白 椿 紅椿 5
紅 椿
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時沢と東京のほぼ中間にある温泉地の古い老舗旅館で礼郷は待っていた。
日曜日の夜になってやっと久乃がやってきた。案内されて礼郷のいる部屋へ入ってくる。
「待っていたよ」
礼郷の言葉にも久乃は目を上げなかった。コートを着たまま黙って座卓の前に座っている。
「どうしたの」
それでも何も言わない。
「久乃に会いたいとそう思っているのに久乃は会ってくれないんだ。だから」
「ごめんなさい……」
礼郷が立ち上がって庭へ面した部屋のガラス戸のところへ行った。広い自然の山の一部を庭にした離れの庭だった。外の寒さに冷えたガラス戸のむこうはすでに暗い。3月の末とはいえ山の中の木々に春の気配はなく、庭に置かれた小さな灯りがあるだけだ。
礼郷は風呂へ入った後だろうか、浴衣と羽織姿だった。
「経営に困っているそうだね」
「工場を一部建て直した後だから」
「どうして話してくれなかった?」
礼郷がガラス戸から振り向いて向き直った。
「礼郷さんに迷惑かけられない。礼郷さんは宮原の仕事とはなんの関係もないもの」
「君の仕事でも?」
なにも答えない久乃。
「困っているんだろう?」
「大丈夫よ。なんとかなるわ」
「……そう。久乃がそう言うんなら。じゃあ今晩はここに泊っていけるだろう? いや、帰したくない」
一瞬、久乃の心の中に迷いが湧き上がる。来週の月末には落ちる手形がある。それまでに何とかしないと。でも、それを礼郷に言うことはもうできない……。
久乃はあきらめを表さないようにして立ち上がった。
「ここ、良いお部屋ね。露天風呂があるんでしょう? 入っていい?」
礼郷と同じ浴衣と羽織で出てくると礼郷の姿は部屋になかった。洗面所のほうで音がする。久乃が奥の部屋の襖を開けるとふたつの布団が延べられていた。部屋の隅にある古風な鏡台の前へ座ると礼郷が部屋へ入って来た。
髪をとかしている久乃を礼郷は布団へ座って見てる。黙って見ている礼郷の視線を背中に感じても心が緩むどころか不安な居心地の悪さを感じるだけだ。それでも久乃は立ち上がると礼郷の前へ行った。
「夕食は?」
礼郷の問いに久乃は静かに首を振った。
「済ませてきたから……」
抱き寄せられて礼郷の腕が体へ回ってきた。布団へ倒されるようにされて、礼郷の腕の中なのにかすかに緊張してしまう体。久乃の浴衣の襟元を広げようとしていた礼郷の手が途中で止まった。
「心ここにあらずって感じだね。僕に抱かれるよりも気になることがあるんだろう」
強張る久乃の体。それが礼郷にわからないはずがない。久乃は体を離そうとしたが礼郷は離さなかった。
「久乃は体のほうが正直だ」
「ちょっと疲れているだけ。……何でもないの」
「どうしてそんなことを言うんだ」
やっと礼郷が久乃を離した。襟元を合わせ直す久乃を礼郷はいつにない厳しい目で見ている。
「そんなに久乃が困っているのにどうして僕に話してくれなかった? 僕のせいでもあるんだろう? それなのに……。そんなに僕は赤の他人か」
「その話はしたくないの。ごめんなさい、帰るわ」
立ち上がろうとした久乃の手を礼郷は押さえた。
「久乃は僕と結婚したくないの?」
「今はできないわ……」
「どうして」
答えない久乃になぜ、と言うように礼郷の顔が曇った。
「久乃は僕よりもお父さんのほうが大事か」
…………
礼郷に苦しい思いをさせているのは父だ。
父はいまだに礼郷のことを認めたわけではない。和史のために礼郷のことを認めることができない父。
それでもお父さんはわたしに再婚までは無理強いしなかった。
広田屋さんがわたしに再婚話を持ってきたのはわたしに仕事から手を引かせるためだった。再婚させてネットの販売から手を引かせて……でもお父さんはそれを断ってしまった。礼郷とのことを認めてはいなくても。そのせいで……。
圭吾さんが亡くならなかったら。
わたしがネット販売を始めなかったら。
……わたしが礼郷を好きにならなかったら。
ネットでの販売もやめろとは言わなかった父。その父のためにも、もう宮原酒造を見捨てられない。
…………
「僕に融資させてほしい」
「そんな、会社としての借金の額なのよ。それに抵当も担保にできるような物もないんです。お金の形(かた)にするものなんて、もう何も……」
「いや、あるよ」
「あるって……」
「久乃のお父さんへ融資の代わりに僕たちの結婚を認めさせることだってできるよ」
「えっ……」
言葉の奥に冷たさを秘めた礼郷の言葉。そんな金と結婚を引き替えにするようなことを礼郷が父へするとは思いたくない。父を金でねじ伏せるような、まさか、そんなことを礼郷が……?
久乃の手がきつく礼郷に握りしめられている。その痛みをこらえるようにうつむくことしかできない。
不意に礼郷が久乃の体を押し倒した。
「僕は久乃と結婚したい。金と引き替えと言われてもいい。久乃と結婚したい」
「そうまでして……」
自分の体の上にいる礼郷の顔を見られない。
このひと言がどんなに彼を傷つけるかわかっている。
「そうまでしてわたしが欲しいの……」
「抱いてそれで気が済むのなら礼郷の好きなようにして。そのつもりで呼び出したのでしょう?」
「……見損なった」
暗く陰った礼郷の瞳がそう言った。
「そこまでうそを言うなんて、久乃はそんな人じゃないと思っていたのに」
2009.06.11
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