白 椿 紅椿 3


紅 椿

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 久乃の父が黙っている。
 工場の中で醸造タンクの並ぶそれらを見回しながら。
「そんなことはみんな嘘だ」
 やっと発せられた苦々しい父の声。

「社長」
 久乃の父のまわりを杜氏たちが取り囲んでいる。白い作業服を着た、昔から宮原酒造で働いてくれている人たち。この人たちは冬の酒造りの時期だけ隣の県から働きに来てくれている杜氏で、住んでいるところの名で呼ばれる人たちだった。
「なんだってそんな話が出てくるんだ」
「社長、わたしらはそんなこと、ひと言だって言ってません。いくらここの土地の人間じゃなくても、そんな自分で自分の首を絞めるようなことは」
「わかっている。たちの悪い噂だ。うちの酒がだめになるか、いつも通りの出来上がりになるか、それはいずれわかることだ。いつも通りのものをちゃんと作っている。出来上がればなにもかもわかる」
 久乃の父の確固とした口調に杜氏や工場の社員たちが納得したように持ち場へ散り始めた。そして工場の入口に立っていた久乃へ父が振り返った。
「大丈夫だ。おまえはなにも心配しなくていいんだ」

 宮原酒造で今期醸造している酒がおかしくなっているという噂。いったいどこからそんな噂が出てきたのか、久乃も父もわからなかった。この噂が出たのは1月の終わり頃。最初は笑い飛ばしていた久乃の父だったが、それよりも前から宮原酒造を取り巻く様子がおかしくなってきていた。

 礼郷が帰って来たのに。
 久乃は唇を噛みしめたい思いだった。彼はまた両親に会うと言ってくれたのに。それでもこんな噂、酒が出来上がればなにもかもはっきりとする。いいものが出来れば、という父の言葉通りほんのしばらくの我慢だ。そうすれば礼郷に時沢へ来てもらって……。
 そう思ってなんとかがんばっていたのに……。



「会えない? どうして?」
『今、忙しくて……どうしても』
「僕が時沢へ行くから」

 時沢へ行くつもりで電話をした礼郷は意外な久乃の言葉に何と言っていいのかわからなかった。
「どうしたの?そんなに忙しいの。じゃあ……」
『ごめんなさい、ちょっと今、電話していられないの』
 
 このところ何度電話をしても久乃は電話へ出ないことが多い。今日も何回も電話をしてやっとつながった電話だった。けれども礼郷はなにか落ち着かない久乃の様子に電話を置くしかな
かった。

 その夜。
「久乃? 僕だ」
 もう一度、久乃の携帯へ礼郷は電話をかけていた。
『……昼間はごめんなさい』
「忙しい時に電話してしまったみたいで悪かったね。今度の日曜日に時沢へ行くから。その日、お父さんはいらっしゃるんだよね」
『……ごめんなさい』
「久乃?」

『父は今、とても忙しい時期なの。……しばらく待ってくれないかしら。ごめんね、礼郷がせっかく来てくれるって言っているのに』
「いや、それはいいけど……じゃあ久乃は会えるだろう? 僕が迎えに行ってもいいから」
『わからないわ……』
「え」
『わたしも忙しいの。……ごめんね、また電話するから』
 一方的と言っていいような話し方で久乃が電話を切ってしまった。すぐに電話をかけ直そうかと思ったが忙しいと言われて礼郷はなにか腑に落ちない気持だったが、その時はあきらめるしかなかった。


 また礼郷は電話をしたが、何度電話をしても久乃は出ない。
 もう3月になろうとしていた。

 久乃はどうしてしまったのだろうか。本当に忙しいだけなのだろうか。
 成田で会った時の久乃。1年も会っていなかったから少し久乃の印象が変わったようにも思えたが髪形や服装のせいだと思っていた。それでも成田のホテルでは、裸で抱きしめたのは確かに変わらない久乃だったが。…… まさか他に男でも? そんなことは。久乃に限ってそんなことは考えられない。
 そんなばかばかしい思いへ落ち込みそうになって礼郷は笑った。何ということを考えているのか。久乃には和史もいる。小さな子どもを持ちながら働いている久乃が忙しいのは当然だ。
 その時、自分の机の上へ置いておいた携帯電話が小さく鳴って表示された久乃の名に礼郷は飛び起きた。
 
