芸術家な彼女 2

芸術家な彼女

目次



「おなか、すかない?」
 は?
「だから腹は減ってないの? 今沢さん」
「腹は減っているんじゃなくて、立っています」
「……くくっ。そうか、そうだろうな。でもそれは俺からしてみたら不当な怒りだと思うけれどね」
 かあーっ、そこまで言うか。どうせ私の怒りは不当ですよ!
 むかむかして立原を睨みつけた。相変わらず気楽そうにうすら笑いを浮かべている立原。
なんだか楽しそうじゃないの? さらにむかつく。
 もう車から降りたかったがあと少しでアパートだ。ぐっと我慢する。

 立原が持っていたキーで開けられた部屋に入り、とりあえずボストンバッグと大きな紙袋を出す。仕事の道具を紙袋に放り込んだ。大事なものだけれど繊細なものではない。 造花用のこて、布、染料、筆や文具類を紙袋ふたつになんとか納めた。あとはボストンバッグに身のまわりの物を詰め込む。着替え、歯ブラシ、せっけん。実家に帰る気なんてない。
 ああ、これで私もホームレスだ。そう思うと情けなくて悲しくて涙が出てくる。今日もらったお金がなければ発狂していたかも。でもホテルに泊まれるほどのお金じゃないし、東京には友達もいない……。

 立原は開けたままのドアの内側でコートのポケットに手を突っ込んだまま壁に寄りかかって
待っていた。なんとなくこちらを見ているのでにじんだ涙に気付かれないように荷物を持つと彼の前に戻って頭を下げた。
「ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。家賃は必ずお返しします。少しずつでも」
「それだけでいいの?」
 テーブルや椅子は持てないし、台所の物も身のまわりの物も惜しいものなんてない。というより拾ってきたか100円ショップで買ったもので、たいした物がない。 私が黙ってうなずくと立原は「持つよ」と言って紙袋を持ってくれようとしたが、私は首を振って拒否した。
 これは大事な仕事道具。これさえあればいいんだ。

「送ってあげたいけれど」
 どこへですか。近くの公園? 駅の地下道? 橋の下?
「ちょっと付き合ってくれる?」
 どこへ? 何しに?
 立原の言葉に私は顔を上げた。
「夕飯。ちょっと書類を書いてもらわないとならないし」
 ああ、そうね、ためた家賃の返済に関することとか……でも。
「食事は結構です。書類ならここで書きます」
 自分でも潔いと思えた。立原はさすがに目が驚いている。自分でも強がりだとわかっていたけれど立原に対してちょっとだけしてやったという気分だ。 私は書類を受け取るとテーブルに戻ってサインをした。

 立原は私が部屋から出るとドアの鍵を閉め、そして「じゃあ」といって車に乗ると走り去って
しまった。 紙袋をふたつとボストンバッグ、いつも使っているショルダーバッグを持った私は今まで住んでいたアパートの前で茫然と立っていた。

 ああ、これは現実だ。これからどうしよう……どこへ行ったらいいのかなあ……。
 大事な紙袋の中身だけれど重たくて指に重みが食い込んでくる。お腹がすいたけれどコンビニかファミレスにでも行こうか。でも何か食べればお金がかかる……。
 歩き出せないでぼんやり立っていた。その私の前にすーっと車が止まった。
「やっぱりな」
 立原がドアを開けた。戻ってきたのか。
「どこにも行くところがないんでしょ」
 あなたのおかげでね。
 ……でもこれが立原の言う通り不当な怒りだってわかっている。私のせいだ。
「そんな顔しないでちょっと乗りなよ。寒いから」
 そう言って立原は私から紙袋とボストンバッグを取り上げると車の後部座席に放り込んだ。
「乗って」
 ううう、なんで。なんでよぉ。
「よかったら部屋を世話しようか」
「部屋?」
「俺は賃貸住居の管理会社だよ。いくらでも心当たりはある」
「でも……」
「ちょっといいところがあるんだけれど。見てみる?」
 そう言われてぐっと詰まった。私にお金がないのをこの人は知っているはずなのに。それなのに部屋を世話するってどういうこと? たった今、自分が追い出した私を?
「まあ、見るだけでも」
 そうか、あんたは管理屋じゃなくて不動産屋だったのか。
 立原が助手席を開けてくれたので仕方なく車に乗った。もうこの先どうなるかわからなかったけれど。

「夕飯、付き合ってくれる気ないの? おごるから」
「…………」
 思い出させるな。おなかすいていることを。
「遠慮しなくてもいいのに」
「うるさい」
 思わず言ってしまった。
「……人間て腹が減っていると怒りっぽくなるって本当だなあ」
 立原がおもしろそうに言う。
 うるさい、うるさい、うるさい! 人の気も知らないで。家賃滞納は私が悪くても、少なくとも腹が立つのはこの人のせいだ。
 きゅっと車が止まった。
「ほら、降りて」

 なんでこんなに大きなマンションへ入っていくのよ。まさかここなわけ……ないよね。
 エレベーターの着いた先は最上階。
「あの……」
 立原は私の大事な紙袋ふたつを持ってどんどん行ってしまうから追いかけるしかない。彼がドアの鍵を開けて真っ暗な部屋に入る。

「ここ……じゃないですよね」
 私は灯りのつけられた部屋の中を見てまたもや茫然とした。
 3LDK? 4LDK? 広いリビング。しかし空き部屋ではないだろう。ソファーセットとダイニングテーブルと椅子。テレビもある。
「ここは俺の会社が持っている部屋。だから俺が管理している。君さえよかったらどうぞ」
「は? 私が借りるんですか」
「そう、家賃は共益費込みで月30万だけど」

 …………悪い冗談だ。そんな冗談を聞くためにここへ連れてこられたなんて。
「紙袋、返して下さい」
 当然、私の顔が怒っている。
「最後まで聞けよ。ちょっとした税金対策でね。住人が必要なんだ。だからちゃんと住民票を移して住んでくれたら家賃はいらない」
 ばかみたい。そんな都合のいい話って。だいたい家賃はいらないって言ったってこの部屋にかかる電気代だけだって私には払いきれないかもしれないのに。この人、私のことを世間知らずの小娘とでも思っているんだわ。 だいたい税金対策なら他の方法でやりなさいよ。どうせ土地やマンションで儲けている不動産屋の手先なんでしょ。バブルはとうの昔にはじけたっていうのに、こういう会社ってしっかり生き残っているのよね……。

 ああ、なんで私はこんな文句を並べなくちゃならないんだろう。空しくなってきた。完全に切れている? この立原がこんなことを言うから? こんなことになっちゃったから? 涙が出そうだよ。でも絶対に泣かない。 この不動産屋の手先に泣いているところなんて絶対に見られたくない。

「光熱費とかは会社持ちだから。あんたが払う必要はないよ」
 …………
 まさか。でもやっぱりそんなうまい話はないだろう。も、もしかしてなんか悪い目的に使われるとか。
「信じないって顔しているな」
 コートを着たままの立原があきれたように言う。
「詳しく話すからちょっと話を聞けば? 向かいのビルに店があるから夕飯でも食べよう。ほれ」
 そう言って立原は紙袋をふたつ持ったまま出ていく。私がその紙袋を返してもらわないと困ることを読まれているのだ。


2007.12.08掲載

目次    前頁 / 次頁

Copyright(c) 2007 Minari all rights reserved.