車に乗る礼郷を久乃は玄関の外まで出てきて見送ってくれた。
「ありがとうございました。お気をつけて」
「ありがとう」
もう一度久乃の顔をよく見たいと思った礼郷だったが玄関の明りを背にした久乃の顔は逆光に翳っていてその表情ははっきりとはわからなかった。
幸い父の容体は落ち着いていて、一連の検査もカテーテルによる薬の投与も無事に済んで入院は3週間ほどで済むという。父の退院する日が月曜日だったので礼郷は前日に時沢町に隣接する市のビジネスホテルに一泊の宿を予約して病院へ向かった。翌日の診察を受けて何事もなければ退院の許可が出るだろうと
看護師から説明を受けてから父の病室へ行くと、父は白い封筒を用意して礼郷を待っていた。それを久保田家の菩提寺へ届けて欲しいという。
「年に何回かはこうしてお布施をあげるものなんだよ」
礼郷へ教えるように父が言った。
車で久保田家の墓のある寺へ向かい、礼郷が車を降りて庫裏(くり)のほうへ行こうとすると寺の西側に広がる墓地の手前の手桶やひしゃくの置いてある水場の小屋のむこうにちらっと薄いピンク色のトレーナーが見えた。
……あのトレーナー、もしかして。
水場の小屋の陰に近づくと離れたところに久乃が立っているのが見えた。礼郷からは久乃の横顔しか見えないが、墓へ花や水を供えているらしい。そのまま礼郷は物陰からじっと久乃を見ていた。久乃が手を合わせ線香の煙が見える。
宮原家の墓もこの寺か。お参りにきたのだろうか。
礼郷も寺まで来たのだから自分の家の墓参りをしていかなければならないことに気がついたが線香も何も持ってきていなかった。しばらくして久乃がこちらへ戻ってくるのを見て礼郷は寺の庫裏へ向かった。
出てきた住職へ挨拶をして父からだと言って白い封筒を渡し、線香を売っているところを尋ねると、どうぞ寺のものをお使い下さいと言う。気さくに線香を10本ほど差し出されて礼郷はありがたく受け取ってから住職へ尋ねた。
「そういえば宮原酒造の娘さんもお墓のほうにいました。あのお宅もこちらのお寺なんですね」
「川上屋さんの。そう、あの人もよくお参りに来て下さる。まだお若いのに、お気の毒に。ご主人を亡くされて」
まだお若いのに、お気の毒に。ご主人を亡くされて……。
礼郷が出てくるとすでに久乃の姿はなかった。本堂から墓地へ続く脇にはきれいに刈り込まれた生垣が続いていた。礼郷は久乃が出て行ったであろう寺の門のその先へ続く狭い道をじっと見つめながら立っていた。
2009.02.05
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