「え? 東京へ来ている?」
 久乃の言葉に思わず聞き返していた。
『夜遅くにごめんなさい。これから時沢へ帰るんだけど、その前に少し会えないかなと思っ
て……』
「今、どこにいるの?」
『礼郷さんの家の近くの電車の駅……』
「じゃあ、そこで待っていて。すぐに迎えに行くから」

 久乃はひとりで駅の前で立っていた。やはり黒いスーツにコートだった。
「礼郷……」
「久乃!」
 礼郷は我慢しきれずに久乃を抱きしめてしまった。駅の周りは夜遅くとはいえまだ人通りが
あったのにもかかわらず。久乃もじっとそのまま抱きしめられていたが、礼郷はすぐに久乃の肩を抱くようにして車へ連れて行った。

「僕の家へ行こう」
「ううん、もう遅いしお姉さんにご迷惑だから。わたしも最終の電車に乗らなきゃならないの」
「僕がこれから時沢まで送って行ったらだめ?」
「そんな、礼郷も明日仕事でしょ。悪いわ」

「……仕事、大変なの?」
 黙って首を振る久乃。
「ごめんなさい。ちょっと忙しいだけで礼郷に心配させて……わたしってまだまだだわ」
「和くんもいて仕事をしているんじゃ、いろいろ大変なこともあるだろう。無理しないで」
「うん……ありがとう」
 礼郷の言葉にやっと久乃の表情が緩む。礼郷が肩を抱き寄せると素直にもたれてくる。
 ああ、やっぱりこうして顔を見て話をしなきゃだめなんだ……。
 礼郷の腕に力がこもる。

「礼郷……」
「うん?」
「会いたかった……」
 小さいけれどはっきりとした久乃の声。
「僕もだ」

 礼郷がいたわるように何度も額へキスをしてくれる。久乃をやさしく抱きながら。

 いつだってやさしい礼郷。
 こんなにもやさしく抱きしめてくれる。

 彼の着ているセーター越しに感じるぬくもり。
 ずっとずっとこれが欲しかった……。

 久乃を胸に抱きながら礼郷の指が柔らかく久乃の頬をなでる。いつもよりもっとやさしい愛撫。
「愛している。だから僕に何でも話して。ささいなことでも何だっていいんだ。遠慮なんてしないで。久乃が思っていることを知りたいんだ」

 ……わたしの思っていること。
「わたしも礼郷を愛している。それがわたしの思っていることだよ……」
 礼郷が続きを待つように久乃を見ていたが、久乃はそれ以上何も言わないままだった。


 久乃は電車で帰ると言ったが、礼郷が車で時沢まで送っていくことで押し切った。 
「ごめんね……」
 久乃はそう言ってから少しの間会話をしていたが、やがて言葉が途切れていく。助手席で眠ってしまった久乃の体へ礼郷は自分のコートをかけてやった。

 やはり疲れているんだ……。
 何の仕事で東京へ来たのか聞けなかったが、久乃の表情には疲れがうかがえた。

 こんな時こそ支えてやりたいと思っているのに。
 そう思っていてもできない。一緒にいれば久乃が疲れていたら労わって助けてあげることもできるのに……。
 
 過ぎていく夜の道路を照らす街灯。幾筋もの光の陰になって過ぎていく町。家々。木々。
 それらを通り過ぎながら久乃と礼郷を運んでゆく車。眠ってしまった久乃を、久乃の寝顔を見ながら運転していく礼郷。
 暗い、そしてふたりだけの夜の中を過ぎていく。今はこの時がずっと続いていて欲しいと願うのは贅沢なのか……。


 時沢へ着くと久乃を起こすために礼郷は顔を下げて久乃の唇へキスをした。
「久乃、約束して。無理はしないと。和くんのために……」
 和史のために……?
 礼郷がささやくその言葉。
「久乃のためにもだよ」
 そうだね……。

 遠ざかる礼郷の車を見送りながら久乃は立ちつくしたままだった。別れる前に、もう一度やさしいキスをして帰っていった礼郷。
 冷たい冬の空気に体が冷え、風に髪が揺れる。それでも。

 礼郷。
 このまま一緒にいられるのなら、なにもいらない。
 今日も明日も礼郷といられるならば、なにもいらない。
 
 愛しあって、お互いが求めあっているのに。
 心からそれを望んでいるのに……


 わたしが助けて欲しいと言えばきっと礼郷は助けてくれるだろうけど、そんなことはできない。
 今はもう礼郷に来てもらうこともできない。

 今はもう……
 


2009.06.04

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