白 椿 紅椿 2
紅 椿
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2
数日後、その日も久乃がネット販売の発送の仕事をしている時だった。
「いるかね」
広田屋の主人が事務所へ入って来た。久乃の父よりも年上の広田屋はどっこいしょと言いながら応接用のソファーへ腰を下ろした。冷房が効いていてもせかせかと扇子で顔をあおぐ。
「いらっしゃいませ。父は工場のほうですが、すぐに呼びますので」
「いやあ、久乃ちゃんも忙しそうだねぇ。それかい? インターネットで売っているってのは?」
「はい、でもたいしたことないんです。あ、今、冷たいお茶をお持ちしますので」
「いや、いいんだよ。それよりこの前、お父さんに話しておいたんだがねえ、聞いてくれたかね」
「え、あの、何のことでしょうか」
「広田屋さん」
その時、事務所へ入ってきた父が久乃をさえぎった。
「申し訳ありませんが、その件はご勘弁願えませんか」
「ほう、断るということかね」
「お心遣いはありがたいですが、やはり二度も婿を取るというのはどう考えても。和史もいることですし、このままで、ということで」
「まあ、川上屋さんがそう言うのなら仕方ない。邪魔したね」
立ち上がった広田屋はそう言っただけで事務所から出て行ってしまった。
「お父さん、婿って……」
「広田屋さんはまたおまえに婿をどうかと言ってくれたんだよ。だが、もう婿はいいだろう。そういうわけだよ」
簡単に説明する父。
もちろん婿など久乃が望むはずがない。何事もなかったかのように仕事へ戻る父の後ろ姿を久乃は見ていた。見慣れた父の、いつもの背中。
お父さんは礼郷のことを認めていないのに、でも婿の話を断ってくれたのは、それは……?
◇
年が明けて1月になったら一刻も早く帰りたいと思っていたが礼郷の気持とは裏腹に帰国の日がなかなか決まらなかった。それでも礼郷は最も早く帰れるように調整して1月の月末ぎりぎりには日本へ帰る飛行機へ乗ることができた。
国際線の到着ロビーを出てきたところで久乃の姿を見つけたときには驚くというよりも見間違いではないかと思ってしまったほどだ。小さく手を振る久乃。
「おかえりなさい」
「うそみたいだ。久乃が迎えに来てくれるなんて」
「お姉さんに飛行機の時間を教えていただいたの」
「そうか。ただいま、久乃」
「おかえりなさい」
もう一度言う久乃。少し笑っている。
アメリカ人でなくても抱きあってキスをしたいところだが、礼郷はここは日本だと必死にそれは我慢するかわりに久乃の手を強く握った。
愛していると、会いたかったと何度も繰り返す言葉もすぐに途切れて口づけだけになる。夢中で交わすキスは熱を帯びたまま続く。礼郷が望んだとおりの、久乃が待っていたとおりのお互いが愛する人のぬくもりに我を忘れて求め合う。今はお互いがふれあうことだけを求めている。
切ないような久乃の声が礼郷の体に押されるたびにため息のような喘ぎに変わっていく。
「帰ってきてくれたのね……礼郷……」
「そうだよ、ただいま、久乃」
「待っていた……待っていたの……」
「僕も久乃に会える日を待っていた。こうして会える日を」
あっという間にふたりとも高みへと押し上げられて、それでも離れることもできなかった。ベッドの中で抱きしめ合いながらキスをしながら離れられない。
抱き合ったまま確かめるように何度も繰り返される言葉。見つめ合うお互いの視線がふたりの今のすべて。
「会いたかった。会いたくて、でも久乃が待っていてくれるとわかっていたから我慢できた。久乃もつらいんだってわかっていたから」
「もう、いいの……礼郷が元気で帰ってきてくれたから、それでいいの……」
力の抜けてしまったような久乃の言葉にやっと礼郷は久乃を抱き直した。以前のショートカットから今では肩へ着くくらいに伸ばしている久乃の髪へ顔を寄せるようにして首筋へキスをする。自分の胸へ抱いている久乃の背中をゆっくりとなでながら久乃の体温の心地良いあたたかさに包まれている。
お互いに求めあったふれあいの余韻が肌や体の内部に残っていた。
久乃はそのまま何も言わず礼郷の胸へ頬をつけている。
「ね、久乃。来週にでも僕が時沢へ行くよ。久乃のご両親へきちんと話をしたいんだ。今のままじゃあまりにも久乃がつらすぎる」
「……わたしはこのままでもいいわ」
「いいって……」
久乃の肩をなでていた礼郷の手が止まった。
「礼郷が帰ってきてくれただけで……これからもこうして会えるし。それでわたしはいいの」
「でも」
「いいの。今はこうしていられるだけで……また、会えなくなるよりも……だから……」
久乃が抱きつくようにキスをしてきた。柔らかな唇に礼郷の理性が吹き飛ばされる。
「愛している。愛しているわ。だから……」
久乃は先にベッドから出ると服を着て礼郷のところへ戻ってきた。東京へ来るためだろうか仕事用のような黒っぽいスーツで黒いバッグもビジネス用のものだ。いつもの久乃より落ち着いているというよりはなぜか年上な感じがした。
前に帰国した時に時沢で会ってからあれからもう1年が過ぎているのだ。1年前に会っているとはいえこの2年は久乃にとってつらい日々だったに違いない。それは礼郷にとっても同じだった。
「泊まっていけないの?」
「ごめんね、どうしても……今の時期は忙しいの」
「そうか、そうだよね」
礼郷は冬の今の時期が日本酒の仕込みと醸造の時期だったと気がついた。久乃は成田のこのホテルの部屋を予約してくれてあったが、こうして久乃が来てくれたことだけでも大変なことなのに違いない。家にはなんと言ってきたのだろう。
そういう久乃の立場を少しでも楽にしてやりたくて礼郷は日本へ帰ったらきちんとした形でけじめをつけたいと思っていた。それにはまず久乃の両親へ話をしなければならない。久乃はこのままでいいと言ったが礼郷はやはりなるべく早く時沢へ行こうと考えていた。
「ただいま」
その日はやはり礼郷もホテルへは泊らずに姉たちの住む家へ帰った。
「おかえりなさい、礼郷。お疲れ様」
「わー、礼ちゃんだ」
姉のあとから子供たちも飛び出してきた。
「慶君もさやちゃんも大きくなったなあ」
「礼ちゃん、おみやげは?」
「沙耶香、おかえりなさいでしょ」
「お菓子をたくさん持って来たよ。これもあるぞ」
「うわあ、かっこいいー」
和史へのみやげとして買ってきたものと同じアメリカ大リーグの野球帽に子供達が歓声を上げている。
「帰ってそうそうだけど、これからは久乃さんとのことをきちんとしたいと思っているんです。向こうのご両親にも会いに行くつもりです」
「そうか、礼郷がちゃんと話せばきっと許してくれるよ。2年という時間も経っている。いろいろな意味で時間をおいてよかったんじゃないかな」
夕食の後で義兄の佑介と話し合っていた。
「礼郷、早く時沢へ行ってやりなさいよ」
姉の孝子もそう言ってくれた。
2009.06.01
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