芸術家な彼女 3

芸術家な彼女

目次



 向かいのビルの2階にあるお蕎麦屋さんへ入る。
 私が何も言わないのに立原は天ぷらそばをふたつ頼む。相変わらず紙袋は返してくれない。
「まあ、食べなよ。腹、減ってるんだろ?」
 この人はどうでも私に食べさせたいらしい。
「いただきます」
 立原にではなく自分に言う。黙って天ぷらそばを食べた。立原も黙って食べている。
 立原がどんぶりを持ち上げて顔を覆うようにしてつゆを飲み始めると私はすっと手を伸ばして立原の側に置かれていた伝票を取った。
「ふぉぃ」
 どんぶりを持ったままの立原が声にならない声を出した。それから立原の足元に置かれていた紙袋をさっと引っ張って奪い返した。食べていて油断したんだろう。
「……あんた、かわいくないな」
 普段言われたら傷つくだろうけれど、今、この立原に言われても何とも思わない。紙袋を足で押さえて、伝票をポケットに入れて私は食べ続けた。もちろん全部食べる。
「ごちそうさまでした」
 すべての荷物を持ってレジに向かう。紙袋を離したらまた取られそうで無理に腕にかけたままお財布を出して立原の分も支払いを済ませる。
「なんだ、金持っているのか」
 ええ、あなたに恵んでもらわないほどには。
 お蕎麦屋さんを出てまたマンションの前に戻ったが私は入る気はない。
「お世話になりました。では」
「話、聞かないの?」
 あんたが話さなかったんでしょう、お蕎麦屋で。
「いいです。さよなら」
「おい」
 立原が紙袋を引っ張った。
「ちょっと、離してください」
 ふたりで紙袋を引っ張り合う。そんなことしたら…………。

 カチャーン。

 紙袋が破けて中に入れてあった「彩色皿」が歩道に落ちて割れた。紙袋の破れたところから重みで中身がぼろぼろと落ちていく。 散らばって転がる何本もの筆や定規や染料の入った小さな容れ物。
「あ……っ」
 慌てて紙袋を降ろし散らばったものを集める。なんで、なんで。
 今度こそ私は本当に切れた……。

 立ちあがって黙って立原を睨む。睨みつける私。
 なんであんたはこんな事をするのよ。
「あー。割れちゃったな」
 しかし立原は私の気持ちなど無視したように皿の小さなかけらを拾い集めている。
「さわらないでよ!」
 私は大きな声ではなかったが怒りを込めて言った。
 私の大切なものにさわるんじゃない。

 私が本当に世間知らずな娘だったら、苦労知らずのお嬢様だったら、ここで泣きだすか大声でわめくかしていただろう。地団駄踏みたい気分だった。 しかし何とかそれを押さえて落ちたものを拾い集めた。もうひとつの紙袋とショルダーバッグとボストンバッグにできるだけ詰め込む。それでも入りきれなくて手で抱える。
 私の大事な道具。これさえあれば、これさえあれば。野宿だって平気。そう思えた。不格好に腕からこぼれていく物をかかえて私は立原を睨む。

「ごめん。悪かった」
 荷物を腕に下げ、物をかかえて立っている私に立原がすまなそうにあやまった。すぐに歩いて行きたかったのだが荷物と手で抱えたものが落ちて歩きたくても歩けない。
「今沢さん」
 立原が私の名を呼ぶ。
「本当に他意はないんだ。今晩一晩だけでもあの部屋を使ってくれ。お詫びに」
 そして立原が頭を下げた。

 …………
 挨拶以外で男の人に頭を下げられたのは初めてだ。何のキャリアも学歴もない、人から見ればわけのわかんない仕事をしている私は頭を下げることはあっても下げられることはない。本当に。

 …………
「バッグ、持ってもらえませんか。歩けないので」
「あ? ああ」
 立原がバッグとそれからもうひとつの紙袋を持ってくれる。おかげでやっと私は歩けるようになる。立原がセキュリティのロックを解除してマンションの玄関へ入るとすぐに荷物用のカートを
持ってきた。私の荷物をどんどん乗せる。 そしてまたさっきの最上階の部屋に着いてしまった。

「これ、キー。部屋の中の物は好きに使っていいから。じゃあ、何かあったら俺の連絡先に電話して」
 部屋のドアの前で言う立原に黙って入ろうかと思ったが、こんな時に大人の常識が身についている私はそれでも小さく頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございます。今晩だけお世話になります」
 立原が感心したように言う。
「あんた、泣かないんだな」
 あんたの前で泣きたくないのよっ!
「あ、ちょっとここで待ってて」
 ?
 立原は隣の部屋のドアを開けて中へ入って行った。すぐに出てくる。
 ??
「これ、やるよ。どうぞ」
 スーパーの袋。なにかお菓子のような食べ物と飲み物のペットボトルが入っている。
 …………???
「でも……」
「じゃあ、部屋に入って」
「はい……ありがとうございます」
 部屋に入ってむしろほっとした。立原と会話しなくてすむから。彼の言っていることがわからなかった。意味ではなく意図が。意図があればの話だけれど。
 とりあえずエアコンのスイッチを入れて温度調節する。それからリビングのソファーへ座りこんだ。

 ……どうしよう。
 他の部屋を開けて見てみる? トイレやお風呂場を見てみる? 旅先のホテルや旅館でやるように? でもそんな気力残ってない。それにここは今夜だけなのだからあまりいじったりするのは気が引ける。

 どうしてこんなことになっちゃったのかなあ。原因はもちろん家賃滞納だ。だけど立原ってやつは……わけわかんない。何なのよ……。


2007.12.14掲載

目次    前頁 / 次頁

Copyright(c) 2007 Minari all rights reserved.